ドイツ観念論哲学

        
カント

 

              観念論とは何か?
 

対象となりし事物は感覚と思惟が作りしものにあらずや
 

太郎:フランス啓蒙思想の次は@(             )ですね。ところで観念論というのはどういう意味なのですか?


花子:プラトンのA(         )も観念論の一種でしょう。イデアという範型というか本質を宿しているから、すべての事象は成り立っているという考え方ですから。


太郎:デカルトなどは、主観は精神的実体で、客観は延長的実体ということで、B(        )になっていましたね。それでも観念論なのですか。


先生:精神的なものと物質的なもののどちらを根源的なものとして捉えるかで、観念論か唯物論かを区別しますと、A(        )は観念論の典型ですね。デカルトのB(          )は、二元論という点ではバランスをとっていますが、「C(         )」を第一原理においてすべて展開しているという意味では観念論です。


花子:ではドイツ観念論はどういう意味で観念論なのですか
?


先生:それはD(        )が同一であるという意味で言われます。それで、ドイツ観念論はE(        )なのです。(笑い
)


太郎:思惟が存在とが同じだということは、対象である実在を思惟が正しく認識するという意味ですか。対象と認識内容が違っていたら、間違った認識だということですから
?


先生:それなら別に観念論でなくてもいいわけでしょう。認識というものについて考えますと、普通は認識対象としての事物と認識内容としての意識は、事物は身体の外にあり、意識は中にあるというように別物と考えられていますね。それがドイツ観念論では実は対象であるF(                        )と捉えるのです。


花子:「意識」ではなくて「思惟」ではないのですか
?


先生:意識には感覚から思惟までが含まれていますね。物事の本質まで捉えると思惟に当たります。「何々はしかじかである」というのが思惟ですから。ですから厳密にいえば、感覚から思惟まで使って世界を構成しているという立場がドイツ観念論だと捉えていいでしょう。


太郎:それにしても感覚や思惟が物質を構成できるのですか
?


先生:それはイギリス経験論のところで、バークリーやヒュームになると、事物も経験に還元されて、結局G(                   )だということになりましたね。それを踏まえているといえます。


.( @ )から( G )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。

事物は感覚の束 事物は意識によって構成されている ドイツ観念論 思惟と存在 
物心二元論 イデア論 考える我 同一哲学

 

            『純粋理性批判』
 

   ものごとをそれは何かと見極める理性は神に及びうるかは


花子:カント(17241804)1781年に『@(                  )』を世に問いました。題名の「純粋理性」を「批判」するというのはどういう意味ですか
?


先生:「純粋理性」は後に出てくる「実践理性」と区別される「理性」です。だから物事を認識する理性ですね。欲望を充足し、利益を獲得するためにどうすればいいか考える理性も含まれます。「A(         )」という言い方もあります。そして「批判」は「B(        )」です。A(         )で何でも証明できるというのは間違いなのです。宗教的なことはA(        )で証明すると矛盾だらけですし、道徳を科学的に理屈づけるのも見当違いです。「純粋理性」が適用できる範囲をはっきりさせたのが『@(                )』です。


太郎:ということは理論理性が認識できるのは、客観的な事物の世界だけで、主観的なC(             )は認識できないということですか、それではデカルトと同じですね。


先生:そうじゃないのです。客観的な事物を我々は、D(     )と思っていますが、カントはそれは我々に現れたE(    )でしかないというのです。だからD(       )は認識ではないというのです。


花子:?物が現れたのが現象でしょう。だったらE(    )がD(     )ではないのですか
?


先生:カントの場合は主観・客観の認識図式にこだわりますから、現象としての事物の性質が主観の感覚に属しているので、D(      )ではないというのです。


太郎:難しいですね。さっぱり分かりません。


先生:それでは、カントの認識論におけるF(                )について説明しましょう。

.( @ )から( F )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
物自体 現象 コペルニクス的転回 純粋理性批判 精神的実体 理論理性 限界付け

 

          認識論のコペルニクス的転回
 

       感覚をカテゴリーにて統合し構成したるが事物なりしか
 

花子:コペルニクスといいますと、天動説から地動説に@(       )を180度ひっくり返した人ですね。


先生:ええ、それに匹敵するような革命をA(       )にもたらしたと、カントは自負しているのです。私もだから人間論の分野ではコペルニクス的転回をもたらしたと宣言しているのですが、なかなか相手にされません。


太郎:先生の人間論のお話はいずれ暇ができたらうかがうとして、カントの認識論の大革命についてお話ください。


先生:カントによりますと、それまでの認識論はB(           )でしたが、カントはC(      )を唱えたのです。B(        )はこう考えます。客観的な事物が、鏡のような主観の意識に投映して像を結ぶわけです。その像が事物と一致していたら、その認識は正しいということです。それに対してC(       )はこう考えます。客観的な事物は主観が対象からもたらされた刺激によって、自らのD(              )したものだというのです。


