この論稿は『季報唯物論研究』の「人間論特集」の編集にあたって、執筆者の参考にと編集責任者のねらいを伝えるために
 書いたものです。決して同じ考え方や意図を強制するものではありません。ただれぞれが21世紀の始まりにあたって、人間論の今日における出発点をどのように考えているか、自分の問題意識と関わらせて論じていただきたいということです。

 

 

         二十一世紀の人間論の出発点ー「人間論特集」へ向けてー

                    提言者 やすいゆたか

      近代の終りに立ちて哲学よ歴史の意味と人間を問へ

佐々木:『季報唯物論研究』で「人間論特集」が企画されていて、やすいゆたかさんが編集責任者を引き受けられているそうですね。「人間論」というのは、よく聞く割には特集になるのは随分久しぶりな感じですね。

やすい:ええ、各地の大学で人間科学部が設けられ、高校倫理でも人間とは何かが大きなテーマに設定されているのですが、その割には、哲学的に人間論が大きな話題にされているようには見えませんね。

佐々木:哲学がよく読まれている割には、哲学の論争があまりなされていないようですね。それとあるいは関係あるのでしようか。

やすい:物事を理念から見ていく態度を哲学とすれば、現実は理念からはわりきれませんからね、「哲学」を振り回されて、現実を高踏的に批判されても困るというので、「哲学」批判がさかんです。人間論というのも、人間とはこういうものだという理念を立ててそれを論証するようなものだとしますと、そういう一面的な人間像からは現実の生身の人間の大部分は捉えられなくなってしまいます。そこで「人間とは何か?」という問の立てかたが、問題だということになります。

佐々木:そんなことを言っても、現実に人間論の中身は人間理解にとって大切ですよね。 

     考へて働きかけて遊ぶなりどれか一つを選ぶまじきや

やすい:それでわたしは「哲学の大樹」とか「人間論の大樹」という言い方をしているのです。かつて現代思想の三大潮流といえば、マルクス主義・実存主義・プラグマティズムだったわけですが、その際、その内のどれを選ぶかという問題だったわけです。しかし元来、根底的に社会の矛盾を捉え返して社会を変革するという思想と自由な主体として生き抜くという思想と最大限の効果をあげて実践していこうという思想は、現代社会においては相互補完的なものであるべきものでした。

佐々木:人間論で言えば、人間の本質を「理性」とみなす人間観と「労働」とみなす人間観は、階級対立が反映した敵対的ものであるかに解説する人もいたわけですが、とんでもない話で、人間の本質が理性であるからこそ、労働が成立するわけで、両者は相互補完的に捉えられるべきだということでしょう。

やすい:そうなのです。相互補完的なものとしますと、それぞれの人間観で捉えられて人間論は、それだけでは人間を一定の視角から一面的に取り扱ったものであっても、それは「人間論の大樹」に組み込まれることによって、人間の総体的な理解を助けることになると思うのです。例えばホモ・ファーベル(工作人観)とホモ・ルーデンス(遊戯人観)のような正反対の議論でも補完し合えます。

佐々木:その場合は、「人間論の大樹」の中に組み込む際には、自分が展開する人間観の一面性というものを自覚した上で展開すべきだということを弁えないと困りますね。自分の考えが絶対的な原理と考えて、自分の展開に入らない部分は排除しようとする態度にでてしまうと、ホモ・ファーベルから見てホモ・ルーデンスは悪ふざけにしか思えなくなります。

やすい:ええ、それは肝心な視点ですね。元々「ホモ・ファーベル」という言葉はベルグソンがはじめて使ったそうですが、彼自身はホモ・ファーベルの「環境を自分に合うように手を加えて獲得する」だけでは駄目で、ホモ・サピエンスとしてエターナルなものや聖なるもの求めるものでもなければならないという人間論だったのです。ですから遊びの中で創造性を追及したり、遊びの中に対象との合一を学んだりするという「ホモ・ルーデンス」は、ホモ・ファーベル論を補完するのです。もちろんホモ・ルーデンスで人間を全面的に論じられるわけはありませんから、ホモ・サピエンスやホモ・ファーベルで補完する必要があるのです。 

        禁断の木の実を取りて罪を得し人ははじめて己に目覚めぬ 

佐々木:「人間論の大樹」という立場にたちますと、現代の人間観だけでなく、『ギルガメシュ』『バイブル』に遡り、古今東西の人間観の歴史を総括して現代にも生きたものを見出していく必要がありますね。

やすい:その作業を一九九一年十二月から九三年九月まで『月刊 状況と主体』に「続二千年代に向けてー新しい人間観の構想―」と題して行ったのです。

佐々木:反応はどうでしたか?

