シェーラーによる人間観の五類型
                                             

                                                                                はじめに

 人間への問いは優れて現代的な問いです。また常に現代的な問いとして問われてきました。人間とは何かを問う時、常にその時代に生きている人問存在を問うからです。特に現代という時代は、人間存在自体の危機に直面しています。

 そればかりか、人間は人間存在だけでなく地球生命全体を危機に陥らせているのです。その中で人間存在そのものが自然全体から観て、果たして肯定できるのかどいう根本的な疑念が生じているのです。核戦争の危機や、進行しつつある機械文明による自然破壊を振仇返りますとき、人間な
ど生み出さなかった方が、生命全体にとっては良かったのじゃないかという思いに襲われる程です。

 もし文明の発展が、地球生命全体を滅ぽしてしまう結果をもたらすのなら、自分自身が地球生命の一形態でしかないことから鑑みまして、人間は自分自身の首を締めることしか出来ない大変な大馬鹿者だと言われて当然でしょう。人間は知によって文明を造り上げて来たのですが、それは実は痴愚の積み上げに他ならなかったということです。この事は実は古代の思想家や聖人によって、警鐘を打ち鳴らされてきたことです。また中世にはエラスムスが出ました。彼は、人間の本質を痴愚として提えることによって、人間存在を救済するところにキリスト教の本領を見出しています。
一『痴愚神礼讃』)知が人間の私有物として意識され、自然と人間との間の裂け目となったので、却って知が痴愚に転化したのです。

 知が自然自身の自己反省として捉え返され、人間が自然の即自かつ対自的な知の中枢として、自己の存在意義を自覚することが大切です。そのためには人と物の抽象的な区別への固執を克服する「人間観の転換」が必要なのです。しかし、この転換には、人と物の区別に固執して、.人の物化との対決に主要な現代的課題を見出している現代ヒューマニズムからの脱却が求められます。ところで、現代ヒューマニズムを批判している構造主義では、旧来の個人的な主体としての人間は死を宣告され、言語の支配が強調されているのです。言語は人間間の関係を代表しています。その
場合、まだこのシステムは人間自身としては捉え返されていませんし、諸個人や諸事物の主体的な役割は見失われてしまいます。個と全体の矛盾が弁証法的に捉えられていないのです。

 人間観の転換を為し遂げるために、これまでの様々な人間観を整理し、その成果と残された課題を明らかにしておく必要があります。そこでまずマックス・シェーラーによる人間観の五類型を紹介しましょう。彼は大戦間時代に活躍した思想家です。当時のヨーロッパの人々が抱いていた人間観を五つに類別しました。(一九二六年「人間と歴史」)この類別は彼自身の人間観であるミクロ テオス(小さな神)観の展開にとって導入となるものです。(一九二七年「宇宙における人間の地位」いずれも『シェーラー著作集十三』所収)


                              
一、宗教的人聞観


 第一類型は〔宗教的人間観〕です。ヨーロッパの宗教ですから、ユダヤ教・キリスト教に隈定されます。『バイブル』に基づいて、堕罪や審判、超越神による直接的な創造などの神話が宿命的な暗い人間観を形成してきました。シェーラーによれば、これはあくまで神話であり、荒唐無稽なものなのですが、ヨーロッパ人には深い精神的な影響を与え続けていると言います。これがヘブライズムの精神的伝統です。シェーラーは、人間にとって超越的な他者であり、審判者である神の存在を拒否し、神を人間自身が生成させるものとして主体的に捉え返し、「宗教的人間観」からの解放を目指したのです。'東アジア文化圏では、儒教、仏教、道教の人間観、インドや日本ではそれに多神教的な人間観も加えて、「宗教的人間観」の特徴を検討する必要があるでしょう。

                              
二、ホモ・サピエンス観

 第二の類型は、〔ホモ・サピエンス(叡知人)観]です。彼はホモ・サピエンスを理性を具有する人間と理解しています。宗教的人間観では、物事を知ること、それを自分達の欲求充足のために用いることは、神から自立し、離れることに他なりません。エデンの園の堕罪はその象徴だったのです。その結果として人間は神から裁かれる宿命にあることになります。それに対して、ホモ・サピエンス観では物事を知り、その法則を利用することは、神に対する離反ではないのです。何故ならそのような能カは神から人間だけが与えられたからです。

. この理性とは元々神の摂理ですが、自然は神の摂理の現われであり、いわば即自的に自然には神の摂理があるわけです。理性は従って自然を貫く法則性です。他の動物は自然の法則に従って生きていますが、自然の法則を対象的に把握し、それを利用することは出未ません。この自然の法則、即ち神の摂理である理性は人間にのみ対象化され、意識されることになるのです。この捉え方では神が先ず居て、それが自然に理性としての自己を示すことになります。ですからこの理性は与えられるものであり、それゆえ、恒常不変です。歴史的な事情や民族の違い、身分の違いによって制約されることはないのです。シェiラーに言わせれば、二ーチエとディルタイは、この理性が実はギリシア人の造りものであることを看破したのです。これはヘレニズムの精神的伝統なのです。

