王道政治を求めてー性善を信じた孟子

 

やすいゆたか

一、戦国時代の儒家


 儒学は孔丘の死後、有若が孔丘の風貌に生き写しだったので、有若を教団の後継者にしようという動きがあったのですが、実現しませんでした。その後高弟達はそれぞれ弟子の養成に努めたようです。最も主流と思われるのが、會 參(會子)-子思(孔丘の孫)の流れです。孟軻(紀元前三七二年∫紀元前二八九年)は、この子思の学団から思想的な影響を受けたと自認しています。つまり子思の孫弟子に当たります。宋代の朱熹によれば、『孝経』ばかりでなく『大学』も曾 參の作と仮託され、『中庸』は子思の作とされています。正統派によって作成されたという解釈から、『論語』『大学』『中庸』『孟子』という四書の作者が比定されたのでしょう。

 江戸儒学の古義学派は、古義を研究して、『論語』『孟子』は孔孟の思想を伝えていると言えるが、『大学』『中庸』は孔孟時代には使用されていない言葉が混じっているので、後儒の手が加えられていて、孔孟の思想を正しく伝えているとは言えないと断定しています。たしかに『大学』『中庸』には後の朱子学に連なるような理智主義的傾向が見られます。だから仁愛中心の「孔孟の精神」に悖るというわけです。でも『論語』自体に修己治人や克己復礼を重視する傾向が窺えますから、忠恕等の仁愛を中心に据える心情主義的傾向のみに儒教を還元することは無理があります。礼樂と仁愛の統一にこそ孔丘のテーマがあるのです。この統一に生きることこそが人間の人間たる由縁だという人間観を孔丘は抱いていたわけです。

 ところが春秋から戦国へと世の乱れが激しくなりますと周代の礼樂はますます廃れ、もはや「尊王攘夷」のスローガンは叫ばれなくなります。清の顧炎武(こえんぶ)(亭林)は『日知録』で、春秋時代と戦国時代の社会の区別のメルクマールを六つ挙げています(植村清二著『大世界史3万里の長城』文芸春秋社、83頁〜84頁)。

(1)春秋時代にはなお礼を尚び信を重んじた。戦国時代にはそうしたことはなくなった。
(2)春秋時代にはなお周の王室を尊崇した。戦国時代には全く王のことは言わなくなった。
(3)春秋時代にはなお祭祀を厳重に執り行い聘享(へいきょう)(訪問.宴会)を重んじた。戦国時代にはそうしたことはなくなった。
(4)春秋時代には家柄を重んじて、宗姓・氏族のことを論じた。戦国時代には一言もそうしたことは言わなくなった。
(5)春秋時代にはなお国邑の間の交際に、宴会があって詩を賦するふうな余裕があった。戦国時代にはそうしたことも全くなくなった。
(6)春秋時代にはなお外交上には赴告策書(信任状)があったが、戦国時代にはなくなった。

 なお植村は「春秋時代には人質の交換ということはなかったが、戦国時代には極めて普通に行われていた」と付け加えています。「尊王攘夷」という制約がなくなったので戦国時代の諸侯は、剥き出しの弱肉強食の時代をいかに生き延びるかを模索しました。

 晉は紀元前四〇三年に至って、韓・魏・趙の三つに分裂することが正式に認められます。この時をもって戦国時代に突入したのです。齊では田氏が齊の公室を圧倒するようになり、紀元前386年に元の齊の公室は追放されて、田氏が諸侯と認められました。戦国七雄と呼ばれたのは、この四国と秦・燕・楚の七国です。

 春秋時代は楚が強カで、楚の北進をいかに防ぐかという南北対立を基軸に展開しました。これに対して、戦国時代は黄河上流の秦が強力で、秦の東進をいかに阻むかという東西対立を軸に展開しきした。蘇秦は東方の六国が攻守同盟結んで、秦に共同で当たる合従策を唱えました。これは内輪もめで崩壊しました。張儀は連衡策を唱えます。これは秦と結ぶことで安全を計ろうとするものでした。これも張儀が秦の宰相を辞めると潰れてしまいました。

 秦は范雎(はんしょ)の提言で遠交近攻を採用しました。まず韓・魏を攻略して中原を手に入れ、これによって南の楚と北の趙とを圧迫し、おもむろに齊に向かう戦略です。

 戦国時代には、范雎・蘇秦・張儀など外交戦略を作成して、自分を宰相に売り込む縦横家が活躍したのです。彼らは仁義やそれに基づく王道政治等には関係なく、戦国時代にそれぞれの国が生き延びるということを唯一の目標にしていたのです。旧時代の権威が失墜し、周の礼樂が衰退した時代の中で、王道政治をただ正義だからと主張するのでは相手にされません。そこで孟軻も戦国時代を勝ち抜く唯一の戦略として王道政治の採用を諸侯に迫ったのです。

                             二、仁政こそ国を富ませる

 戦国時代は常に戦争の準備が必要ですから、軍備を整えるためには大変な財政支出が必要で、従って重税が人民に課せられることになります。「苛政は虎より恐い」という言葉があるくらいです。つまり家族を何人も虎に襲われて食べられているのに、人民はその土地を去らないのです。その理由を聞いてみますと、「苛政が無いからだ」と言うのです。重税や兵役や重罰等で苦しめられるよりは、たとえ虎に襲われる危険があったってまだましなのです。ですから苛政の国からはたくさんの農民が逃散するのです。そして仁政が行われている国に人民が集まってくるわけです。

 仁政の国には多くの人民が集まりますので、財政的にも豊かになり、軍備を整えることができます。また仁政の国は好んで戦争をするわけではありませんので、侵略の準備をしようとして過酷な重税を取る必要もないのです。その反対に苛政の国では、人民は為政者を憎んでいますから、兵に戦意は乏しく、戦争に負けて為政者が代わりますと、苛政から解放されるのではないかと考えて歓迎します。もし王道政治を行っている王が苛政の王を制裁戦争でやっつけるとしますと、苛政の国の人民は解放軍を迎えるように他国の兵に協力するのです。

 『孟子』「第一、梁の惠王上」によれば、周代のように封建制度を再確立し、九百畝の田を九分し、真ん中の区分を公田にし、まわりを八戸に私田として配分する井田法(せいでんほう)をきちんと実施して、重税をかけさえしなければ、豊かで平和な世の中に戻るのです。