やすい:ソ連邦の崩壊を受け、一応「近代の終焉」が区切りをつけた年だったと思います。そして新しい西暦二千年代というミレニアムが目前にある、絶好のタイミングだと自負していましたが、こちらの力不足か反応はもうひとつでしたね。

佐々木:それは過去の人間観を追っても、新鮮味が感じられないということでしょう。ジャーナリズムや思想界では常に新しいものを求めるのですから。

やすい:実は私はその前に『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』(青弓社 一九八六年刊)で既成の人間観のコペルニクス的転換を敢行しているのです。これが評判にならなかった。そのことに私は非常に深刻な打撃を受けているのです。それでこの『人間観の転換』の意義を古今東西の人間観を掘り起こしながら、人間観の歴史の中に位置付けてみようとしたわけです。そうすればただの問題提起にすぎないものが豊かな肉付きを持って分かりやすくなるのではないかと考えたわけです。

佐々木:人間観の歴史を掘り起こす作業は大いにやるべきでしょうね。近代が終焉し、新しい世界統合の時代が始まりつつあるというのが、やすいさんの『歴史の危機―歴史終焉論を超えてー』のテーマでしたから、そういう歴史のクライマックスに向かって、今までの人間観について整理ができていないと混乱するでしょうから。 

      異質なる心と心隔てども語り合えれば共に生きなむ 

やすい:現在進行中の脱近代の過渡期がどういう性格のものなのか、もっと大論争になるべきですね。それは人間論とも深く関わっています。我々はヤスパースの『歴史の起源と目標』を再評価し、「グローバル統合の時代」に入ったと宣言していますが、それが言えるためには人間が互いに対話と協調が可能で分かり合える存在だという前提があります。そういう楽天的な人間観に立っているのです。もし人間同志の異質性、他者性というのが決定的で、対話不能だとしたら、統合過程は挫折し、悲劇的な終末に向かわざるをえません。

佐々木:確かにやすいさんはおおらかで楽天的に見えますね。(笑い)

やすい:それは表面的な見方ですよ。悲劇的な結末になるのを恐れているからこそ、楽天的に語っているのです。学校にまで爆弾をしかけて残虐なテロを決行するテロリストや、そこまで追い詰める権力のやり方を見ていますと、暗澹たる気持になりますね。

佐々木:レヴィナスが、理性的人間観を批判して、他者性を強調していますね。かれはユダヤ人系の哲学者ですが、収容所を体験しています。近代理性には他者が許容できない、みんな理性で展開できると思っている。それで理性は自己の全体性を主張し、自分が包摂できない他者性を許容できないので、他者を抹殺しようとするというわけです。

やすい:だから互いに他者を認め合い、異質性を前提にした対話的コミュニケーションの構築を目指さなければならないのですね。対話や異質の共存が成り立つためにも、互いに平和的に共存する意志と努力が必要です。一方が権力や武力で押さえつけ、他方がテロリズムで対抗するという形では人類に未来はありません。

佐々木:人間論としてはそういう異質性を前提した他者との対話の可能性をどう扱うのですか。

やすい:ハーバマスのテーマにもなっています。人間論としては言語論に焦点を当てた「コミュニケーション動物」というか、「対話的人間」論の展開が期待されます。日本では尾関章さんあたりが頑張っておられるようですが。もちろん田畑稔さんたちの「アソシエーション革命」の立場も対話的人間論を前提にされているわけです。

佐々木:文化相対主義では価値の相対性を承認しあうことが必要ですが、一神教は独善性を表看板にしていますので、なかなか対話にならないという面があります。

やすい:しかしそれだけでは、戦争になりませんし、教義的にはともかく、現実には何も相手を皆殺しにしようというのではありません。ただ経済的・政治的・領土的に自分たちの勢力が脅かされている、存続の危機にあるということで過激な勢力が台頭するわけです。

佐々木:両者が共存共栄できる和解案をまとめることが出来れば、価値観の相異は、同じ神を信仰しているのですから、長い歴史過程の中で、相互批判と相互浸透を通して融合していけるものなのでしょうか。
 

     近代の知のあり方を問ひ直し、理性批判に如何に応ふや 

やすい:近代理性の全体性や排他性といっても、近代理性にはいろんな面があるのです。戦争やテロルもありますが、恐怖独裁や管理社会を構築すると共に、異質なものを包摂し、同化することによって、民主主義を成熟させてきましたし、社会を安定させようとするダイナミズムも持っています。

