この論文は『月刊 状況と主体』19927月号 No.199に掲載されたものです。

      シンボルを操る動物―カッシーラーの人間観―

                    やすい ゆたか著

はじめに

一、「シンボルを操る動物」としての人間論

パースは「人間=記号」論を唱えました。人間を精神的実在として捉え、精神活動を思考の連続と見なし、しかも思考の本性を事物の表示行為としての記号性に認めた結果そうなったわけです。事物の表示性は、事物が他の事物を表現することですから、要するにシンボル(象徴)のことだと言えます。人間の特徴をシンボル操作に求め192325年に『シンボル形式の哲学』(生松敬三、木田元訳、岩波文庫)という大著を著わしたのがカッシーラーです。これをわかりやすく英語に直したのが1944年の『人間―この象徴を操るもの―』(宮城音弥訳 岩波現代叢書)です。パースは人が記号に他ならないと主張しました。その意味では大変ショッキングな捉え方でしたが、直観主義に対する批判の帰結として説かれたものです。パース自身は「人間=記号」論を本格的に展開できているわけではないのです。これに対して、カッシーラーの場合は、人間がシンボルだと「人間=シンボル」論を唱えたわけではありません。彼は理性的動物( animal rationale )という人間定義に、象徴的動物( animal simbolicum )という人間定義を対置しただけです。とはいえ人間文化の総体をそのシンボル的な性格によって一括したのですから、大変画期的だと言えるでしょう。

ニ、「バブル経済」と「理性の喪失」

経済学では、個人は自分たちの私的利害を最大にするために、最も効率的と考えられる行動をすることが前提になっています。そうしてこそ「見えざる手(価格機構)」がうまく機能して財の最適配分が実現するはずなのです。ところが実際には自己の利害が何であり、どうすることが最も効率的なのか、しっかり自覚して行動することは簡単ではありません。むしろ諸個人の行動は理性的に認識される利害よりも、謂れの定かでない衝動や、流行などの抗い難い社会心理的な圧力に流される非合理な行動が、常に政治だけでなく経済をも攪乱してしまいます。

その典型的な例が「ハブル経済」でした。バフル経済の崩壊によって、人々は、「土地や株は上がり続ける」という土地神話や株神話からやっと解放されました。少し冷静に考えれば、土地価格は土地の限界効用によって規定されているわけでして、それ以上に騰貴すれば、いずれは反落する理窟だとわかります。株も投機家たちがまだ上がるだろうと買い続ける限りで上がるのですから、上がり過ぎた株はいずれ急落の警戒から、反落するのは必然的でした。

ところが日銀は円高不況を吹き飛ばすために超低金利政策を採用しました。それで預金しても利子が少ないので、「赤信号、みんなが渡れば恐くない」とばかりに、資金が株式や土地に供給され続けたのです。その所為(せい)で、実体経済を無視して株と土地の急騰が続き、莫大な投機的利益を生み続けたのです。これを利用して、高騰した土地を担保に別の土地まで、なんと海外の不動産まで買いまくる者も出る有様でした。株の値上がりをいいことに企業はエクィティファイナンス(株式発行による資金調達)を大々的に行い、ほとんどただで大規模な設備投資資金を調達するという離れ技をやってのけました。まるで株と土地が上がり続けることによって、日本経済の繁栄が成り立っているかの様相を呈したのです。こうなるともし株や土地が暴落したら日本経済は大変なことになる、だから株や土地は上がり続けるに違いないという神話が出来上がってしまったのです。

しかし投機経済をいつまでも野放しにはできません。所得格差は拡大し、土地高騰は社会的な不公正を激化しました。こうして金利が引き上げられると元々上がり過ぎていた株や土地への投機は控えられ、たちまちにしてハブル経済は弾けてしまったのです。しかも株価の急落に伴い損害を受けた大口投資家の損失を証券会社が補塡したことが露顕して、証券会社の信用が崩壊したので、これが暴落に拍車をかけました。エクイティファイナンスの旨味を失った企業の投資意欲が喪失し、景気が急速に落ち込んだのも無理はありません。

三、理性的動物対シンボル的動物

近代の啓蒙精神は、人間を合理的、理性的な存在として捉えていました。しかし人間は理性では割り切れない行動をします。近代民主主義は、人間はだれもが自己の幸福を追求すると共に、それを共同で護るために公共の福祉に関心を持ち、責任を分けあうものだという前提を基礎にしています。でも現実の政治は、様々なイデオ口ギーで粉飾されてはいましたが、少数の資本家や利殖家の利権争いの具となり、彼らの利害貫徹のために国家権力が最大限に利用されました。貧しい大衆は個人としては全く無力で、集団的な示威行為でマスとして自己利害を護る他なかったのです。それで集団を指導する原理を掲げる扇動家のイデオロギーに呪縛されて、自立した自由な個人として考えたり行動したりすることは困難だったのです。