花子:模写説が対象から主観へというのに対して、構成説は主観が対象に網をかけるみたいなので、方向が逆だからE(                   )なのですね。


太郎:それに模写説では認識されているのはF(               )としての事物ですが、構成説では主観が自分の生理的な感覚で作り上げたG(      )でしかないということですね。自分の生理的感覚を自分に含めるとしたら、見えているのは自分自身のH(         )でしかないということになりますね。


先生:そうなのです。宇宙の星を見ているといっても、それは網膜が感光しているわけで自分のI(           )なのです。するとJ(                   )だというバークリーと同じですね。それじゃあ客観的実在が存在するというのは疑わしくなってしまいます。そこでカントは、その事物を客観的実在としてのK(               )だという意味でB(      )にしたのです。


花子:なるほどイギリス経験論がヒュームのようなL(       )になってしまったのに対して、かろうじてM(       )で支えたのですね。でもM(       )は認識できないのですから、実在だといえないでしょう。


先生:それが理性批判の一つなのです。理性はなんでも認識できるみたいにすべてを説明しようとします。認識できなければ存在しないみたいに思うのです。でもそれは理性の思い上がりで、理性が認識できるものは限られています。現象としての事物の背後に、その事物となって現れた元の物自体がないと断定するのは理性の独断だということなのです。
 

.( @ )から( M )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
懐疑論 生理状態 認識論 物自体 コペルニクス的転回 事物は感覚の束 現象 物自体の現われ 世界観 客観的実在 
感覚を素材に構成 模写説(反映説) 構成説 生命活動 

        
感覚の形式としてのカテゴリー(範疇)
 

   物はみな時空の中に現れぬ、そは感覚のカテゴリーかは
 

太郎:でも事物の性質には人間の感覚によって捉えられるものと、感覚には依存しないものがあるでしょう。たとえば@(                   )などはあきらかに感覚に左右されない事物自身の性質ですよね。A(               )のように感覚には依存していません。だから事物を主観の感覚でしかないというのは言いすぎじゃないのですか?


先生:ピンクの色眼鏡をかけますと、すべての物がピンク色に見えますね。ピンクは実は物の性質ではなくて、眼鏡の色だったのです。ですからすべてピンクに見えたら、それは物がピンクなのではなくて、眼鏡か眼がピンクに染まっているのではないかと疑うべきです。
それと同様にすべての事物は時間的・空間的・質量的に存在しています。だから時間、空間・質量というのも事物の性質としてB(     )しているけれど、実は人間が事物を捉えるC(             )つまりD(                  )であって、物自体の性質ではないとカントはいうのです。


花子:ますます分かりにくくなってきました。人間は物事を時間的存在として、空間的存在として質量的存在としてなどいくつもの存在として捉えるわけですね。としたら、そうして捉えられているのは客観的な事物の性質でしょう。それだけ物自体が認識できているのではないのですか
?


先生:難しいと思いますが、繰り返し読んで、しつこく質問して、苦しみぬいて理解してください、カント哲学で苦しんだということが人生で大きな意味を持つのです。カントに言わせれば、それらが感覚である限り、主観に現れた自らの生理的な五官の感覚でしかありませんから、それで捉えられない物自体の性質はいくらでもありうるわけです。


太郎:たとえば時間・空間で人間は物を捉えるけれど、物自体はE(                    )であるかもしれないということですね。


先生:そうなのです。我々は時間空間の感覚で世界を捉えていますから、すべてのものは時間的にも空間的にも有限です。諸行無常・諸法無我でしたね。ところがカントによればそれは人間のF(             )、G(       )のことなのです。物自体にはそういうものを超越したH(                     )があるかもしれない。それはI(                           )、ないとはいえないというのです。


花子:物自体の他にも認識できないけれど、ないとは言い切れないものはあるのですか
?


太郎:たとえば、J(                     )も認識できないけれど、存在しないとは言い切れないものに入るのですか
?


先生:その通りです。それらは存在すると認識できないけれど、存在すると想像できる世界つまりK(       )に属しているとカントは考えました。


花子:それじゃあ、K(         )には純粋理性では通用しないので、別の理性が必要ですね。


先生:ええ、魂も現象界に関しては純粋理性で対応しますが、可想界にはL(           )で対応するのです。


.( @ )から( L )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
神だとか魂だとか カテゴリー(範疇) 可想界 実践理性 色や音や臭い 感覚の世界 純粋理性には認識できないけれど 
時間空間を超越した存在 現象界 永遠で聖なるもの 現象 感覚の形式  時間・空間・質量 

 

       『実践理性批判』その1道徳性とは何か?
 