佐々木:大戦間時代に人間論がブームになった際、ホモ・サピエンス(叡智人観)が槍玉に上がったような気がします。その際、西洋近代の物質文明を作り上げてきた「近代理性」も批判されましたし、理性的な存在に人間を還元する傾向も批判されましたね。カッシーラーの『シンボルを操る動物』としての人間論などがその典型ですが。

やすい:近代理性は、ベーコンの新しい帰納法にみられるような「知は力である」という自然を支配し、利用するための道具的理性ですね。デカルトの主観・客観認識図式のような自然を機械的に捉えて、人間が利用できるようにする理性です。そのことによって生きた全体としての自然は見失われ、破壊されることになりました。

佐々木:カントに関して言いますと、カントは「人格を単なる手段としてだけでなく、同時に目的として扱え」といっているわけですから、人格以外の事物的存在は単なる手段として扱っていいと考えていたわけです。自然的・社会的事物に関してはやはり道具的理性で捉えていたことになります。

やすい:そのような人間の自然支配の結果、人間と自然が断絶し、人間に道具として支配されているはずの自然が人間から疎外され、逆に人間に敵対的に立ち向かうようになりました。 

      人間の身体として捉えなば自然の心吾が心なり 

佐々木:若きマルクスの「疎外された労働」ですね。そこでマルクスは人間を自然の一部だと捉え返し、自然を人間の非有機的身体だと捉え返す立場、貫徹された自然主義は貫徹された人間主義であり、貫徹された人間主義は貫徹された自然主義であるという立場を打ち出しました。

やすい:人間を単なる身体に限定せずに、人間によって獲得された人間の環境としての自然全体に広げたわけで、人間観が身体的限界を打破しているわけです。

佐々木:ところが現実には人間的自然が疎外されていて、人間にとって敵対的な非人間的な物として捉えられてしまった。マルクスは、本来は社会的諸事物や人間的自然を含めて人間を捉え返していたのですか。

やすい:『経済学・哲学草稿』の断片からはそういう解釈も可能です。ただし貨幣や価値という社会的規定が事物の属性と見なされることをフェティシズムとして批判する観点は『経済学・哲学草稿』でも確認できますので、事物と人間の峻別はこの段階から認められます。 

     価値こそは労働と物その区別止揚したるを倒錯なりや

 佐々木:マルクスの人間論に関してはなかなか整理が難しいようですね。それでは若きマルクスは人間の非有機的身体としての自然は、人間に含まれながらも、価値は事物には属さないで人間労働に帰属すると見なしていたということですか。

やすい:マルクスは、『資本論』では商品・貨幣・資本を事物の属性と捉えることをフェティシズムとし、抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)が価値で、それが事物に付着することで、商品・貨幣・資本という社会的規定性が倒錯的に事物に与えられていると批判しているのです。つまり資本主義社会は事物が価値という人間の本質を宿して人間に化け、人間関係を取り結んでいるかに見なされているとしました。だからフェティシズムという未開宗教に支配された社会だと診断しているのです。

佐々木:やすいさんは、価値は確かに人間労働の固まりではあるが、それは同時に事物化され商品となった人間労働の結晶なのだということでしょう。だからそれは社会的事物としての商品の本質を成すという把握ですね。価値は事物と労働の抽象的区別の止揚だとされています。

やすい:商品は事物としての人間の定在なのです。資本主義をフェティシズムとして批判するために、貫徹された自然主義と貫徹された人間主義の統一の課題を置き忘れてしまったのです。

      労働は内に住みたる抽象か、関わりこそが本質なるを

佐々木:マルクスの人間論で大きな論争点になっているのが、労働本質論と「社会的諸関係のアンサンブル(総和)」が本質だという議論が両立するかという問題ですね。

やすい:私は両立すると考えています。労働が本質だということは他の動物との比較で環境を変革し、獲得して人間が適応できるようにするのが人間の特色ですから、労働本質論は極めて当然の議論です。しかし個々の人間を見ますとだれでも労働をしているわけではないでしょう。現実的には、それぞれの人間を理解するためには、労働している人ばかりではありませんから、労働本質論では有効とはいえません。ですから「人間の本質は、現実的には社会的諸関係のアンサンブル」として理解すべきなのです。

佐々木:ただアンサンブル規定には「人間の本質は個々に内住する抽象物ではない」と断っているわけでして、理性や労働など抽象的規定で人間の本質を捉えるべきではないという意味がこめられているのではありませんか。