 人間は理性的に事態を判断し、冷静に行動する能力を備えているはずなのに、世間がある一定の幻想にとり憑かれ、その方向に走り出してしまいますと、自分一人旧来の判断に固執して、「山宣ひとり孤塁を守る」わけにはいかないもののようです。時代の独特の雰囲気が作り出す新しい思考様式が、より優れた理性の装いを凝らして幻惑するからでしょう。そして理性自体が、何等かのイデオロギー的な価値基準や共同主観的に形成される「好み」に根を持っています。カッシーラーによりますと理性自体もシンボル体系を成していますし、
その根っ子にある「言語、神話、宗教、芸術、科学、歴史」等の様々なシンボル体系に影響されています。ですから極めて理性的に対応しているつもりが、別のシンボル体系を持つ異文化の理性からは、極めてファナティック(狂信的)に見えることがあるのです。それに理性というものは時代の激動に目まいを起こして機能を停止しがちなものなのです。

そこでカッシーラーは、人間を理性によって特徴づけるだけでは、人間理解としては全く不充分であり、人間文化の総体や人間の行動を捉えることはできないと考えたのです。人間を人間たらしめ、人間を根底から規定しているシンボル体系からの全面的な人間把握を目指したというわけです。それではカッシーラー『人間―この象徴を操るもの―』「第一編、人間とは何か」をテキストに彼の人間論を検討することにしましょう。

第一節 人間の自己認識における危機

一、人間への問いと現代

「人間とは何か?」という問いはヤスパースの指摘でもありましたように、紀元前八世紀から紀元前二世紀の枢軸時代から既に根底的に問われてきました。我々は現代においても枢軸時代の思想から尽きることのない深い人間観察を学ぶことができます。しかしそれぞれの時代はそれぞれの時代に特有な思想的課題を抱えていました。その時代の政治、経済、宗教や文化の中で人間としての生き方に苦悩しつつ、人間への問いが常に改めて発せられ、その時代の「現代」への問いとして問題になったのです。ですから現代における人間への問いも現代の思想的課題との格闘を通して応えられなければなりません。

 ところがこの現代という時代そのものが流動しつつあり、人間論が盛んに展開された大戦間時代や1960年代とは明らかに異質の様相を示しつつあります。人間論の間い直しが二千年代を迎えるにあたり求められている所以(ゆえん)です。大戦間時代は近代的な人格が崩壊したといわれ、普遍妥当的な価値観が動揺していました。政治的にも自由主義と共産主義とファシズムが三つどもえになって、人々の意識は分裂し、混迷していたのです。

 自由な独立した市民を前提にした近代的ヒューマニズムは破綻したと思われ、かと言って、十九世紀を風扉した生物学的なダーヴィニズムも時代遅れになっていました。ボルシェビズムが台頭しつつありましたが、人間学的な間題意識は超階級的なヒューマニズムとして敬遠されがちでした。フロイト派の精神分析も知識人の関心を呼びましたが、それ程共感を与えたわけではありません。人間とは何かを捉える確固とした方法的立場が確立しないまま、時代が混迷を深め再び危機が深まっていく中で、「西欧の没落」や最終戦争への予感に震えつつ、「人間とは何か?」が深刻に問われたのです。

 そこで様々な視点からの人間論が見直され、人間を多面的に全面的に捉えようとする人間論が展開されました。もちろん時代の危機感をそれぞれの論者の立場で反映していました。その代表的な思想家としては、シェーラー、プレスナー、ゲーレン、カッシーラーなどがあげられます。

 1960年代の人間論の流行は高度管理社会における人間疎外の状況に対する、人間性の回復の思潮として現われました。サルトル的な実存主義によるマルクス主義に欠けていた主体性の補完という間題意識と、若きマルクスの自己疎外論の再評価が結合したのです。これは単に資本主義的な人間疎外だけでなく、高度管理社会としては同様な疎外が深刻な当時の「現存社会主義体制」にも通じる議論だったのです。機構や機械のネジ・釘として物化・商品化して人間性を喪失した現状を告発し、自由で主体的な人間性の全面発達を目指す立場が強調されていました。

現在は一九八五年に始まる「現存社会主義体制」の崩壊過程にあります。「現存社会主義体制」は労働者による経済的支配を意味する本来の「社会主義」とは無縁でした。それは「社会主義」を偽装した党・官僚の独裁的な国家資本主義体制でしかなかったのです。この崩壊過程は同時に世界資本主義の再編過程とも言えます。新国際秩序の形成に向けて激しい変動の時期でもあります。資本主義世界体制が蓄積した人類的危機は深刻度を増しており、新国際秩序の形成はこれに対応するものにしなければなりません。その意味では国際的な独占資本のイニシアティブに任せないで、新たな人類的コミュニティ形成に向けての人民的なイニシアティブが求められます。そのためにも「人間」を根底的に問い直す必要があります。

 現在特に積極的に見直すべきなのが、ゴルバチョフの提唱した「新しい思考」の「全人類的課題の優先」に関連して、「普遍妥当的価値」の復権です。基本的人権の尊重に基づく近代的人格概念の再確認、「法の支配」の重要性、近代民主主義の普遍性の承認です。これらが資本主義体制を擁護するイデオロギー的役割を担ってきたのは、「現存社会主義体制」がそれらを踏み躙ってきたからに他なりません。現代思想を特徴づけた「近代的人格」と「普遍妥当的価値」の崩壊というモチーフが消え去り、新国際秩序の形成を主体的に担う世界市民的な人間観の構築が切実に求められているのです。