 つまり五畝の宅地と百畝の田を各戸に配分します。「五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣、雞豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣。百畝之田、勿奪其時、數口之家可以無飢矣。謹庠序之教、申之以孝悌之義、頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉。黎民不飢不寒、然而不王者、未之有也」〔五畝の宅地に桑を植えれば、、五十歳になった者は絹物を着られます。鶏・豚・犬・猪等の家畜、その交尾期を逃さないようにすれば七十歳になった者は肉を食べられます。百畝の田、その農繁期に賦役にかりださなければ数人の家内では飢えを免れられます。学校教育を重んじ、孝悌の義を繰り返し教えれば、白髪混じりの人が道路で荷運びはしません。七十歳になった者は絹物を着、肉を食べ、庶民は飢えないし
凍えない。そのようにしても王ではないということはかつてありません〕(『孟子』については岡田正三著『孟子講義』第一書房刊を参照しました。岡田は『孟子』を『孟子』自体の文法に則して解読すべきだと主張し、そのまま原音に近い形で片仮名で音をふっています。また『プラトソ全集』『詩経國風篇』の噛み砕いた現代語訳や『論語講義』『孟子講義』を戦前に進歩的な立場で行っており、彼の仕事の復刻が待たれます。)

 五十歳に成らないと絹物が着れない、七十歳に成らないと肉が食べられないのは何とも貧しいと、思わないでください。この時代の生産力の水準や衣食住の文化の展開から見て、この程度の基準をクリアしておれば人民の生活は安定して豊かであり、.それほど不満を感じなかったのです。王たる者の責任は、まず人民のすべてがきちんとした定職に就くことができ、最低限度の健康で文化的な生活水準を享受できるようにすることだと孟軻は主張しているのです。

 孟軻は普遍妥当性を重視しますから、誰にでも最低これだけは保障すべきだという、最低限の基準を求めようとします。井田法という田の均分配分は、彼の普遍妥当的価値意識にフィットしているのです。ただ井田法を維持するには様々な困難を伴います。都市との市場的な関係が介在すれば貧富の差により、私田が売買されて地主制に変質する危険性があります。分割できないので相続問題、人口調節問題が生じます。井田法などの画一的な政策体系を維持しようとすれば、相当強力な中央集権的統治機構が必要になって、かえって専制的な苛政国家になりがちなのです。
孟軻は「第二 梁の恵王下」で齊の宣王にもハッキリと「九一の法」つまり井田法の実施を勧めていますが、周の制度だから井田法が無条件に正しいように主張していたと解釈する必要はありません。五畝の宅地、百畝の田で充分家族が飢えること無くやっていけると主張し、周の文王に倣って仁政を行うよう勧めたのです。農民には適当な田を与え、重税を課さず、農作業の支障になるような形での賦役を止めれぼ、食料も衣料も欠乏する心配がないという事です。ともかく人民の生活によく配慮すれば農民に豊かな暮らしを保障することが出来、民心を掌握することができるのです。もちろん人民が豊かなら重税でなくても財政は潤います。それが安全保障になるというわけです。

                           三、モナルコマキ(暴君放伐論)一

 周王室の権威が消滅し、諸公は自分の治めている国を私物化して捉えるようになります。卿や太夫が成り上がって国の実権を握ろうとする下剋上の風潮に対抗して、君権の絶対化を計ろうとします。そこで賢士を取り立てて君権強化の手を打ったのです。儒家も「尚賢」を説き、重臣(卿や太夫の代表)の勢力を退けて君権をもり立て、王道政治の実現を計ろうとしました。しかし孟軻にとっては、あくまでも仁義に基づく王道政治の実現が目的ですから、君権を強化Lた君主が、権力を私物化して、苛政を行うことは絶対に許せないのです。
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 「孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友而之楚遊者、比其反也則凍餒其妻子、則如之何。王曰、棄之。曰、土師不能治士、則如之何。王曰、已之。曰、四境之内不治、則如之何。王顧左右而言他」〔孟先生は齊の宣王に次のようにおっしゃいました。「王の臣下に妻子を友人に預けて楚に遊びに行く者がいたとして、彼が帰ってみると、妻子を凍えさせ、飢えさせていたならば、どうするでしよう」。王は「絶交するでしょう」と言われました。(孟先生は)おっしゃいます。「奉行が部下を統率できなかったら、(王様)はどうされますか」。王は一言われた。「罷めさせます」。(孟先生は)おっし
ゃいます。「国内が治まらなかったら、如何されますか」。王はお側の方をむいて他の話をされました〕(第二 梁の惠王下)

 孟軻は君主を国家の最高位の役職として捉えており、その責を全うできなければ、君主の位に止まる資格なしと宣王に諭しているわけです。宣王は君位は世襲で譲られるものだから、自分に固有であると捉えているのです。たしかに平和な時代なら少々頼り無い君主でも、いろいろ失政があったとしても王位を剥奪されることはなかったかもしれません。ところが戦国時代ではちょっとした失政につけ込んで内外の敵が君主を追い落とそうとします。孟軻の諫言を心して聞いておいた方が身の為なのです。

 失政を防ぐにはどうすれば良いのでしょうか。官吏の任免次第で、善い政治ができるかどうかが大きく左右されます。そこで孟軻は側近や太夫が推薦するだけでは任用しないで、士を含む国人が皆賢人だと言う人を任用するよう勧めます。罷免や処罰に当たっても同様です。広く国人の世論によって決めるように諭しました。しかしどのような手続きで国人の世論を集めるかが問題です。また国人の範囲をどう規定するのかも明確にしていませんから、孟軻の提言は広く世論の動向を見て決定しないと、官位がごく少数の特権貴族に独占されて、人民本位の政治ができないので政権の基盤が狭く、不安定になるという忠告です。

 「齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂、有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弑其君可乎。曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之残。残賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弑君也」〔齊の宣王が質間されました。「湯王は桀王を、武王は紂王を放伐したというの本当ですか」。孟先生はこたえて言われました。「伝えにそうありますね」。(宣王が)言われました。「臣下が君主を弑してもよいのですか」。(孟先生は)言われました。「仁を賊(そこなう者、それを賊と言い、義を賊なう者、それを残と言います。残賊の人、それをゴロツキと言うのです。ゴロッキの紂を殺したとは聞いていますが、まだ君を弑したとは聞いていません」〕(第二 梁の惠王下)孟軻に言わせれば、君主はただその位についているだけでは君主とは言えないのです。人民を安心して暮らさせることができて始めて、本当の君主なのです。悪逆非道なゴロッキが君主の位に就いて、苛政誅求を極めても君主と認めて従わなければならないのは、どうにも納得できません。そこで彼は君主は君主としての徳を傭えていなければ、君主ではないとして、このエセ君主の追放を正当化したのです。