やすい:それは「本質」に対する誤解です。ヘーゲルの本質論では、本質は他者との関係を反省することによって与えられる規定性でして、それ自身に内住するものではないのです。労働にしても理性にしても対象との関係があってはじめて成立するものです。言語でもそうですね。ともかく労働規定かアンサンブル規定か二者択一の問題ではありません。旧来のマルクス主義では、「唯物論か観念論か」「マルクス主義か実存主義か」などの二者択一を迫る幼稚な議論が多くて閉口しました。人間本質論には二者択一論はもう通用しないでしょう。

   対象(もの)こそは吾が活動と捉えたる、物となり見、行うなりや

佐々木:若きマルクスの問題意識を発展させて、社会的諸事物や環境的自然を人間に含めるような人間論の展開を継承した人はいるのですか。

やすい:ハイデッガーの影響もあるのですが、「交渉的存在」というターム(用語)で環境的自然や社会的諸事物も含めて人間学を構築しようとしたのが田辺元や三木清です。「フォイエルバッハ・テーゼ」の「従来のすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみ捉えられ、感性的な人間的活動、実践としては捉えられず、主体的に捉えられていないことである。」の影響も受けています。

佐々木:ということは対象としての事物を人間実践として捉え返すということですね。人間の前に立ちはだかって、人間に敵対的に立ち向かってきている社会や、それを構成する様々な事物や環境的自然を自己の実践として主体的に捉え返したならば、それは人間的自然であり、自己の経験であるわけですね。


やすい:ですから西田幾多郎もこのテーゼには興奮したのです。人間と事物は他者ですが、人間は「物となって見、物となって行う」以外にないのです。それが行為的直観であり、絶対矛盾的自己同一なのです。この境地を切り開くのに三木清の人間学の冒険が大いに刺激になっています。

佐々木:マルクス・三木清・西田幾多郎が人間学で結ばれるというのは新鮮ですね。

やすい:それからグラムシも重要です。最近、鈴木富広さんのグラムシ研究で「歴史的ブロック」としての人間論が注目を浴びています。マルクスは、ヘーゲル左派の一員として現実的諸個人とは何かを追及するなかで、社会的諸関係のアンサンブルという本質規定に到達しましたが、グラムシはそれを高く評価したうえで、個人だけでなく集団や生産諸力を含めた「歴史的ブロック」に人間を見出そうとしたのです。人間を単に身体的個人に限定するのではなく、社会的諸事物も包摂した歴史的ブロックが人間だという観点ですから、人間観の事物への拡大として意識されているのです。

      ある物が他の物指す性質が人間という意味の大きさ

佐々木:やすいさんは事物を含めて人間という「人間観の転換」を打ち出されているのですが、その先駆者としてパースの「人間記号論の試み」を紹介されていますね。

やすい:ええ、パースはまず、人間とは思考過程であるとします。そして思考は事物が他の事物を指し示す事物の知的性質である記号なのだと言います。従って、人間は記号であるということなのです。ということは人間は単に身体的個人であるだけでなく、事物も含んでいることに成るでしょう。

佐々木:ただし、その場合の事物は思考過程を構成している事物ですから、やはり意識化された事物であり、客観的な事物ではないのではないですか。

やすい:パースは、デカルトのような実体としての魂や、魂の置き入れを認めませんから、心の内と外を区別するような二元論はないのです。世界の現れが心であり、目の前に世界が展開されるのが思考過程ですから、現実の事物がそのまま心を構成しているということになります。その意味で記号としての人間は、事物が他の事物を指し示す事物の知的性質だといえるのです。

佐々木:そうなると世界が思考過程と同一だということになり、人間が世界だということになりますね。そうしますとジェームスの純粋経験論と重なってしまいませんか。

やすい:感覚として与えられるのはセンスデータで、これを先行する思考のデータに照合して解釈するわけです。そうして知覚像や認識像が形成されます。それが世界として現前するわけですね。現前した薔薇が本物かどうか、別人にも薔薇に見えているかどうかは、次の段階です。そして知的共同体によって互いの認識内容のずれが照合され、本当に薔薇だったかどうか、百合ではなかったか、造花だったのではないかとか検討されます。その上で皆が本物の薔薇だったという確たる根拠を示されれば、納得してあの時現れたのは本物の薔薇だったということになるのです。これが認識と客観的実在との一致ということです。

佐々木:それならやはり認識界と実在界の二元論ではないのですか。

やすい:いや、そういうつもりではないのです。それならセンス・データが実在だということになりますが、パースによりますとセンス・データは大変貧弱なものです。形成された薔薇は眼前に事物として現れており、これが主観にとっての現前する客観的事物です。それが実在とずれているという問題です。それは知的共同体で照らしあわされ、さまざまな情報が付加されて共通の認識が形成されて、客観的実在と一致するというわけです。