西暦二千年代を迎えるにあたり、現代への問いを踏まえて人間を問い直し、人類が自己認識を深める絶好の機会です。しかしながらその方法論は容易には定まりません。現代の人類的危機が深刻なだけ、人間の自己認識における危機も深刻だと言わざるを得ません。

ニ、汝自身を知れ

カッシーラーは人間の自己認識の危機を深刻に捉えました。その検討のために哲学史を振り返り、いかに人間の自己認識が展開してきたのか、その問題点を再確認しています。「汝自身を知れ」というデルフォイのアポロン神殿に掲げられていた標語は、人間達に対して不死なる神が「死すべき運命を悟って、分を守って生きよ」と諭したものでした。ところがソクラテスは、この標語から、「哲学が本来探究すべきなのは、自然の成り立ちではなくて、人間自身の徳のことだ」という啓示を読み取ったのです。それ以来哲学の最高目的は自己認識にあるということが一般に認められているように言われています。

最も懐疑的な思想家ですら、自己を知る可能性と必要性は否定していません。そればかりか、懐疑主義者こそ、「外界の客観的確実性の否定と破壊によって、人間のあらゆる思想を自己自身に向け返そうと」したとカッシーラーは懐疑主義の意義を確認しています。「我々が真の自由を味わうためには、我々を外界に結合している鎖を断ち切る努力をしなければならぬ」と懐疑主義者は主張するのです。思い出してください、あの「オイディプスの闇」を。オイディプス王は、開いていても何も真実を見ることができなかった自分の両眼を刃で刺し、外界の光を遮断して、自己自身の闇を見据えようとしたのです。

しかし、「オイディプスの闇」で象徴的ですが、自己自身の内部を見ようとしても、見えるのは闇でしかありません。自己自身というのは大変捉え難いものなのです。自己が何かを知ろうとすれば、直接自分の心理状態や意識の内容を記述しようとするだけでは不充分です。自分が何を感じ、考えているのかということほど曖昧で不確実なものはありません。カッシーラーは、現代の心理学では、内観法は評判がよくないと言います。如何なる人物であるかを捉えるにはその人の客観的な行動をしっかり注視し、行動によって判断すべきだという行動主義の心理学が盛んです。もちろん意識内容を無視して、その人間の人格を規定するのは極端です。その意味では内観法も大切です。でもたとえ意識内容がよくわかっても、それだけで人間性の何たるかはわかりません。人間の行動を含む人間文化の全体を捉えることによって人間の自己認識に迫ろうとカッシーラーは考えているのです。

三、自然認識から人間認識への転換

ところでアリストテレスは人間的認識を、イデア論からは説いていません。感覚的な知覚を基礎にして説いています。人間の認識も、生命の認識の発達として捉えているわけです。感性知覚→記憶→経験→想像→理性と発達します。人間は動物中で、理性が一番優れています。認識の順序により、まず外界の認識から出発し、やがて生存に関する内向的な見方がなされるようになります。この両者はセットのような形になります。神話などでも原始的宇宙論と並んで原始的人間学が見出されます。

 カッシーラーは哲学思想の発達に、自然認識から人間認識への転回を説きたいようです。ミレトス学派は、アルケーを問う自然哲学です。ピュタゴラス学派は事物間の調和的関係を数理哲学として探究しました。エレア学派は、現象を超えてある存在の論理を論理哲学として展開しました。こうして自然認識が現象の原理的説明から、存在の原理自体の説明へと深まりました。ところが独断でしかないことは議論が盛んになればなる程露呈します。こうして人間論への転回が必然的に起こったというわけです。

 この転回にあたってヘラクレイトスの役割をカッシーラーは高く評価しているようです。へラクレイトスは、宇宙論的発想と人間学的思想の境界線に立っていたとしています。何故ならへラクレイトスは、人間の秘密を研究しないでは自然の秘密に入り込むことは不可能だと考えていたからだと言うのです。その論拠に引用しているのが「私は私自身を探究した」という言葉です。しかしこのカッシーラーの解釈は自然哲学全体に対する基本的な認識不足を示しています。アルケーへの問いは、実はプシュケー(魂=生命)の実体への問いであったのです。自然哲学は発端から自己認識を探究していたのです。この事は既に「第三章、ギリシア人の人間観」で触れておきましたので参照願います。

四、レスポンシビルな存在

自然認識という形での哲学が独断論に終始したので、ソクラテスは人間の内面の徳、魂の徳を追求しました。ところがソクラテスは徳の本性については詳細に決定し、定義しようとしますが、人間の定義を敢えて下そうとはしません。そこでカッシーラーはこう解釈します。「対話的もしくは弁証法的思考によってのみ、我々は人間性の認識に近づくことができる。人間は常に彼自身を探究しているもの―その存在の各瞬間に、自己の存在の条件を検査し、検討しなければならないものだと言明される。『検討されない生活は生きる価値がない』(『弁明』)人間は『レスポンシビルな存在』つまり『応答し得る、責任ある存在、道徳的主体である』」この「対話人間」「道徳主体」としての人間論は大変興味深い人間論です。ただし、ソクラテス自身は徳の定義と人間の定義を区別して考えてはいなかったと思われます。ソクラテスは自然哲学から人間哲学へと転回しました。つまり考察の対象を自然から徳へと転換したのです。それは、自己を自然との同一性にではなく、魂の徳への同一性に求めたことを意味するのです。