         欲望や利害を求めて行へば、法に適へど道徳性なし
     
よき事を好みてすればなけれども、いやいやすれば道徳性あり
 

太郎:@(               )などは可想界に属していて、それは実践理性で対応すべきだということですが、カントは1788年に『A(                )』を世に問いました。実践理性とはどうしたらうまく目的を達成できるかを考える理性ですか?


先生:違います。そういうのは功利主義やプラグマティズムでいうB(          )です。カントは功利的に「どうすべきか」ではなくて、道徳的に「C(              )」を問題にしているのです。人間は欲望を実現し、利害を貫くためにいろんなことをしようとします。これを「D(        )」と呼びます。それは別に言われなくてもするわけですから、まったくE(       )はありません。


花子:自分のためだけではなく、人のためにもなることすると道徳性があるわけでしょう。


先生:厳密に言いますと、それは違います。公共性のある行いの決まりや慣習を広い意味で「法」としますと、カントによればそれは法に叶っているという意味でF(       )ではあっても、E(       )ではないのです。道徳性は、自分の欲望や利害に向かうG(                        )ところに認められるというのです。つまり我慢してみんなのために行わないと道徳的ではないわけです。


太郎:ずいぶんひねくれていますね。じゃあ、お年寄りの笑顔を見るのが好きな人が、自分の喜びで進んで、お年寄りに席を譲ったり、いろいろお世話をしてあげても、道徳的じゃないということですか
?


先生:そうなのです。シラーという大詩人がカントの『純粋理性批判』はすばらしいが、いやいやいいことをすれば道徳的だけど、自分の喜びでいいことをすれば道徳性がないという『A(                )』はどうも納得がいかないと言ったそうです。だから神は自分の喜びでいいことをされるので神には道徳性はありません。自分の欲望や私的利害を棚上げにして、H(                )しなければならない場面で道徳性が生じるとカントは捉えているのです。


花子:ということは行為の内容で道徳性を評価するのではなく、自分を抑えて義務に従おうとするI(            )で道徳性を評価するわけですね。あまりに形式的すぎますね。


先生:そういわれますね。要するに「無条件に善なのはJ(      )だけである」わけです。だからカントの道徳説を「K(          )」というのです。人命救助などの善行も動機が利己にあれば、道徳性は認められません。それでL(         )を追求するのは傾向性だから道徳性はありませんが、L(         )を犠牲にして、M(          )や公共の福祉に尽くすのは道徳的だということになります。


.( @ )から( M )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
何をすべきか 動機主義 実践理性批判 公共性を優先 道徳性 傾向性 御公儀 物自体、神、魂 行為の動機 道具的理性 
他人の幸福 適法性 自分の幸福 傾向性を抑制して義務に従う 善意志

 

 

              『実践理性批判』その2定言命法
 

   自らがなすべきことを決するに、たれもがなすべきことをえらべや
 

花子:じゃあ、「@(    )」というのは公共性の観点からなすべきことを言うのですか。


先生:ええ、それがA(                 )だということです。命令には「B(          )」と「C(           )」があります。「D(                             )」というのが仮言命法です。「もし腹が減ったら飯を食え」とか「もし一流大学に合格したければ勉強せよ」というようなもので、そうしたければだれでも命令されなくても、傾向性ですからそうするわけです。それに対して「E(                     )」というのが定言命法です。実践理性の命令はこの定言命法の形をとる法則としてF(         )と呼ばれます。


太郎:「無条件に」にということは、自分の欲望や利害は棚上げにしてということですね。それってルソーの「G(          )」を連想します。


先生:それはすばらしい連想です。カントはルソーが大好きで、『H(          )』を夢中で読んでいて、それで日課の散歩の時間が狂ってしまい、町の人がびっくりしたそうです。それぐらいカントは几帳面な性格だったそうです。だから定言命法で一番中心なのが「I(               )が、常にそして同時にJ(                   )として妥当しうるように行為せよ」というのです。


花子:「意志の確律」というのはどういう意味ですか
?


先生:幾通りかの行為の選択肢があって、どれを選ぶか、自分の意志で決定するのが「意志の確律」です。その場合に、ルソーの言った「G(         )に従え」というのと同様に、自分の傾向性を抑制して誰もが常になすべきだと考えられる行為をしなさいということです。


太郎:ルソーの場合は、全員参加の人民集会で一般意志を形成するのですが、カントの場合は、自分のK(        )で人民集会に参加している気持ちになって、自分の傾向性を抑制して公共性の立場にたって行動せよということでしょうか。