        国家とは人が作りし機械なり、そは強大なジャイアントなり

佐々木:やすいさんは、ホッブズの人間論にもびっくりされていますね。

やすい:ええ、国家が人工機械人間だという認識はすごいと思いますね。どうして人間論を論じている人々がその事にあまり触れないのか不思議ですね。

佐々木:それは比喩として語っているという解釈でしょう。

やすい:思想史的に捉えれば比喩じゃないことが分かるのですが。デカルトは、動物と同じで身体は機械だとしました。これは比喩ではありません。ところが言語を巧みに操れるのは機械では考えられないから、魂が置き入れられていると考えたわけです。それに対してホッブズは、心身二元論に大反発していまして、身体の働きとして唯物論的に言語活動を説明したのです。ただ言語の起源だけはどうにも説明がつかなかったので、神が言語能力を授けたということにしたのです。

佐々木:それは人間機械論の説明ですね。人間機械論は少なくとも比喩ではないということですね。

やすい:ええ、その上で国家は人間たちが合体して作った、つまり人工の機械人間だということです。ですから人間機械と同様に中枢や筋肉や神経や血管や手足が何に当たるかを展開しているのです。個人としての人間が機械だという展開をしておきながら、そのような機械を部品として作られた国家が機械でないというのもおかしいでしょう。その上、中枢としての意思決定機関があり、その意志の本人は肢体としての人民であるという構造になっていますので、国家が人間として捉えられているのを比喩と考える余地はないのです。

佐々木:十九世紀の国家法人説も比喩ではないのですか。そしてついでに会社や学校、教会などの組織体も法人として扱われますが、法的人格が認められている組織体も人間だといえるわけですね。

やすい:国家法人説は、主権を誰が行使するのかという問題で、君主・議会・人民などが国家の最高意志を決定しうる場合に、君主主権、議会主権、人民主権と呼ばれていたわけです。ところがそれぞれのパワーが拮抗していますと、カリスマをもった独裁者が台頭してきて、力の均衡の上に専制的な政治を展開したりすることがあります。しかしそれらの独裁者も国家の発展にとって有効でなくなりますと、失脚させられます。そこで国家自体が生き物であって、自己の保存と発展を自立的に図っているのではないかと考えられていたようです。十九世紀はダーウィンの世紀と呼ばれて、全てを生物学的に説明する傾向があったようです。これは論者によって本気で国家や組織体を人間と考える人と単なる比喩と考える人がいたでしょうね。

佐々木:ファイヒンガーはカント哲学の実用主義的な解釈から、真理を生活目的に有用な仮構と見做しました。森鴎外は合理的に考え,行動する前提として,ファイヒンガーの哲学を援用し,「かのように」考える「かのように哲学」という立場を表明しました。それはたとえば「自然科学における元子,精神における自由,宗教における神」が実在するかに仮構するのです。そういう意味で国家や組織体を人格存在に仮構していたのではないのですか。

やすい:それは人間を既成の個人的な身体主義の枠内に限定して捉える人間定義を自明として考えているから、そう思えるのです。そういう思想家も多かった、大部分かもしれません。しかし和辻哲郎が「人間」を単なる個人ではなく、同時に「世の中」でもあると捉えましたね。個人と社会の弁証法的統一だと、また三木清は「交渉的存在」で事物も含めて人間学を構想しました。そして西田幾多郎は「物となって見、物となって行う」と言いました。その時、既成の個体的な人間概念ははじけ飛んでいたはずです。

佐々木:たしかに環境的自然や社会的事物を「交渉的存在」だと把握することによって人間存在が明らかになるということはいえると思いますが、だからといって、服も花も団子も人間だなんてことにはなりません。非人間的な物を獲得して人間の支配下に置き、人間の道具にしてもそれが人間になるわけではないのです。

やすい:私も何も個体的人間観が間違いだというのではありません。服と生身の身体のどちらが人間かといえば生身の身体が人間です。桜は春に愛でる花であって、人間ではないし、団子はおやつの食べ物であって人間ではない、当然です。したがってそういう身体を人間と見る観方から人間観を転換しようというのですから、コペルニクス的転換だというのです。

佐々木:そんなこと勝手に宣言されてもついていけないでしょう。

       貝殻は貝の身よりも貝らしき貝殻含め貝と見做しき

やすい:私の「人間観の転換」の内容を紹介するのが主目的ではありませんから、突っ込んだ議論は、そちらに廻しますが、ユクスキュルの『生物から見た世界』という著作がありまして、これが新しい捉え方のヒントになります。