五、人間の絶対的独立性の思想

自己を魂や理性に求めるソクラテスの傾向を受継いだのがストア派の賢人達です。カッツーラーが紹介している哲人皇帝マルクス・アウレリウスは『冥想録』で、人間に本来属しているものは魂としての理性のみだと考えました。ですからそれ以外のもの、富や財産や権力、あるいは自分の身体の健康や欲望さえも外的なものと見なしたのです。それらは奪われれば奪われるほど益々善良になるそうです。そして本来属しているもの、つまり魂や理性は決して損なわれないというのです。

「… 諸事物は魂に触れない、何故なら、事物は外界に属し、生動不能にとどまり、我々の動揺はただただ内部にある判断から由来する。汝の見るところの一切の事物が直ちに変化し、間もなく存在しなくなる。そしてこのような変化の如何に多くを汝は既に目撃したか。絶えず心に銘記するがよい<この宇宙は変貌である。人生は判定である>」(11頁―引用の頁数は特に断りがない限り、『人間―この象徴を操るもの―』(宮城音弥訳 岩波現代叢書)の頁数)。

 人間の絶対的独立性は、ですからストア派では基本的な徳にあたります。侵すことのできない固有の権利を強調した自然法の思想はストア派から由来しているのです。ところが同様に内面の魂の在り方を重視していたキリスト教では、人間の絶対的独立性の思想は、基本的な不徳として誤りとされます。この誤りを続ける限り、救いへ向かう可能な道はないのだと警告しているのです。キリスト教の立場から見れば、人間はあくまで神によって造られ神に依存している存在でしかありません。神への絶対帰依こそ求められるのであり、魂や理性の独立など、とんでもない思い上がりだということになります。紀元四世紀に活躍したアウグスチーヌスは、プラトン哲学の二元論を神の国と地上の国に置き換え、中世キリスト教の教義体系を造りあげました。彼によると、理性はアダムの堕罪によって曇ってしまったのです。もはや理性は自分の力では再建できません。ただひたすら神の恩寵によるのみなのです。こうして中世哲学では理性は人間の危険であり、神から離そうとする誘惑であるとされます。内なる「デーモソン」への服従は邪教の信仰だとされるのです。

六、無限概念による理性の解放

コペルニクスは、太陽中心の新しい宇宙観を提起し、神―人間関係を軸に構成されていたキリスト教的な世界観に大きな動揺を与えました。特にジョルダーノ・ブルーノーは太陽を恒星の一つと見なし、宇宙の無限を説きました。彼らは主観的には神の創造の無限性を証明したつもりなのですが、その与えた精神的なショックは測り知れません。ブルーノーによると人間の知性は、虚偽の形而上学と宇宙論によって築き上げられてきた天球の想像的境界をことごとく突破することができるのです。無限の宇宙は人間理性に何等の限界を設けないのです。それは確かに理性の解放だったのです。ガリレオは、理性の解放を積極的に受け止め、人間知性への信頼を取り戻そうとしました。

「神の知性は、我々に比べると、限り無く多数の数学的真理を、認識し、包懐している。しかし客観的確実性について言えば、人間精神によって認識されている真実は僅かではあるが、これらの真実は神と同様、完全に人間に認識されているのである」(21頁)。

カッシーラーはデカルトの場合にもこの無限概念が重要な役割を果たしていると考えます。無限に疑っても疑っているコギトの存在は疑えないとか、さらにはコギトから神を存在証明し、間接的に物質的世界の実在を証明する場合にも、無限概念が必要なのです。

七、パスカルの恐怖

しかしながら理性に対する過信を戒める傾向は十七世紀になっても強く残ります。デカルトに対する。パスカルの批判をカッシーラーは重く見ています。デカルトの方法的懐疑は、神の存在すらコギトから証明してしまうのですから、理性主義の極致だと言えるでしょう。パスカルは自然を解釈する科学的な精神、これを「幾何学的精神」と言いますが、この「幾何学的精神」に対して、人間の謎に迫ろうとする精神を「鋭敏または繊細の精神」と名付け、対置しています。パスカルは近代的な科学的精神を吸収し、宇宙の時間空間的な無限を認識しました。その結果彼は言い知れぬ恐怖に襲われたのです。「この無限の空間の、永遠の沈黙は私を恐れしめる」と。パスカルは語っています。

宇宙の無限は我々人間存在の有限性を照らし出しています。科学的精神によって明らかにされる人間の姿は、まさしく塵ほどの大きさもなく、うたかた()ほどの寿命すら与えられていないのです。これは大変悲惨なことだと。パスカルは思いました。もし人間が考える能力を持たず、宇宙の無限を知ることも、それ故、人間のはかなさも知ることがなければ、与えられた生命の様々な喜びを享受していればそれで良かったはずです。ところが人間は無限な思惟の能力によって自らの有限を知るという逆説的な存在なのです。この悲惨に対して科学的精神ではどうしようもありません。