 孟軻は地位という外皮よりも、徳という中身で真の君子を判断すべきだと言っているようにも受け取れます。その意味では易姓革命論は家系と君主の地位が天命で不可分に結びついていて、特別の家系でない限り、君主に成り得ない構造になっていますから、孟軻の精神的君子論の立場とは違うのです。それに対して、孟軻はゴロツキはチソピラであろうが君主であろうがゴロツキにはかわらないし、また真の君子はたとえ橋の下に住んでいても、精神的には君子に変わりありません。つまり人間の価値は身分によってではなく、徳によって決まるということです。

 孟軻は身分や地位を否定しているのではありません。彼はあくまで周の封建的ヒエラルヒーを肯定して、そこへの回帰を唱える反動思想家としての側面をもっています。それが儒家としての限界です。しかし封建的ヒエラルヒー自体を仁義に基づく王道政治のための手段として捉えているのです。封建的ヒエラルヒーで網打たれても、その事によって人間性は何ら変わりはないと言うことです。

 人間性に変わりはないけれど、封建的ヒエラルヒーの網が打たれれば、君主・卿・太夫・土・庶民の家系はそれぞれ違ってしまいます。これは内面的な徳では決まりませんから、天命によって決まるように、受け止められているのです。しかしあまり外皮と中身が矛盾しすぎますと体制が保てなくな
りますので、それを天命の衰えとか易姓革命として、精神的な君子が現実の君主になるべき天の与えたチャソスと理解しているのです。


                                 四、五倫の教え


 人間性に変わりはないということは普遍妥当的な道徳が成り立つということです。特に儒教道徳として大切なのは人間関係を大切にすることです。正しい人間関係の在り方として「五倫」が重視されています。江戸時代の寺子屋での庶民教育でもまず五倫が繰り返し、教え込まれたのです。さぞかし原典である『孟子』では詳しく五倫を論じていると推測していたのですが、それに該当する「第五 滕の文公」の「四」は大変長文なのに、五倫の解説は抜きなのです。

 后稷(こうしょく)という周の祖先の聖人が、民衆に五穀の栽培方法を教えたのですが、腹一杯食べ暖かく着込んでいるだけで、教育を受けなければ鳥獣と変わりがありません。后稷はこれを心配して、契を司徒(民部長官)にして人倫を教えさせたのです。その内容が「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」の五倫だと書いてあるだけです。

 孟軻が詳しく解説を加えなかった理由は、この五倫を教えるという聖人の仕事について触れただけで、五倫自体を強調することは、この文章の趣旨ではないからです。それにこのフレーズは孟軻のオリジナルではなく、しかもよく知れ渡っていた内容で解説を加えるまでもなかったからと思われ
ます。

(1)父子有親−「父」という字は鞭で叩いて子を躾けるところから由来しています。つまり父は怖いイメージを持たれていたのです。でも父が鞭打つのは、子が憎いからではなく、あくまで子が立派に育って欲しいと願う愛情からなんです。だから父と子は憎しみではなく、親しみで本当は結ばれている
のです。現代の父親はすっかり優しくなってしまいましたが、その代り鞭打っていた時の子育ての情熱も喪失しているのです。「父親不在」の時代ですから。

(2)君臣有義−臣下は君主に封禄をいただいていますから、君主の御陰で生きていけます。それで君主の命令なら何でも従うのが美徳のように思われがちですが、実はそれは保身的で、浅ましい了見なのです。もし君主が義に悖ることをしているのに、命令だからと言って無責任に追従すれば、君土が義に悖ることを助けるのですから、本当の忠義とは言えません。それに君主と共に自分も義に悖ることをしてしまうことになります。あくまでも君主を諫言し、聞き入れられなかったら辞める覚悟が必要です。もし社会的に見て重大な不正や過ちがあれば、君主を辞めさせることも必要です。
君主に仕えるのは元々封禄や権勢等私利私欲のためではなかったはずです。君主の義を行おうとする志に共鳴して、それを助けるためだったはずです。君臣関係が義で結ばれていることを忘れたら、臣下には主体性が無くなり、道義を見失って人間失格の破廉恥人間になってしまうのです。これは現代人にとっては企業と従業員の関係として捉え返すと、未だに深刻な意義を持っています。われわれ現代人は孟軻に恥ずかしいことをしていないでしょうか。

(3)夫婦有別-夫婦は互いに一体だと思って、何でも話し合いなれなれしくしがちです。でも封建制では両者の領分ははっきり別なんです。夫は社会で立派に職務を果たさなければならず、妻はしっかり家を守り、子供を育てなければなりません。妻に仕事のことでいろいろ話をしていますと、妻が喜ぶように仕事に私情を差し挾むようになります。縁故で人事や注文が決まることの多い中国では、妻の縁故が幅を効かします、これでは公正な仕事ができず、腐敗堕落の元です。古来「雌鳥が鳴いたら国が滅びる」と言われてきたのです。実際、殷の紂王は妲妃を笑わるために残虐刑を設けて悪評をかい、国が滅びる原因を作ったという伝説があります。

 たしかに公私の区別を明確にし、夫婦の役割分担をきちんとして、過度に干渉し合わないようにすることは大切です。ただ男尊女卑で女性の人格か認められていない時代における「夫婦有別」の強調は、夫権の絶対化を意図していたのでしよう。
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(4)長幼有序-年長者だからと言って、若輩者よりも有能とは限りません。.世の中、実力のある者が登用されて、のし上がり、年長者が軽んじられる傾向があります。いきおい若輩の上司が年長の部下を軽蔑して顎でこき使うようになり淋ちです。しかしやがて時代の変化についていけなくなって、自分も若輩者に追い越されて軽んじられるようになるかもしれないのです。年長者は豊かな経験を持っているのだから、常に年長者の経験に学び、尊重して立てていくのが人の道なのです。そうしてはじめて不遇をかこつ人がない良い世の中になるのです。このことは年長者をできるだけ職務上上位に就ける年功序列とは別問題です。むしろ「長幼有序」の精神が行き屈いていれば、実力有る若手を幹部にどんどん登用してもいいわげです。八十歳、九十歳になっても会社や政党の実権を一手に握って離さないようでは老醜と言われてもしかたがありません。

(5)朋友有信-朋友には相手の気持を思いやる余り、相手の心を疵つけ、友情にぴびが入ることを懼れて、なかなか相手の欠点を指摘したり、本当のことを正直に言いにくいものです。しかしそれでは真の友情とは言えません。ありのままを正直に伝えてやり、忠言できてこそ真の友「心の友」と言えるのです。「信」とは「真(まこと)」であり、相手のために真実を言うことなのです。互いに本音で語り合え、啓発し合えて、しかも相手が弱点をさらけ出しても喜んで助け合うことができる、そういう友達は企業の中ではなかなか育ちにくいものですね。