佐々木:ダニにはダニ特有の世界があり、ダニに固有の対象からダニ的世界が構成されているのでしたね。

やすい:猫に小判と言いますが、猫には小判という対象はないのです。それぞれの動物は身体をはじめとする固有の事物をいくつかもっていて、それらとの相互交渉によって自己保存を図っているわけです。その際に、身体だけが自己保存されるのではなく、環境的な固有の事物も再生産されなければその動物はサバイバルできません。

佐々木:なるほどビーバーの身体だけでなく、ビーバーダムや水中家屋も含めたビーバーの環境世界全体をビーバーとして捉えようということですね。それはビーバーの身体とビーバーの環境として捉えていればいいわけでしょう。

やすい:ビーバーダムはビーバーとの関わりにおいて本質的に規定され存在しているのです。しかもビーバーの生活内容を全面的に規定しています。もっと分かりやすくいえば、貝の貝殻などは貝の身体ではないけれど、貝以上に貝らしい存在です。蓑虫の蓑なども蓑虫のアイデンティティですよね。人間の場合は、人間の身体もとても美しくてそこに執着する人も多いのですが、それ以上に人間生活を構成する衣食住や生産、娯楽、文化、その他様々な社会的事物や環境的自然に人間性が現れています。

佐々木;でもそれらが考えたり、苦悩したり、実践したりするわけではありません。人間の本質を持っていないでしょう。

やすい:人間の本質が労働だからといって、皆が労働するわけではありません。また労働も身体だけの活動ではありません。『資本論』のように労働者の労働力だけが労働して価値を生むということを大前提にしますと、価値移転論や特別剰余価値の生産のように無理な論理展開になってしまいます。考えたり、苦悩したりするのも、身体だけではなく環境的自然や社会的諸関係の中で、諸事物の働きかけもあって思考や感情が成立するのですから、物が考え、苦悩しているという面も捉えるべきです。

佐々木:そういうのを感情移入というのでしょう。勝手に人間が自然を代弁していると思い込んでいる。自然に依拠しているけれど、人間は自然のほんの表面としかかかわることはできないのであって、自然はもっと根源的で、汲み尽せない異質のものではないのですか。

        客体が主観に自己を定立す、認識論に逆転発想

やすい:そこを衝かれますと、こちらも長考せざるを得ないのですが、環境的自然の奥にある不可知な根源的自然のようなもの、これは推論としては成り立ちます。しかしそれもカント的な意味で理性の限界を超えているのなら、想定しても仕方がないわけです。我々は人間理性の世界に住んでいるわけで、その中での星も花も海も風も人間によって構成された人間的な物であるという、カントの認識論におけるコペルニクス的転換の意義は、人間論にとって非常に重要だと最近痛感しています。

佐々木:それじゃあ汎人間論になってしまいます。人間理性に限界を設けることで、人間の自然支配の傲慢を告発しなければならないのに、それでは近代理性の全体主義にまるまる漬かっているではないのですか。

やすい:それを汎人間論と言おうが、汎神論と言おうが、唯物論と言おうが呼び方はどうでもいいのです。それに人間理性といってもただ考えるだけではなくて、感性的な活動でもあるわけです。つまり身体としての自然の持つ感性の活動でして、対象である事物と対になっています。つまり自然的事物が感性的なものとして己を現わしているのです。このように認識は単に主観の活動であるだけでなく、事物の自己実現、自己対象化でもあるのです。それは人間理性に現れた人間化されたものであるにしても、認識は単に主観の活動であるのみならず、同時に事物の自己定立であるという意味で客体の活動でもあるのです。その意味で、この人間主義は自然主義でもあると言えますね。

佐々木:それはかなり混みいった論理展開ですね。

やすい:なかなか整理が難しいのですが、パースの人間記号論を踏まえますと、認識論のコペルニクス的転回が構想できますね。

佐々木:認識は単に主観の働きであるばかりでなく、同時に客体の働きでもあるということですか。それは既に純粋経験論などの主観・客観図式を超克する議論とどうちがうのですか。

やすい:純粋経験論は経験が実在だということです。それを反省した時に、主観の側の意識と客観の側の事物に分かれ、物と物との関係として事態や現象が解釈されるという論理です。その場合、物は実在じゃなく、経験についての解釈にすぎないということです。それに対してパースの場合は意識として構成された事物が他の事物を指し示して思考が展開される。それは思考ですが、現実の事物の展開ですから事物が考えているともいえるのじゃないかと、私は受け止めているのです。当然事物の展開としての思考が実在なのです。そこで客観的実在との一致や、観念論の正当性がとなえられることになります。