八、繊細な精神

「汝の自然の理性によって汝の真の条件の何たるかを探究せんとする汝、人間よ、しからば汝は如何にならんとするのか。… しからば傲慢な人間よ、汝は汝自身に何たる逆説であるかを知れ。無力なる理性よ謙譲たれ。愚かなる性質よ口を緘(かん)せよ。人間は無限に人間を越え行く事を学べ、汝の無知なる真の条件を汝の師より聴け。神に聴従せよ」(16頁)。

 人間理性が無限を知るということは、自己の悲惨を知るということであり、結局は神の救いを求めるということなのです。パスカルにあっては、神への信仰は、悲惨から恐怖から逃れるためには絶対不可欠です。神は人間にこんな悲惨を悟らせておいて、そのまま見捨てるはずがないと確信したのです。「人間は考える葦である」という言葉は、確かに人間はちっぼけで弱くはかない存在だけれども、全宇宙よりも偉大なのだという意味が込められています。人間は自分の悲惨を知ることができるけれど、宇宙は自分が広大無辺で永遠だということを知らない。人間は考えることによって宇宙を包んでいるんだ、というわけです。こんな偉大な人間を神が見捨てるとすれば、神としての値打がありません。でも神の存在は人間理性によって証明できるでしょうか。科学的=幾何学的精神からは無理です。神は「隠された神」なのです。人間は絶望を介して、自然的存在を超えて神を求めるときに初めて神がみそなわす事がわかるのです。パスカルは、人間は存在と非存在の不思議な混合であると言いました。自然存在から見れば非存在=無としての意識存在が自己なのです。この考えはストア派と共通していますが、その意味で宇宙を飲み込む傲慢さをもっていますが、他方「繊細な精神」としては神への絶対的な依存、絶対帰依の精神なのです。

九、数学的理性から生物学的理性へ

十七世紀から十八世紀にかけては、近代的な無限概念を踏まえた数学的理性が優勢でした。ライプニッツは、無限の概念を科学的証明と結び付けて、微積分学を発見し、これによって物理的世界を知ることができるようになったと言われます。数学的な方法を道徳世界にまで押し拡げたのがスピノザだとされます。彼は情念と感情を論理的に展開し、新しい倫理学『エチカ』を世に問いました。これによって単なる人間中心的システムの誤謬と偏見を脱した人間学的哲学の目標に到達し得ると確信したと言います。数学的理性は、人間と宇宙を結ぶ紐帯、宇宙的および道徳的秩序の真の了解への鍵だというのです。

1754年にディド口は『自然の解釈に関する思索』で、そろそろ数学的理性に飽きたのか、数学の優越性には異論はないけれど、もう高度の完成の域に達したので、さらに発達することは不可能である、新たな形式の科学が生まれるのを期待しようという趣旨のことを述べています。この新たな形式の科学とは、一般原理の仮定よりむしろ事実の観察に基づく、より具体的な科学です。十九世紀には生物学的思想が数学的思想よりも優勢になったのです。

 十九世紀はダーウィンの時代だという言葉があるくらい、『種の起源』が与えたイソンパクトは大きかったようです。彼は膨大な資料によって進化現象の科学的説明に成功したわけです。進化現象に対する説明は、アリストテレスだって行っていました。アリストテレスは目的因を重視しました。下等な生物は高等な生物に発達するようにできているのです。つまり高等な生物の立場から、人間の立場から生物達が頂上を目指して進化の歩みを続けたと解釈されるのです。そこには神の意志を仮定することも可能だったのです。ところが近代の進化論では、目的因は単なる無知の避難所とされます。質料因だけで了解しなければ科学的とは見なされないのです。ダーウィンは偶然的変化の集積によって進化現象の総体を充分説明できるとしました。しかしそうなりますと人間理性が物質自身の進化によって産み出されたことになります。この議論は創造主としての神の否定、デカルト的な精神と物質の二元論の否定に繋がり兼ねないのです。

十、プロクルステスのべッド

進化論が流行しますと、その発想は生物学の枠を超えて、あらゆる学問に応用され、星雲の生成から、人間社会の道徳原理の展開まで進化の原理で組織的に叙述するスペンサーの『総合哲学体系』まで登場します。また人間も動物も同じ原理で説明されますから、我々人間を、蚕が繭を作り、蜂がその巣を作るのと同様に、哲学や詩を作る高級な種類の動物と見なすことができるとされます。

その上で人間を他の動物と区別し特徴づけようとしますと、人間性のうちに見出す衝動をただ経験的に数え上げるだけでは満足できなくなります。そこで衝動を分類し、体系化することになります。その際、それぞれの思想家は自己の立場から任意にその主要動力および統御能力を選び出し、プロクルステスのべッドのように、予め予想された型に当てはまるように経験的事実を無理に歪めてしまいます。この主要動力および統御能力をテーヌは主要観念と呼んだそうです。ニーチェは力への意志、フロイトは性的本能、マルクスは経済的本能がそれに当たるとカッシーラーは指摘しています。