                            五、告不害との性善論争

 一般には孟軻の性善説と荀況の性悪説の対立が言われますが、両者は直接論争したわけではありません。荀況が九歳の年に孟軻は八十三歳で亡くなっているのです。孟軻に直接論争を挑んだのは告不害で、彼は儒家と墨家の両方で学んだと言われています。

 告不害は、「性無善、.無不善也(人間の生まれつきの性質には善もなければ、不善もない)」という善悪無記説を唱えたのです。口ックは「すべての観念は経験から」と述べ、生まれつきはホワイトぺ-パーだとしましたが、それと発想は同じです。善悪は社会的な経験の中で育まれていくものであるという立場です。

 孟軻は善が普遍妥当的なものであり、すべての人間に広がっていくものだというコミュニケーションの理論を持っていましたから、その受け皿としての人間の心には善に向かう素質が生まれつき有るのだと確信していたのです。それじゃあ悪にだって向かう人がいるのだから、悪の素質も生まれつきだと反論されそうですが、そ.れを認めると本来善に向かうものだということになりません。王道政治が実現するか、覇道政治がいつまでものさばるかどちらかわからなくなります。善というのは互いの信頼に支えられています。お互い根本のところで信頼され愛されていると信じ合ってこそ、人間は善良になれるのです。互いの善根を信じ合うのが出発点だと言いたいわけです。

 告不害は.「性猶杞柳也、義猶桮棬也。以人性爲仁義猶以杞柳爲桮棬(生まれつきはちょうど柳のようなもので、義はちょうど曲げ木細工のようなものです。生まれつきの性質が仁義だとするのは、ちょうど柳を曲げ木細工だとするようなものです)」(第十一 告氏 上)。この論法は荀況も使っていて、かなり説得カがあったのでしょう。。しかしこの論法は最初から性(生まれつき)には仁義がないことを前提していますから「仁義は生まれつきではなく人為的なものである」と主張しているだけで、論証とは言えません。

 孟軻は、曲げ木細工は柳を切って作るものだ、人間の場合は切って仁義を作るわけには行かないのだから、比喩が間違っていると批判しています。この批判は揚げ足取りです。性善説で批判するのなら、曲げ木細工を善とすれば柳にはそれに加工できるマテリー(素材)つまり善根が備わっていると反論すべきだったのです。

 次に告不害は人性を水にたとえます。水は東に行くか西に行くかわからない、同様に人性も善悪無記だというのです。孟軻は、水は東西の区別はないが、上下の区別があって、すぺて下に流れようとする。人性の善なのは、水が下に流れようとするようなものだとしたのです。水だってはね上がらせることができるが、それは無理やりやっていることで本来の性質ではないし、悪を行うのも人間本来の性質に反して、捩じ曲げられて行っているに過ぎないと見事に反論したのです。

 次に告不害は「生之謂性(生これを性と言う)」と言います。生と性の音が一緒なので意味も通じていることを主張したわけです。それで孟軻は、それじゃ白を白というようなものかと尋ねます。告不害が認めますと、孟軻は、白羽の白はo白雪の白、白雪の白は白玉の白のようなものかと尋ねます。告不害が認めますと、孟軻は、それじゃあ犬の性は牛の性のようなもの、牛の性は人の性のようなものかと迫ったのです。つまり畜生と人を一緒にするのかという批判です。

 孟軻は、言語矛盾を衝く形で批判を展開しようとしますが、まともな批判とは言えません。白羽の白、白雪の白、白玉の白はそれぞれの色が同じ白だという意味です。だからこれは同様だと認めて支障はありません。でも犬の性、牛の性、人の性の場合ば、犬と牛と人とでばそれぞれ性が違うから、犬の性、牛の性、人の性と区別するわけです。

 告不害は、生まれつきの生命=身体の能力が性だと言いたいのです。それは自己保存本能に支配されているだけですから、道徳的な観念は持っていません。傾向性に支配されているだけなのです。カントによれば、人間には先天的に道徳的な実践理性も備わっていて、傾向性を抑制して義務に従わせようとするわけですが、告不害の立場では実践理性は後天的に経験を通して形成されるということになります。ですから告不害に対する批判としては、道徳性が生まれつきであることを論証すべきだったのです。

                           六、「惻隠の心」はいかに生じたか

 カントの場合は、実践理性の先天性は霊魂の不滅と同様の問題ですから、道徳的に要請されることで理論理性で論証できることではないのです。でも彼はそれを確信することはできるのです。つまりだれもが欲望や利害にだけ流されるのではなくて、そういう煩向性を抑制してでも人間としての普遍的な立場に立ってなさなけばならないと思われる義務に従おうとする意思を持っているからです。もし魂が不滅でなく、理性が経験に基づいてのみ形成されるとしたら、現世を支配する欲望と利害の法則だけが理性の判断基準となってしまうはずです。この現世利得の法則を抑制する実践理性が普遍的に成立している事実が、その先天性を確信させるわけです。

 でも個人的な欲望や利得を抑制して、他人や公共のために献身しようとする意志がどう形成されるかは、個々人の具体例を集めて検討してみなければ、安易に先天的だという結論は下せません。身体的あるいは個人的な自己にアイデンティティを見出すだけではなく、社会的経験を通して、様々な社会集団との融合体験を重ねる内に、家族的自己、サークル的自己、会社的自己、地域社会的自己、民族的自己、国家的自己、全人類的自己、地球的自己等いろいろなレベルでのアイデンティティが形成されるのです。

 孟軻の場合も原理的にはカントと同様なのです。つまり人間である限り、だれもが善根を持っているという事実から人間が生まれつき善だという帰結が生じるのです。

 「孟子曰、人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心行不忍人之政、治天下可運之掌上」〔孟先生はこう言われました。「人には皆他人に対して忍びなく思う心(他人の不幸を黙ってみていられない心)を持っています。先王は人民に対して忍びなく思う心を持っておられて、人民に対して忍びなく思う政治をなされました。人民に対して忍びなく思う心で人民に対して忍びなく思う政治を行えば、天下を治めることは掌の上で自由自在になります」〕(第三 公孫丑 上の六)