     粉々に弾け飛び散るその刹那そのインパクト何を生み出す 

佐々木:いろいろ人間論を論じてきましたが、最近やすいさんは、あれほど論敵とみなしていた廣松渉を再評価されておられるようですね。

やすい:私は廣松が事的世界観を打ち出して物的世界観は倒錯だとしたのに対して、物的世界観を擁護しました。でも、事的世界観というのも別に間違っているわけではありません。二者択一というのはおかしいので、相互補完的に捉えるようになったのです。「哲学の大樹」という発想が生まれたのも、廣松渉批判で鍛えられたからだと思います。結局、廣松渉は物的世界観を倒錯視だとして、事的世界観だけ正しいという偏向に陥ってしまったところがいけないわけです。

佐々木:やすいさんに言わせれば、物的世界観だけに固執したり、その反対に事的世界観だけに固執したりするところに一面性があるのですね。弁証法でも「対立物の統一」と言いますが、対立物があってその統一として事象が成立すると捉えるのと、事象があって、それは対立する要素の統一として説明できるという捉え方があります。やすいさんはその両方の見方ができるということですね。

やすい:事的世界観の人間論版、事的人間論で言えば、人間も事の連続として捉えられることになります。身体的な物体が慣性的に自己保存を行うというイメージではなく、サバイバルするために次々と事を起こしインパクトを周囲に与えていく、そのインパクトが次の事件を惹き起こしていくというイメージですね。西田幾多郎の表現だと「死して生きる」という断続的な生き方です。常に自分をはじけさせ、事件を巻き起こしていく、その中で今までの自分は死んでいるのです。でもそのインパクトが強いと、連鎖的に次の事件が惹き起こされていきます。そこで自分はまた生きてはじけて、死んでいくのです。

佐々木:個体的には、物として捉えれば連続的に生きていても、「物」は実は事という点の断続なのだと捉える事的世界観からは、生きることは、その都度死んで、死のインパクトで生まれることに他ならないということですね。

やすい:ですから、常に花火を打ち上げなくてはいけません。人々の胸に焼き付いて、どうしてももう一度見たいと思わせなければ、次の花火は用意できませんから。ともかく物・ハード中心から情報・ソフト中心へと経済社会がシフトしてきましたから、事的人間というのが物的人間よりも新しい社会に適応できるのかもしれません。もっともソフト化というのは表面的なことでして、その底には工業の高度な発展があります。つまり物・ハードの発展が前提ですから、事的人間としてして生きようとしたら、物的にも強靭な肉体と精神、高度な知的・技術的能力が求められることになるでしょうね。

佐々木:その意味でも事的人間論と物的人間論は相互補完的だということですね。

 やすい:でも事的に生きるときは、物的なアビリティに頼るのは禁物ですよ。事を起こすと言うのは表現に生きるということですから、しかもそれは単なる個体的な物の表現にとどまりません。大いなる生命の表現でなければなりません。個体的な自己からは慣性的な惰性的な表現しかでてきません、その意味でも個体的な自己ははじけて、死なないといけないのです。

佐々木:なんだか物騒な自爆テロみたいな雰囲気ですね。

              憎しみはひとまずおきていざともに船の安全守るにしかず

やすい:自爆テロは最も残虐で犯罪的な行為で絶対反対ですが、自分の肉体を弾け飛ばさずには真に生きることができないのではないかという、不幸な直覚に支えられているのかもしれません。土葬しか認めないイスラムの教義からは、自爆テロはいくらパラダイス行きは保証されていると言われても信じがたい筈なのに、あえて志願するのはおかしいのです。物的な生き方の時代から事的生き方の時代への変化を無意識のうちに象徴しているのかもしれませんね。 

佐々木:事的人間論も刺激的ですが、やはり冷戦終焉後の世界統合の新段階を踏まえますと、そういう地球的な人類的な規模での組織化というのが可能なのかどうかという問題があります。逆に言えばそういう統合過程の中で、アイデンティティ危機を体験する人たちが必死で抵抗してきます。組織化は常に組織解体と裏表みたいになっているわけです。この問題も人間論でどう扱うかが緊急の問題ですね

やすい:異質性を前提にした対話可能性の問題でもありますが、宇宙船地球号の問題でもあります。同じ舟に乗り合わせた以上、舟の安全、航海の安全が乗組員にとって最優先課題です。そのために協力体制を作らざるを得ないのです。そういう自己組織化の必然性のようなものがありますね。それを地球号に関する正しい情報の共有して、カタストロフィが起る前にやり遂げなければならないわけです。