 現代は、もう神話、宗教、形而上学、数学、生物学といった優勢な傾向によって人間観を形成することができません。それぞれの学問や思想、社会的政治的立場などによって、多様な人間観が形成され、その間に統一がとれていない状態です。それで一層人間とは何かが謎とされ問われることになるというわけです。人間性に関する知識、人間文化に関する資料は膨大な蒐集量を誇っています。しかし、我々の事実の富は必ずしも思想の富ではないとカッシーラーは語ります。この迷路から我々を導き出す「アリアドネの糸(方法論)」を見出すのに成功しなければ、人間文化の一般的性格は洞察できない、それがシンボルだと言いたいようです。

第二節 人間性への鍵―シンボル(象徴

ー、ユクスキュルの環境世界論

ハイデッガーは『存在と時間』を著わしました。その際、フッサールの現象学から大きな影響を受けていたのですが、それと共に「世界―内―存在」の構えにはユクスキュルの『動物の環境世界と内的世界』(1909年)からの影響が濃厚です。カッシーラーの『シンボル形式の哲学』もその強い影響を受けているわけです。ユクスキュルの環境世界論を理解するために、カントの現象論を参考にするとわかりやすいと思われます。世界は我々の感覚を通して捉えられています。たとえ同じ事物を見ていても人が見ている姿と犬が見ている姿とは異なっています。どちらの姿が正しいとも客観的に判定することはできません。物自体がたとえあるとしてもそれは原理的に不可知なのですから。それぞれの動物は、生体の反応能力が生態によって決まっています。知覚もそれぞれの生態から自ずから決まってきます。ウニの世界にはただ「ウニの物」が見出され、ハエの世界には「ハエの物」しかないのです。ですから我々人間が「猫に小判」と言いますが、猫の世界には小判という物は存在しませんから、決して小判を与えたことにはなりません。また小判を他の物に見間違えたことにもならないのです。

 カントの用語で言いますと、先天的な統覚の形式が種によって異なりますから、種の数だけ全く異なる世界があることになります。もちろん時間・空間の感覚も動物の種類によって様々ですから、蝶より人の寿命のほうが長いとは言えませんし、土中にいる数年間の方が、蝉になってからの数日間より長いとも言えないのです。各動物はそれぞれの環境に完全に適合していますから、その観点から見ますと、高等動物、下等動物というランク付けは全く不当なのです。

 各動物は自らの環境世界に生きています。この環境世界は機能的な円環を成していて、これがいわば各動物にとっては内的な世界なのです。身体の内と外で区分けして生きているのでは必ずしもありません。貝殻は貝の分泌したカルシウム分が固まって出来ている貝の住居ですが、貝自身は他の身体部分と敢えて区別しているわけではないのです。群生している動物となると、他の個体との自他の区別が生理的にも曖昧になります。高等動物の群れ社会の場合は、意識的な共同を通して共同観念をもち、群れ全体とそのテリトリーを内的世界としています。

二、動物の反応体系

各動物は感受系と反応系をもっていてそれぞれ機能的な円環を成しているのですが、その場合、それぞれの物は固有の物ですから、他の物を別の物として機能的に扱っていることにはなりません。極端な例でいうと、縞馬は空腹時のライオンにとっては格好の食料ですが、縞馬にとっては自分は本来縞馬であって食料ではありません。しかし、それはライオンの内的世界には通じない言い訳ですから、食べられたくなかったら一目散に逃げるしかありません。このことは動物は物を生理的対象と見なしているのであり、刺激に対して自己の生理状態により、個体的類的に定型化した反射及び条件反射の反応体系をもっているということです。一定の刺激は一定の生体反応を引き起こすという意味では、記号として機能しているとも言えなくはないのです。しかし記号という言葉は、他の事物を指し示したり、他の事物の意味を表示するという意味あいを含んでいますから、環境世界論の原理からは当てはまりません。ただし高等動物などでは身振りや叫び声によって情報を伝達する機能が認められます。明らかに信号です。そしてまるで意味表示のようにも受取れます。

三、シンボルの宇宙の住民

動物の信号活動と人間の言語活動の詳しい区別は次節に回しましょう。人間の場合とくに感受系と反応系の媒介としてシンボル作用が特別に発達しているのです。動物の信号作用も広い意味では条件反射の複合として説明されますが、人間の場合は元々物が持っていなかった意味を、勝手に造りあげた観念体系に合わせて付与し、共同観念によってその意味を妥当させ、社会的に有効な機能を与えてしまうのです。ここがカッシーラーのテーマであり、問題意識でもありますから長文になりますがそのまま引用しましょう。