 実際には良心的な心をもって善意で政治を行ったから、良い政治ができるわけではないのが現実です。例えば、窮乏している人民がたくさんいる場合、社会保障を充実させて貧民救済を最重点に行うのが良心的でしょうが、なにぶん国全体も貧しければ、社会保障にばかり財源を回すと、産業発達のための投資ができなくなり、いつまでも貧しい国のままで終わってしまいます。そんな時に、産業開発を最重点に置いて国全体を富ましてから、後に社会保障を充実するという戦略も考えられます。何が結局人民全体の福祉や窮民救済に最善かは善意だけではわからないのです。

 とはいえ良心や善意がなくても、政策目標を実現するための科学的な政策立案能力さえ有れば、良い政治ができるというものでもありません。やはり政治家や現場の行政官が親身になって真心と思いやりの政治をすれば、貧しいながらも人民は見捨てられず、励まし合って充実した生活を送ることができるのです。

 「所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有 タ惻隠之心。非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非悪其聲而然也、由是觀之、無惻隠之心非人也、無羞悪之心非人也、無辭譲之心非人也、無是非之心非人也」〔「人が皆他人を忍びなく思う心が有るという根拠は、仮に今、人がいたいけな子供が井戸にまさに落っこちそうなのを見れば、だれでもはらはらして惻隠の心(憐れみいたむ心)を持ちます(そして助けようとします)、そうすることでその子の父母に取り入ろうとするからじゃありません。そうすることで土地の人や友達に褒めてもらおうとするからじゃありません。非難されるのが嫌でそうするわけでもないのです。この事実からそこの道理を洞察しますと、惻隠の心が無いのは人ではありません。羞悪の心が無いのは人ではありません。辞譲の心が無いのは人ではありません。是非の心が無いのは人ではありません」〕(承前)

 孟軻は他人が危急の事態を目撃するとだれでも助けようとするという事実から出発します。そして「惻隠の心」を持たないのは人間じゃないという結論に向かいます。そこで言いたいのは、人間である限り持っているのだから、「惻隠の心」は生まれつきだということです。肝心な分析が欠落Lている
のです。何故他人の危急の事態を目撃すると、自分のことではないのにハラハラしてしまうのかという心理の分析が無いのです。

 条件反射はメモリィ(記憶)の連鎖を形成することによって成立します。崖ぷちに立つと恐怖に足が竦みますが、それは崖から転落する姿を連想するからです。他人が崖ぷちに立っているだけでは、自分の足は竦まないかもしれませんが、他人が転落しそうになるのを目撃しますと、さすがにショックを受けるものです。

 動物は種によって同じ習性を持っていますが、それは同種の動物の行動を模倣するからです。うまく模倣できた者だけがその種の習性を身に着けることができるので、生存できるのです。模倣する主体がまずあって模傲するのではなく、模倣しなげればサンクショソ(制裁)にあったり、不適応を起
こすので模倣せざるを得ないわけです。模倣は主体的ではないということは、模倣対象と自己を同一化して模倣対象が自己であるかのように共鳴的に行動してしまうということなのです。

 模倣は他人の行動を見ながら、脳裏で他人と自已を同一視することによって成り立ちます。この習性から他人の転落という事態に直面すれば、我が身が転落するかのような恐怖心が生じるのです。感覚次元のことですから、ごの感覚的な事態にどう対応するかは、この恐怖から免れるために対象の危機を救うという行動になります。

 .この心理や行動を社会意識から反省Lますと、我が身のことのように他人のことを思いやる意識として評価されるのです。それは模倣学習によって体験的に習得したものですから、生まれつきとは言えませんが、種の習性を獲得する過程で習得したものであるという意味では人の性を構成しているとすることもできます。

 ただし、「惻隠の心がないのは人ではない」というのは感情的で問題があります。動物だって救助活動はするわけですから、この場合の「惻隠の心」があるからといって、別に人間のレベルまで到達したわけではないのです。むしろ条件反射的にはらはらして助けようとする衝動を抑制して、この場面でも落ちつき払い、利害得失を打算する人間がいたとしたら、相当私人的なエゴが発達した人物ですが、「人ではない」とは言えないのです。実際、最近の市場経済の急速な発達を見せる中国で、川で子供が溺れかかっていて、それを見ながら、男たちがその子の母親と助けたら幾ら謝礼を貰えるか交渉している内に、溺れ死んでしまったという事件が起こっているのです。

 「羞悪の心」や「辞譲の心」や「是非の心」がないのも人ではないというのは、具体例も示されず断定されています。たしかに悪いことをして恥ずかしいと思う気持ちや、人に譲ろうとする気持、自分の行動を道徳的に間違いはなかったか反省する気持ちは誰にでも少しはあります。でもこれらの
心も社会的に獲得された意識であって、生まれつきの性質ではありません。社会的に人間として生きていくためには不可欠だという意味で人の性を構成するのです。孟軻は、これらの意識が形成される構造を明確にしないまま、誰にでもある意識としてしまうので、これらの意識を生まれつき持っていたかのように性善説を展開したのです。彼があくまで言いたかったことは、これら四つの心はすべての人に有るのだから、人間は互いに心を通じ合い、協力し合っていけるということです。

                             七、四端から四徳へ

 「惻隠之心仁之端也、羞悪之心義之端也、辭譲之心禮之端也、是非之心智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣。若火之始然、泉之始達、苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母」〔「惻隠の心は仁の端(はじ)まり、羞悪の心は義の端まり、辞譲の心は礼の端まり、是非の心は智の端まりです。人にこの四つの端まりがあるのは、人に四本の手足があるようなものです。この四端を持っていながら、自分には出来ないという者は自分で悪くなる者です。君主に出来ないと言う者は、自分の君主を悪くする者です。およそ自己に四端を持っている者なら、だれでも皆四端を拡充することが出来るのです。ちょうど火が燃
え始め、泉の湧き始めるようなもので、それを拡充することさえ出来れば、充分に天下を保つことができるのです。でも拡充しなければ、父母にも充分仕えることは出来ません」〕(承前)

 「端」は繋がっている全体の端であり、そこから全体が始まっている部分です。つまり「仁」が全体だとすると「惻隠の心」は、仁の端くれであり、第一歩だということです。そこでだれもが持っている仁の端緒を大切にし、拡大していけば、仁全体が自分の徳になるという理窟です。同様の理窟で悪いことをして恥ずかしいと思う「羞悪の心」を拡充して仁を行動に現わそうとする義の徳を、人に譲ってあげようとする「辞譲の心」を拡充して、仁義を正しい形で実現Lようとする礼の徳を、自分の行いを仁義礼に悖ることはなかったかと常に自分に問いかける「是非の心」を拡充して、仁義礼に関する見識を磨く「智」の徳を養うことができるのです。