佐々木:九・一一以降の過程は人類にグローバルな組織化能力があるようには思えない方向に動いていますね。

やすい:それは逆説的にいえば、だからこそ組織化に動くということもあります。宗教的対話でも、とても一神教の間では憎悪が深くて無理なように思えるから、これは大変だこのままいったら人類の破滅だと思うから、本気で取り組めるわけです。もちろん組織化は人類的な規模だけでなく、ローカルな問題での地域の再組織化、コミュニティの形成や、それぞれの利害や関心を踏まえたアソシエーションの形成などが構想されます。またインターネットで結ばれた人々による事業活動の発展もありえますね。

佐々木:そういう組織化と人間論はどう具体的にかかわるのでしょうか。

やすい:「組織化」と「自己組織化」とはニュアンスが違うのだそうです。自己組織化の場合は組織化は自動的に行われるのです。台風が発生しますと、次々と空気が吸い込まれて渦が再生産され、意志に関わらず自己を再生産しますね。組織体が各構成員が意図するとしないと関わらず、自己運動によって自己を再生産し続ける場合に自己組織化と呼ばれます。

佐々木:やすいさんの組織体人間論でいきますと、組織体が創設者たちの必死の献身的努力でやっと組織を維持している段階では、まだ人間の形態に達しているとはいえないけれど、組織体の自己運動で組織体が自己保存されるようになれば、人間の形態にまで達したと言えますかね。

やすい:それは興味深い分析ですね。個体的身体ですと、環境的自然との同化と異化を通して、身体の自己保存と生殖を行い、個体と類の再生産を行っています。身体も組織と考えれば、自己組織の更新を図っているわけですし、もう一つの身体と交わることで、身体を複製しているわけです。そして複製した身体との間で家族という自己を組織していることになります。そして家族生活の維持のためにも企業をはじめてする様々な組織体に組織化されるわけですね。組織体はメンバーや建物、機構を更新しながら、その目的にそって自己保存や自己増殖を図っているわけです。

佐々木:ホッブズの国家を人工機械人間と捉える人間を踏まえると、組織体も人間になるわけですから、組織体を主体とする自己組織化の展開も重要な人間論になりますね。そして特に二十一世紀には組織体のグローバルな活動形態や、グローバル国家統合なども人間論に含まれると言うことになります。でもそんな何もかも人間に含めれば人間が何かぼやけてしまうのじゃないですか。

やすい:それは身体的個人に人間を限定するから、そう思えるのではないですか。企業や国家のある時代の人間とない時代の人間とはかなり違います。企業や国家を抜きにして人間を取り出しても、それはそれで人間理解に大切ではあっても、それで企業や国家のある時代の人間を論じることは難しいでしょう。企業や国家は、人間の形態であって、人間にとって外的な条件などではないのです。よく個人の人格の尊厳や自由を重視する立場から、国家や企業を人間にとって道具のはずなのに、逆に人間が国家や個人の道具にされていることを、国家や企業、組織体のフェティシズムとして糾弾する傾向が見受けられますが、それは国家や企業を人間の形態として捉えられていないからです。

              ミレニアムはじまりの時人間を問い直してぞいざ生きめやも

佐々木:かなり挑発的な問題発言ですね。しかしボリュームの問題もあり、最後に人間論の整理として分類をして見ましょう。

(1)人間論と言えば人間の本質を問う本質論的人間論が先ずあげられます。理性や言語や労働や社会性などが代表的な答です。遊戯やシンボル操作などもありますね。

(2)次に三木清がパスカルの人間論の分析から発見した状態性として人間を把握する人間論です。人間は悲惨であり、偉大であり、その間を動く動性であり、中間者であるという議論です。本質論としてはパスカルも「考える」ことをあげているわけですが。その他にも状態性としては「不安と絶望」その裏返しとしての「希望」「死に向かう存在」「有限性」「実存」などがあげられます。ニーチェの「過渡」や「超人」も状態性ですね。

(3)それから、やすいさんはパースの「人間記号論」からヒントを得て、「カテゴリーとしての人間」論を唱えられています。これは人間を事物の存在のありようとして、どういう意味でそれぞれの事物や事象や組織が人間を構成しているか論じるわけですね。

 これはやすいさんの人間論の展開から取り出してきた分類法ですが、もちろん叩き台にすぎません。人間論に取り組む場合にどのように人間論を分類したうえで、何を論じているのか、他の人間論とどのように有機的に関連するのかはっきりさせておくと、生産的だと思われます。そういう意味でも「21世紀の人間論の出発点」になるかもしれません。

やすい:あくまでも私の試案ですから、それぞれが分類をし直して、自分の問題意識を位置付ければいいわけです。けっして同じ出発点に立てと強制しているわけではありません。

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