「しかし、この自然的秩序の破棄に対しては、何らの救済手段もない。人間は、彼自身の成就した結果から逃れる事は出来ない。人間は、ただ彼自身の生活条件を採用し得るのみである。人間はただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術及び宗教は、この宇宙の部分を成すものである。それらはシンボルの網を織るさまざまな糸であり、人間経験の縫れた糸である。あらゆる人間の思想および経験の進歩は、この網を洗練し強化する。人間はもはや、実在に直接当面することはできぬ。彼はいわばそれを、面と向かって見ることができぬのである。物理的実在は、人間のシンボル活動が進むにつれて、後退していくようである。人間は『物』それ自身を取り扱わず、ある意味において、常に自分自身と語りあっているのである。彼は、言語的形式、芸術的形象、神話的象徴または宗教的儀式の中に、完全に自己を包含してしまったゆえに、人為的な媒介物を介入させないでは、何物をも見たり聴いたりすることはできない。彼の立場は、理論的な領域においても、実際的な領域におけると同様である。ここでも、人間は固い事実の世界に生活しているのではなく、彼の直接的な必要および願望によって生きているのではない。彼はむしろ想像的な情動の内に、希望と恐怖に、幻想と幻滅に、空想と夢に生きている。エピクテトスはいった、『人間を不安にし、驚かすものは、〈物〉ではなくて、〈物〉についての人間の意見と想像である』」(35頁〜36頁)。

四、幻想に生きるドンキホーテ

カッシーラーはここで最近の共同主観論や共同幻想論の議論を既に行っています。動物は感受系と反応系という事物との間にいわば物理的な、正確には生理的な関係をもっています。要するに物質的な関係に生きているということです。それに対して、人間は感受系と反応系の間にシンボルとしての物との関係に生きているということです。

そこで問題なのは、カッシーラーが動物は物理的なものに関わっているから実在と関係しているけれども、人間はシンボルと関わっているから幻想と関係しているんだと断定してまっていることです。動物だって自分の生体の生理に適合する環境を選択する仕方は、種を形成する過程で条件反射を積み重ね、複合させて作り上げてきた反応システムなのです。これは自然条件が一定の枠内ではその種の自己保存を可能にしますが、その枠が崩れてしまうと、この反応システムを変えなければ適応に失敗することになります。反応システムを変えるのは大変難しいことです。というのは生体は反応システムにぴったりのように精一杯進化してしまっているからです。新たな反応システムに変えるということは、同時に、生体の変化すなわち種の変化を意味するのです。ですからいわば身体自体がこの変化に抵抗すると言えるでしょう。どうしても新たな環境に対しても古い感受系―反応系が機能してしまうことになります。新たな現実を捉え損ない、とんでもないドンキホーテを演じることになるのです。種の衰亡の場面ではこのような悲喜劇がしばしば上演されます。それでも果たして動物は幻想に生きることはないと言えるでしょうか。

五、メダカの学校

では人間が生きているシンボルの宇宙は果たして幻想の世界と言い切れるでしょうか。丸山圭三郎は、「身分け」「言分け」という用語を使って、人間の言語による認識を幻想だと断定します。動物は現実と身体で関わっているから、幻想を持たないけれども、人間は言語で関わるから幻想をもつということです。この議論の前提としては、言語は現実の事物の差異を反映したものではなく、その逆だという認識があります。言語体系が差異の体系になっていて、それに合わせて現実を解釈し、事物を規定しているというのです。
「めだかの学校」という童謡があります。めだか達はどれも同じ位の大きさなので「だあれが生徒か先生か」と尋ねるのです。もちろんめだかに学校などありません。先生も生徒もいないのです。勝手にシンボル体系を当て嵌める遊びに過ぎません。ところで人間社会は現実に機能していますから、物事の判断は、子どもの言葉遊びのような訳にはいかないのは当然です。たとえ言語の差異に合わせて事物を区別しているとしても、それで事物の取り扱いに危険や失敗がなく、社会の再生産がうまくいけば言語の差異と事物の差異のずれはそれ程大きくはなかったことになります。ですから幻想だと頭から決め付けるのは言い過ぎではないでしょうか。本当に幻想ならうまくやっていけないはずです。

 「いや、みんなが共同幻想を抱いているから、幻想であってもその社会では通用するのだ、むしろ共同幻想に合わせてやっていかなければ、その社会ではかえってやりにくいんだ」。きっとこう反論が返って来るでしょう。しかしもし本当に幻想ならば、たとえ共同の幻想であっても事物の関係や現実を正しく捉えられていない以上、共同で失敗し、そのために社会が破綻すると思われます。もちろんタブーや迷信、宗教的な幻想、様々な固定観念や思い込みがみられます。また頑固な陋習、様々な偏見やそれに基づく不当な差別もあります。
ですから共同幻想は確かにあるとしても、シンボルに基づく認識が何から何まで原理的に幻想に過ぎないというのは、やはり納得できません。言い換れば、社会が破綻したり、人類が亡んだり、人々の生活が崩壊したりしていない分だけ、何とかやって行けている分だけは、少なくとも幻想ではないと言えるでしょう。