 「仁義礼智」に「信」を加えて後に漢の董仲舒が「五常」を唱えます。五つの普遍妥当的な徳という意味です。互いの信義は「仁義・礼智」を共有しているところから成り立つので、五番目に「信」の徳がきたのでしょう。「仁義礼智信」が普遍妥当性を持つというのは、人間社会が成り立つためにはどうしても協力しあい、信じ合っていかなければなりませんので、納得がい.きます。でも何が「仁義礼智信」の内容に相応しいのか、相応しくないかは歴史的、社会的に文化の違いで種々様々です。価値観が変動する社会構造の変動期には、道徳的な価値に対するペシミズムが蔓延しがちです。既成の権力と共に礼楽の衰退した戦国時代にあって、この反道徳的ペシミズムに対抗してあくまでも普遍妥当的価値意識に基づく道義主義的な価値観、人間観の再構築を目指したという点で孟軻は重要です。

 孟軻によれば、四端は手足のように誰もが持っているものですから、誰でもやる気になれば四徳を備えた君子に成れるということです。成れる素質がありながら、成らないというのは自分を自分で駄目にすることでけしからんというわけです。もちろん君子には成れても、必ずしも君主に成れるわけではありません。皆が仁義礼智を備えた君子に成れば、世の中は徳の高い人ばかりで素晴らしいユートピアが実現するという構想でしょう。しかし四端は持っていても、それを表に出すと善人を気取ってるんじゃないかと思われるかもしれないと、遠慮する人がわりと多いんです。近頃の若者も、お年寄りがバスで立ってると同情はするけれど、代わってあげるのがとても勇気が要るみたいなんですね。

  たしかに規制されたり、きつく言われたりするど一応従うけれど、自分から仁義礼智をとことん追求して立派な聖人君子を目指そうなんて人はなかなかいません。それより四端より野球の素質がありそうだからプロ野球のヒーローを目指そうとする少年の方がよっぽど多いですね。第一、政治家を目指している若者だって、地位や権力に憧れているんで、四徳を磨こうなんて御仁は野党政治家でも少ないような気がしますね。もちろん宗教家や哲学者志望の人でも同様ですが。孟軻は人間だれしも四端があるから四徳を目指して努力すべき存在だ、道義に生きるべき存在だと言いたいのです。

                      八、普遍妥当的価値は幻想か

 この普遍妥当的価値は現代社会では崩壊したとか、元々、幻想だったどいう論調が、現代思想では有力なんです。かつてマルクス主義者の中ではヒューマニズム一般を超階級的な協調主義として、ブルジョワジーのイデオロギー支配の道具と見なしたり、プチ・ブルイデオロギーとして排斥する傾向が有力だったのです。実存主義も普遍妥当的価値の崩壊を前提にして、キルケゴールは「単独者」、二ーチェは「神の死」および「能動的ニヒリズム」を説いたのです。すべての概念や思想を問題解決の道具に還元するプラグマティズムも、普遍妥当的価値の崩壊を自明視しているのかもしれません。

 ルネサンス以来育んできた近代ヒューマニズムは、ヨーロッバの市民社会の内包的な成熟に支えられていました。そこでは商業及び商品生産の発達による均質的な価値観や人間観を育てていたのです。それは実は非ヨーロツパ的な文化を無視ないし軽視して、いわば非ヨーロッバ人を非人間的な存在と見なすことで成り立っていたのです。

 ところが資本主義的な世界市場が拡大していきます。非ヨーロッパ的な文化との接触、交流が本格化します。そこでかなり異質な価値観に基づく文化との本格的な遭遇を体験したのです。特に言語学や人類学などが、東洋と西洋であるいは未開と文明で思考方法が随分異なっていることを強調しました。一つひとつの言葉の意味の広がりが違うので、翻訳が難しいことからも、同じ人間であっても原理的にコミュニケーショソは不可能じゃないかって、痛感させられたようです。

 そこでこれまでのヨーロツパ文化を基準に、東洋や未開文化を理解することを止め、それぞれの文化に固有の思考方法、価値観からそれぞれの文化を相対的に理解しようという文化相対主義が有力になったのです。つまりこれまでのヨーロッパ的価値観、人間観は普遍妥当性を持たないと認めたわけです。

 それに十九世紀は産業革命が全ヨーロッパに普及し、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立が激しくなりました。人間としての共通の利益、共通の考え方は幻想だと思われたのです。そして資本主義の不均等発展は、民族的な利害の対立を激化させ、民族意識の高揚をもたらしますから、ヨーロッパ内部でも普遍妥当的価値意識への懐疑が高まりました。

 その上、十九世紀も押し詰まってきますと独占資本主義の時代になり、巨大な生産機構、国家官僚機構が成立し、工業都市を中心に大衆社会が形成されました。大衆は大量生産機構から生み出される均質化した商品文化を非主体的に流行に合わせて享受する没個性的で機械の部品化した非人格的な存在に貶められたのです。それで近代社会の確固とした普遍妥当的価値は喪失され、「人格の喪失」が現代文学の主要なテーマになったのです。

 ところが「戦争と革命の時代」であった「二十世紀」は思想的には一九八五年のペレストロイカの開始と共に終焉しました。ゴルバチヨフは「全人類的価値の優先」を平然と打ち出したのです。それはまた、法意識の分野では基本的人権に基づく自然法体系、「法の支配」、権力分立原理が普遍妥当的価値であることの確認につながったのです。

 二-チェが普遍妥当的価値(=神)の死を告げ、実存主義者たちが普遍妥当的価値などないから、全く自由な主体的決断に任されているとした割りには、自由、平等、博愛の近代的価値観は強固でした。また近代的人格も全体主義や管理社会の圧力に耐え崩壊の危機と闘っているのです。

 平和と民主主義、さらには連帯と協同を求める世界人民の運動は、「社会主義」世界体制の崩壊を負の遺産にしながらも、普遍妥当的価値を担っている限り発展するのです。

 また文化の違いによって心性が異なるのは言わば同義反復です。異文化間の完全なコミュニケーションが不可能だからといって、普遍妥当的価値が無いのではなく、不完全ながらも理解し合おうとする努力の中に、普遍妥当的な価値があります。葬式では泣くのが礼儀の国と、泣かないで堪えるのが礼儀の国と、笑って祝うのが礼儀の国があります。これは宗教的な生死観の違いや家族制度の違いによるのですが、どれも故人を深く愛し、大切に思う気持ちに変わりはありません。