 ホモ・サピエン久観は、理性の有無で人間と動物の断絶をはっきりさせます。この点ではシェーラーと一致するのです。でも、神の摂理としての理性が人間に先在していて、人間に授けられるという構図は、彼には認め難いのです。神の摂理、神自身としての理性は人間において生成すると シェーラーは主張するのです。とは言いましても、シェーラーの場合、自然の諸事物がそれぞれの関連の中で様々な因果連関を形成していることを否定しているわけではないのです。無機的自然、有機的自然はそれぞれに固有の因果連関を示しています、しかしそれらは人間特有の理性的な ものではない、と言いたいのです。人間において始めて、自然的なもの、.生命的なものを超えた精神的な連関が形成されます。精神的なものを含まない自然的なものの運関まで理性的だとは言えない、とシェーラーは考えます。

 天賦的な理性を肯定し、それが主体として世界を認識する立場はこのホモ・サピエンス観に入ります。ですからアナクサゴラスのヌース(理性)を端緒としてギリシアのイデア論的な観念論や、自然法思想、大陸合理論、ドイツ観念論などはこの系譜に属するとシェーラーは説きます。

                            
  三、ホモ・ファーべル観

 
第三類型は[ホモ・ファーベル(工作人)観]です。シェーラーは精神的なものと生命的なものが断絶しているという立場を強調しています。ですから、人間の理性は動物的な知恵が進化論的に発達することによって生成した、と説くことを拒否しました。シェーラーによれば、人間の理性は動物的な知恵とは全く異質な精神的な要素を 持っています。ですから、知恵がいくら発達し、記号や道具を使うまでに発達しても、それは欲望や衝動に根を持つような動物的な機能の一面的な発達に過ぎないことになります。人間を記号を使う動物、道具を使う動物、頭脳動物等と規定しても、すべて欲求充足のために工作する人間つまりホモ・ファーベルとして人間を規定してしまっており、人間の本領である精神的な性格を見落としていることになるのです。

 シェーラーは、べーコン、ヒューム、ミル等のイギリス経験論、コント、スペンサーなどの実証主義や、ダーウィンの進化論、マルクスの唯物史観、フロイトの精神分析学をこのホモ・ファーベル観に含めています。イギリス経験論の流れでは、自己保存本能に基づいて快・不快の原理を立て、欲求を充足しようという衝動を説明します。種としての欲求充足に成功して環境に適応出来れば種が進化.します。これに失敗すれば、種が滅ぴるわけです。ダーウィンはこのように自然淘汰による種の進化を説きました。

 マルクスも生物的な衝動に歴史を還元している、とシェ-ラーは解釈しています。

「歴史とは本来階級闘争の歴史であり、『餌場を巡る闘争』であるとする、いわゆる経済学的(マルクス主義的)歴史観は、栄養衝動系のうちに集団的な出未事全体の最も強力な決定的原動力を認め得ると、さらにはあらゆる種類の精神的な文化内容を単なる随伴現象、歴史的な利益社会の状況の変化に応じてこの衝動を満足させるための錯綜した迂路と見なすことが可能であると考える。」(147頁)

確かにマルクスも個体と家族の自己保存を基底的だと考えました。衣・食・住・生殖を営むための物質的な生産とその関係を土台として、この土台の上に精神的な文化、政治的な機構などが築かれていることを踏まえなければ現実的な議論にならないことを強調しました。しかし、そのことは精神を単に胃袋を満足させるための働きと捉えていたことにはならないでしよう。

 フロイトは、神経症の原因を抑圧された性衝動に求めました。シェーラーによればフロイトは精神を性衝動に還元したことになるのでしょう。そうではなくて、フロイトは精神が身体の機能である以上、身体の持つ衝動を基底にしていることを強調しているのです。基底にしているからといって、その上に成立した精神が性衝動でしかないというわけではないのです。むしろ、精神や文化の領域は抑圧されたリビドーを秘めたエネルギー源としながらも、昇華されて反対物に転化しているのです。フロイトの場合、人間の文化はリビドーの抑圧の上に成り立っ.ているところに特色を持っているのですから、動物との断絶を否定しているのではなくて、いかに断絶しているかを衝動に対する規制によって説明しているのです。

 シェーiラーは動物が世界と断絶していなくて、人間だけが世界と断絶していることについて、動物は感覚的な存在であり、環境世界を超出できないが、人間は理性的であるから対象化でき超出できるのだとします。ここで注意を要するのが、シェーラーによれば知恵の発達や言語の使用は必ずしも精神的だとは言えないことです。彼は精神的なものとしては聖なるものを求める高貴な感情を典型として、価値的感情や人間的感動等を考えています。そういうものは動物的な知恵がいくら発達しても生じては来ないだろうと言うわけです。そこでホモ・ファーベル観では決して人間の生成は説明できないということになります。

 しかし、人間は猿から進化したものだとすれば、動物的な衝動を充足するための知恵の発達から人間の理性の成立を説くしかないのではないでしようか?シェーラーがホモ・ファーベル観に類別した人々はその成否はともかくこれを試みている点で積極的に評価されるべきでしょう。シェーラー自身は精神の成立について説得的に論証できているわけではありません。