先生:全くその通りです。しかし何もそういう道徳性だけで行動せよといっているのではありませんよ。L(       )に叶っていれば、自分の欲望や利害に基づいて行動していてもいいのです。でもいざというときに、自分の行動が公共性に反してしまったり、公共性のために自己犠牲的に行動しなければならない事態になったときに、自分の傾向性をきちんと抑制できるかどうかで、その人の道徳性が試されるのです。


.( @ )から( L )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
もし〜ならば---せよ 適法性 一般意志 義務 エミール (無条件に)---せよ 心の中 汝の意志の確律 道徳法則 仮言命法 
普遍的立法の原理 実践理性の命令 定言命法
 

『実践理性批判』その3目的の王国
 

  たとへ身は手段の王国(くに)にありとても、魂(こころ)は常に目的の王国
 

花子:ということは、自分で自分を律する法律つまり@(         )を自分に制定して、それを守れる人が偉大だということですね。


先生:そうです。A(        )によって自分を律することを「B(    )」といいます。
B(    )できてこそ本当のC(    )なのです。自己を律する人間の主体性が「C(     )」なのです。人間の尊厳は,「D(           )」によって主体的に行動するC(    )たるところにありますから,カントは
「E(                    )は、決してF(           )としてのみ扱われてはならず,それ自身が同時に
G(    )として扱われるべきである。」と説きました。
 

太郎:ということは、人格を手段としてもいいわけですね、人格を手段にするのはけしからんという人もいるようですが。
 

先生:現実のH(         )は欲望や利害で結ばれています。人々は交換の原理で互いの労働や労働の成果を提供し合って、互いに手段にし合って生活しているわけです。つまり「I(            )」の住人なのです。ですからそれはいけないとはいえません。ただ互いに手段にし合うだけでは、人格の尊厳に心打たれる魂と魂のふれあいが通いません。ただ生活のため、私利私欲のため他人を利用するだけでは、互いにJ(    )でしかなく、心と心の暖かい関係は存在しませんね。それではせっかく人間として生まれてきても、本当に人間として生きたことにはならないわけです。互いの人格を目的にし合ってこそ、魂のふれあいが感じられるのです。


花子:ラーメン屋さんが生活費を稼ぐためにラーメンを売り、お客をその手段にするだけではなく、お客がラーメンをおいしそうに食べるのを見て、作りがいや生きがいを感じるとき、お客を目的にしているわけですね。

先生:そうです。互いに人格として尊重し合う社会を「K(           )」と呼んで,常に「K(            )」の住人のように生きるべきだと説いたのです。
 

太郎:カントは国際平和機構の設立を提唱したといわれますが、「目的の王国」と関連ありますか?
 

先生:大いにあります。国際社会の関係も人格同士のように互いに国家同士が尊重し合うべきだと説き,L(               )としての国際平和機構の設立とその下でのM(                )の構築を目標とした『N(                  )』を著し,恒久平和の実現を目指したのです。
 

.( @ )から( N )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
自己立法 単なる手段 集団安全保障体制 目的の王国 道徳法則 人格 市民社会 恒久平和
目的 実践理性 永遠平和のために 自由 手段の王国 道具 自己および他者の人格 自律 
 

       『実践理性批判』その4 道徳の要請としての宗教
 

   たとえ身は現象界に朽ちるとも永遠(とわ)の魂清らに輝く
 

花子:実践理性は「何をなすべきか」に応えるだけですから、結局神の実在や魂の不滅は証明できていませんね。


先生:その通りですね。カント自身はたとえ神が存在せず,魂も肉体と共に滅びるとしても,あくまで@(        )に対する尊敬の気持を失わなかったでしょうが,現世の現象界の遍歴を終えた魂が,不滅であって,魂だけの世界で傾向性に邪魔されずに清らかな永遠の交わりを出来ることを,A(       )の要請として求めたのです。つまり宗教はB(           )として成立するのです。
 

太郎:結局、神や魂の不滅は理性で認識するものではなく、信仰すべきものだということですね。ただし人間の理性で認識できないからといって存在しないとはいえない、とすれば、現象界を超えた可想界に、C(           )なものとして神や魂や物自体があると信じたほうが、いいということですね。
 

花子:しかしそういうD(    )に支えられなければ、道徳的に生きられないというのは情けないですね。
 

先生:カント自身は道徳法則を崇拝していましたから、たとえ神がいなくて、魂が不滅でないことが分かっていても、道徳的に生きたでしょうが、市民社会はどうしてもE(       )にながされやすいわけですから、人々が道徳性を見失わないためにも、不滅の魂を信じ、現象を超えたC(         )で聖なる世界の住人でもあるという自覚をみんなが持つためには、F(    )が不可欠だと思っていたでしょう。
 

.( @ )から( F )にあてはまる語句を次から選んで、記述しなさい。
宗教 エターナル 道徳法則 実践理性 道徳からの要請 信仰 傾向性

 

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