 具体的にどのように振る舞うのか、どのような対象を尊重するのかというところでは、それぞれの文化圏で大きなずれがありますが、四端や四徳あるいは「仁義礼智忠信孝悌」等の形式自体は普遍妥当的な道徳的価値なのです。とは言え、それらも世捨て人にとってはどうでもいいことでしょう。その意味では先天的ではありません。それでも人間社会が成立して、互いに依存し合って暮らしているのですから、それらを人間ならわきまえるべき普遍妥当的な徳目としてだれもが認めます。その内容では激論するかもしれませんが。普遍妥当的価値が見直され、それに基づく人類の協同が目指されようとしてる今日、孔孟思想の再評価にも現代的意義があるのが、おわかり頂けたでしょうか。

                          九、道義主義的人間の再評価

 『孟子』にも封建的な身分秩序を絶対視する観点が貫徹していますから、民主的な社会を建設していこうとするわれわれは、批判のメスを入れながら読むべきです。本居宣長は逆に反動的な臣道の立場から、暴君放伐論を含む民本主義的な孟軻を全否定しました。立場が異なるところがあれぼ全否定というスタイルは生産的ではありません。われわれは『論語』や『孟子』から道義主義的な生き方、人間観を学びとる必要があるのです。

 戦後民主主義教育は、戦前の忠孝中心の『教育勅語』に代表される反動的な儒教的修身教育を否定して出発しましたから、儒教道徳の再評価には強い拒絶反応が予想されます。しかし全面的に正しい思想を構築することがいかに至難であるかを、「戦争と革命の時代」であった二十世紀は教訓として遺してくれたのです。またある特定の思想に全面的に否定すべき思想だとレッテルを貼るのも愚かなことです、それぞれの時代の課題と真剣に格闘した思想は、その時代を超えて人類の普遍妥当的な課題を明示してくれています。われわれは過去の思想の過ちの山の中から、時代を越えて妥当する思想的な珠玉の遺産を掘り出すべきなのです。

 「忠孝」についても、「忠」に関する孔孟の思想は、君への絶対服従を説く、目本的な臣道とは異質です。元々真心を尽くすという意味だったのです。君に忠義を尽くすのは、決して盲従するのではなく、自己の信念に従って、誠心誠意君と義を共にすることであったのです。「孝」に関しては『孝
.経』が、家父長家族のイデオロギーの特徴として父権を絶対,化し、神聖化しています。しかもそれを仁の根本とし、すべての道徳的基礎にしている点で非常に偏った内容になってい.ることは否定できません。

 それでも父母の遺体として自らの身体を捉え、まず自分の身を大切にすることから出発して、身を立て名を揚げて、自分の社会的貢献を通して父母の存在意義を顕彰するという発想は、親のためとは言いながら、親子の一体性の論理を利用してちゃっかり自己実現を計る逞しさがみられます。

 それに現代人は夫婦とその子の単婚小家族を基本形にしていて、子供を育て上げることを主な責任と考えるため、老人に居場所が無くなっているのです。子育てを終えて、今度は自分が老人に成ったときのことは切り捨てているんですね。子を愛情を持って育てることを、親に孝養を尽くすことより大切だと割り切ってしまうと、.そこに姥捨ての思想が潜んでいるのではないでしょうか。老人の問題を考える時、「孝」の発想を切り捨てて、老人福祉や高齢化社会の問題として処理すみのは、やはり大切な心が欠落Lている感じは拭えませんね。じっくり『孝経』や『父母恩重経』を読むべきです。

 孔孟思想における「道」は仁義に基づく王道政治を実現する方法であり、実現しようとする営みを意味します。その道に基づいて正しいことが道義です。人間の存在意義はこの道義のために献身することだと考えるのが、道義主義的人間観です。孔孟が理想とした社会は封建的ヒヱラルビーが貫徹し、それに相応しい礼樂が行われている社会です。それは性善を信じ、人間性に信頼する真心や思いやりの仁義とは矛盾します。われわれはむしろ人格の平等に則った礼樂の文化創造による構築を展望すべきです。
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 「大道廃れて仁義あり」と『老子道徳経』は儒家を痛烈に批判しましたが、道義に生きなければならないのは、まさしく仁義に基づく政治が廃れてしまっており、人々のつながりがずたずたに引き裂かれ、お互いの思いが伝わらなくなったからなのです。二千年代に向かっているこの時代も、大道が.廃れているのではないでしょうか。(注ーこのエッセイは1993年6月に『月刊 状況と主体』に掲載されたものです)


                         十、「新世界秩序」への道

 
 いわゆる「社会主義」世界体制が崩壊し、ソ連邦まで解体してしまいました。「社会主義」がイデオロギー的な看板でしかなかったとはいえ、「社会主義」建設という共同の目標の下で諸民族は、表面的だったにせよ激しく憎しみ合うこともなく、隣人として仲良く暮らせてきたのです。.ところが「社会主義」というイデオロギー的な看板が剥がされてしまいますと、たちまち剥き出しの民族衝突です。イデオロギーの崩壊がもたらす精神的空白を、民族主義が埋め合わせをし、これまでに鬱積してきた体制への怒りを他民族へ転化したのでしょうか。

 しかし戦争や憎しみにエネルギーを費やしても何の利益にもなりません。.それより多民族が共同して仲良く暮らせる共同の大義を見出す方がはるかに建設的です。民族的エゴが荒れ狂って、世界が細分化すればするほど、民族の自立の経済的基盤が破壊されていき、ますます不利な条件で寡占化した多国籍企業が支配する世界市場に吸収され、統合されていかざるを得なくなるのです。しかも地域紛争が持続すれぱするほど、全人類的課題への共同の取り組みが遅れますから、人類的危機への対応が手遅れになり、環境問題や資源間題、食糧問題等で大観模なカタストロフィが生じる確率が高くなります。

 そこで地域紛争を小規模の内に収拾し、人類的危機に全人類的な共同の取り組みを有効に組織するための「新世界秩序」の形成が、人類的な大義として課題に上っているのです。それはグローバルな課題に対処できるグローバルな規制力を発揮できなければなりませんので、民族的主権を制約し、グローバルな立法能力と統治能力を保持する必要があります。ですからこの構想は必然的に世界連邦構想につらなるわけです。

 しかし「新世界秩序」は超国家的独占資本の世界支配体制の政治的補完物としてしか形成され得ないという危倶があります。ですからこの形成に当たって、超国家的独占資本の活動が各国の民族経済を発展させ、環境保護を前進させ、国際間の所得格差を縮小するのに貢献するように、しっかり規制できるものにしなければなりません。「新世界秩序」への北(先進工業国)からのプログラム(綱領)に対して、南(発展途上国)からのプログラムが対置され、資本のプログラムに対して労働のブログラムが対置されなければなりません。当然グローバルなプログラムによる政治戦線、労働戦線の構築が課題になるのです。世界中の議会に議席を獲得できる政党でなげれば、統一的な「新世界秩序」へのプログラムは作成できないでしょう。