六、社会的事物の実在性

物理的宇宙とシンボル的宇宙を対置し、前者を実在、後者を幻想と見なす発想には、社会的な事物を実在と認めない偏向が窺えます。この発想も自己矛盾を含んでいます。環境世界論では、ウニにはウニの物しかないわけですから、物の規定性は、ウニの内的世界において如何なるモメントを構成しているかによってのみ決定します。だから事物の規定性は関係規定に過ぎないわけです。事物は、従ってウニにとっては、機能的にのみ存在しているとも言えるでしょう。事物が実体として関係の成り立つ以前にあって、他の事物との関係において属性を発揮するという捉え方は、形而上学的な実体主義でもう通用しません。事物は様々な事物との関係において、諸関係のアンサンブル(総和)として存在しています。この関係の中で対象的な諸事物に前提されると共に、同時にその関係によって対象的な諸事物の実在を支えているという意味では、事物は弁証法的な実体なのです。シンボル的な宇宙でも、事は同じです。先ず形而上学的な実体として社会的な事物があるわけではないのです。人間社会における機能的な連関の中に位置付けられ、再生産あるいは再認されるシステムを前提にして、ほとんどの社会的事物は存在しています。このシステムの中で機能することは同時にこのシステムを構成し、支えていますので、社会的事物はその限りでは幻想ではないのです。

七、本は効用であって、物ではないか?

大変初歩的な誤解だと思うのですが、たとえば本を見て、本というのは効用あるいは使用価値であって、物ではないという人がいます。物と言えば物理的な物体か自然的な事物のことでしかないと決め付けているのです。それじゃこれは本ではなくて紙でしょうか、いや、紙も元はと言えば効用です。やはり自然的事物としては植物繊維ということになるのでしょうか。カッシーラーは「人間はもはや実在に直接当面することはできぬ」と言っていますね。これを本と言わないで、植物繊維と言っても、この事物については何の説明にもならないからなのです。「彼はいわばそれを面と向かって見ることができぬのである」。つまり活字文化というシンボル体系から見るために、植物繊維を本としか見れなくなったというわけです。「人間は『物』それ自身を取り扱わず、ある意味において、常に自分自身と語りあっているのである」。このことは既に確認済みです。物それ自体はなく、あるのは常にウニの物であり、ハチの物です。動物の場合では環境世界が即ち内的世界なのであり、蜜蜂にとって菜の花は決して自己の外部ではないのです。その意味では動物も常に自分自身と語りあっていると言えます。「シンボル体系は観念体系だから、元々人間の内部に在った観念が外部の事物をスクリーンにして、そこに映っているだけだ」という解釈も成り立つでしょう。では観念を映している事物はその観念通り実際に機能できているのでしょうか。機能できていれば幻想だと言わなくてもよいでしょう。「たとえできていても、それは共同幻想によってできているだけで、その物の内容によってではない」という反論も考えられます。そういう場合もあるでしょうが、社会全体が幻想だけで成り立っていればやはりうまくいかないはずだという他ありません。

八、一万円札の価値は幻想か?

「いや商品社会は事物が商品だという幻想からできているし、ただの紙切れが一万円の価値があるという幻想を基礎にしている」。商品関係は実際の経済関係ですから、それが成り立っている以上、事物が商品として存在するのは幻想でもなんでもありません。一万円札の製造の原価が、恐らく一枚十円もしないだろうということぐらいは小学生でも見当がつくでしょう。ですから騙されて使っているわけではないのです。一つには国家権力による法的な強制力が働いて、支払い手段として認めなければ仕方ないのです。それでももしハイパー・インフレにでもなれば、人々は現物経済に戻ろうとするでしょう。現状では政府および日銀を信頼して、日銀券を使用することが便利だし、また必要不可欠だからそうしているのです。こういう事情を背景にして、実際には一万円札に一万円としての交換力があるのは幻想ではないのです。この事実は毎日の生活で実証していることです。

 議論はまだまだ終わりません。「いや、一万円札が交換力をもっているのではなくて、一万円札をもっている人に、交換の際にそれを支払うことを条件に、一万円の価格の商品を手にいれる権利が与えられているのだ。あくまで人間の力なのであって、紙切れの力ではない、一万円札に交換力という社会的力を認めるのは物神崇拝の典型だ」という批判が待っています。でも一万円札をもっていれば実際に買えるのですから、一万円札にそれだけの社会的な効力は認められるでしょう、たとえ確かに誰かが使うという条件は前提だとしても。こうして議論していきますと、カッシーラーを初めとして様々なヴァリエーションで語られる現代幻想論の源流にマルクスの物神性論があることがわかります。是非、マルクス物神性論を世界ではじめて本格的に批判した(本人が言うのですから本当です)拙著『人間観の転換―マルクス物神性論批判―』(青弓社刊)をお読み下さい。

 カッシーラーは「シンボルの宇宙に住んでいることによって、人間は幻想に生きている。だから、人間を合理的、理性的な動物として捉えるこれまでの伝統的な人間観では不十分だ」と言いたいのです。それにくらべてシンボルは人間の文化生活の豊富にして、多様な形態をすべてフォローしている。だから、これからは人間をシンボル動物と定義しようというわけです。シンボルを使うのだからそれだけ理性的ではないか、という批判もあるでしょうが、シンボルを使うことによって理性を失う面も注目しなければなりません。言語に関しても、理性的にのみ言語を捉えるのは情動言語や詩的想像の言語を見落とすことになるから正しくないというわけです。

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