  「新世界秩序」の最優先課題は、当然地球環境の保護です。これは奇跡に近い自然のバランスで守られている地球生命全体の生態系を開発によって惹き起こされる破壊から守り、以前の均衡を取り戻す仕事です。これは失敗が許されない非妥協的た仕事ですから、そのために途上国の開発に支障が出ても仕方がありません。リオ・サミットでは「持続可能な開発」をキーワードにし、環境保護が開発による経済発展によって可能になるかのような危険な論調を張りました。そして先進国の環境保護基準を途上国に機械的に当てはめることを拒否したのです。

 たしかに先進国の産業革命以来の無秩序な産業開発が、地球環境を破壊してきたのですから、その付けを途上国に回すのは納得いかないかもしれません。でも現実に今後の最大の危険は、膨大な人口を抱える途上国が低い環境保護基準で急速に工業化することです。先進国の公害防除技術を途上国に無償で移転できるようにする国際的な機関を設置し、先進国の環境保護基準を途上国にも当てはめることができるようにする必要があります。

 途上国の産業開発を推し進め、南北間の格差を縮小するには、技術格差が過大な現状では、先進国の資本と技術を導入するしかありません、そのことが異民族支配や経済従属・国際的搾取とならないように「新世界秩序」で調整ができ、世界的規模での所得再配分が実現できるようにしなければなりません。

                        十一、道義主義的人間の時代一

 人類的危機に直面して、「新世界秩序」の形成が緊急の課題になっている今日、これを単に国家間の政治的調整の問題に矮小化していては全く前進は望めないでしょう。一人ひとりが地球市民の自覚を持って、グローバルな課題解決に主体的に乗り出さない限り、過去幾千年と続いた国家間、民族間の相剋を乗り越えるのは不可能です。だからこそ「礼樂復興の道」「仁義に基づく王道政治実現の道」に孔孟が生きたように、「新世界秩序の形成の道」に生きる道義主義的な人間の出現が強く望まれているのです。

 憲法を無視してPKOへの自衛隊参加が強引に実行されていますが、これも冷戦後のいわゆる「新世界秩序」において日本が相応の国際貢献を果たさなければ、国際的な道義に悖るという口実を使っています。圧倒的なアメリカの軍事力で片づけてしまおうというやり方は、通じなくなってきていますから、今後は国連が中心に問題解決を計っていくことになりますと、経済大国化した日本も平和の配当を受けるだけでは許されないということでしょう。

 でも日本には憲法第九条があります。一切の戦カは放棄しているはずだから、軍事的な貢献ができるわけがありません。でも実際は自衛隊という世界屈指の戦力を保有しているわけですから、憲法を口実に派遣しないのは余りに身勝手すぎます。そこで道義に叶った選択は二つしか有りません。憲法を遵守して自衛隊を解散するか、憲法を変えて自衛隊を認知し、その役割に集団的安全保障を入れるかのどちらかです。自民党の小沢一郎を中心に「SAPIO」や「日刊ゲンダイ」の論調でも憲法改正による自衛隊の認知と派兵を求める動きが強まっています。でもせっかく東西冷戦が終結し、世界的規模での軍縮を推し進める絶好のチャンスです。非武装国の大国があればこれ程良いお手本はないので、朝鮮戦争以前に戻る方がはるかに国際貢献になるのです。自衛隊派兵を憲法で認知しようとする狙いは、東アジアを目本経済圏として確保する安全保障にあります。しかし自衛隊が東アジアの憲兵化することは、大東亜共栄圏の再現として各国の民族意識を刺激し、かえって火種を作ることになり兼ねないのです。大義を取り違えるととんでもないことになります。

 最近の日本の大学生は余り勉強しなくなったようです。理工系に行くと勉強が大変だからと敬遠する受験生が増え、入試では文科系の方が難関なのですが、入ってからは留学生も驚くほど勉強しないんですね。最小の努力で単位を取ればいいという発想なのです。確かに単位を取るための勉強なら、しなくてもいいんですが、自分で問題意識を持って、使命感に燃えて学問に取り組む姿勢が見られないんです。企業に入ってから再教育ざれるからいいなんて考えはいただけません。それなら企業の注文どおりの人問に成ってしまうじゃないですか。せっかく大学という自由に自分の問題意識で学問できる特権と時間を獲得したのに、もったいない限りです。彼らは受験体制の中でただ合格のためにだけ勉強してきたので、今さら、問題意識を持って、人類的課題に取り組むなんてことは御免被りたいのでしようか。

 青年諸君!これかちは青年の時代なんですよ「新世界秩序」への道を切り開き、重くのしかかっている人類的危機を見事クリアして、人類の統合と自然との融合をなし遂げられるか否かは、青年が情熱的に全身全霊でぶつかっていくかどうかにかか.っているんです。決して中途半端な気持ちでいたのでは成功しません。未来は青年のものです。一体どんな未来に生きたいのですか。まさかカタストロフィの未来を体験してみたいとは思わないでしょう。

 でも考え方次第では、地球生命の根本的な危機に直面し、東西冷戦後の混迷を体験しながら、新世界秩序を形成しようとする時代のただ中で、次の二千年代の人類の歩み方を方向づける岐路に立っているのですから、大変素晴らしい時代に生きているとも言えるのです。われわれの奮闘次第で人類と地球の明るい未来が約束されるのです。われわれはこの道義に生きることによって自分たちの存在価値を人類史に輝かせることができるのです。

 こごでわれわれが道義を見失い、民族エゴや、私的享楽にのみうつつを抜かしていたら、これまでの人類がわれわれに託した願いや思いを踏みにじることになり、.次の千年を生きるはずだった子孫の無限の可能性すらすべて消し去ることになります。人間存在は、地球生命全体にとって余計であるどこ.ろか破滅をもたらす極悪的存在であったことになるのです。

 今こそ自分たちが何のために生まれ、何をすることが最も意義深く、輝いて生きられるのか考えてみるべき時代ではないでしょうか。ただ一度きりのやり直しの効かない自分だけの人生なんですから、何に使おうとあなたの勝手ですが、自分を粗末にだけはしないでください。何が自分を最も大切にすることなのかじっくり考えてみるべきでしょう。

〔参考文献〕
岡田正三著『孟子講義』第一書房
保井温著「2000年代に向けて ヤスパースの歴史哲学ー.『歴史の起源と目標』」(『月刊状況と主体』1990年7月、9月、10月号)


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