                        
四、「必然的デカダンス」としての人間観

 第四類型は、〔「必然的デカダンス」としての人間観〕です。人間は頭脳では他の生物より進化したかも知れないが、生命カとしては「発展の行き詰まりの袋小路」になってしまっている、という考えです。頭脳の産み出したものはこのような生命力の衰退を埋め合わせ、代用するものなのですが、それでは種の衰退は蔽い難いと、この人間観は警告します。人間は欠陥動物である(ゲーレン『人間学の探究』)とか、錯乱動物(ホモ・デメンス)であるとかこの人間観では主張しています。

 この考え方をする人の中には、いかにも人間は、ホルモンの分泌に問題があって、近い将来に絶滅する運命にあると説く者もいますが、それは眉唾としても、他の動物には必要のない言語や道具を使わないと生きていけないのは欠陥だとも言えるでしょう。幼態胎生のために授乳期間、育児期間の 長いのが人間の特色だと言われています。そのせいで自然環境に対する本能的な適応力が弱いので、色んな道具や衣服を造ったり、特有の家族や社会を造って種族の保存を計っているという解釈もあります。幼態胎生を人間が動物一般から区別される最大のきっかけだとする説は、実はイオニア哲学のアナクシマンドロス以来の系譜がありますが、他にもカンガルーなどの幼態胎生の例はあり、これが決定的だとは言えません。それでも、その面からの説明が可能なのですから、幼態胎生等の身体的な不利が、かえって知能によってカバーされることになり、音声信号や道具の使用とその発達を促したと考えられます。それがまた知能の発展に大きな刺激になったのでしょう。

 人間を欠陥動物だと捉える考え方は、本能的な適応力の優劣という動物的な尺度で人間を計るものです。人間は本能的な適応力に頼らなくてもよい分だけ、動物的な限界を超えているのです。それを動物の尺度で欠陥だといっても有効な批判とは言えません。進化の行き詰まりによって人間の生命力が弱っており、その結果、知的生産が活発化したという論理も、その逆の場合も充分考えられますから説得力に欠けます。近年イリイチが極論していますが、学校のせいで思考力が衰退し、病院のせいで自然治癒力が損なわれる事もあるのです。他の動物では、新しい環境に適応.する為の努力によって身体的な変化が種の規模で起こりますと、.新たな種に進化します。ところが、人間の場合は、新しい環境に適応するためには道具改良すればよいので、その際に身体的な変化は必要がありません。この数万年の間に、自然に対する適応能力を飛躍的に増したにもかかわらず、新人段階では殆ど身体的な進化は起こっていないことに注目すべきです。人間の場合、 道具や生産物を含む人.間的自然全体が進化しているのです。

 身体的な進化の停止から人間の衰退を間題にする人は、きっと、.機械文明の発展によって、環境が破壊されたり、巨大な機械や機構の中で個人の主体性が喪失しつつあることなどから、システムや機械は進歩してもその下にある人間個体は衰退しているという社会的な問題を、生物学的な 種の衰退の問題に読み換えているのです。この人間観の弱点は、人間を個体の生理の面からだけ捉えている点にあります。種はその環境世界を定在としているのですから、人間の場合人間の身体のみならず生産用具や生産物、それに派生して生み出される諸機構や様々な文化等、人間的自然全体の再生産構造を包括的に捉えるべきなのです。
 
 この「欠陥動物」の指摘によれば、言語は事態に直接的、生理的に対応できなくなった結果、使われるようになったものです。事態はそれを事物として対象化し、事物の性質や状態、事物間の関係として捉え返したとき、言語的に表現できるのです。しかし、その段階では生の第一次的事態とは、ずれてしまっています。対象化する以前の主観・客観が未分化な事態を真実態としますと、言語で捉える事物化された事態は倒錯態だということになります。

 現代フランス思想で「物象化」と言いますと、主にこの言語による把握の倒錯性を指しているようです。確かに、動物の事態に対する対応は、感覚的、生理的な対応です。つまり一定の刺激に対して一定の反応が、個体と類の体験知に基づいて選ばれるのです。対象的な事物は生理的な刺激に還元されていますから、主観・客観図式は止揚されています。これに対して、人間は感覚的な刺激を対象的な事物の属性として受け止めるのです。そこで「何々はしかじかである」という主語・述語構造を成す言語的認識が成り立つのです。


 ところで第一次的事態に対して直接的に反応することが、自己保存という生体の論理からみて正しいかどうかは疑問です。感覚の裏切りをべ-コンは強調しています。似ている事態を区別するには、事物に対象化して捉える必要があるのです。それに事態を事態としてしか捉えられないとすれば、それに対する対応は直接的で生理的なものでしかなくなります。如何なる事態かを規定し、概念的に把握することは出来ません。ですからそれに対して冷静で的確な判断を下すことは出来ないのです。事態が事態でしかないのなら、それはまだ如何なる事態でもないわけで、それは確か な存在として現れているとは言えません。その意味では事態の第一次性に固執するのは正しいとは言えないのです。

 逆に言えば事物の関係として始めて事態は現れているのであり、その意味では、事物の第一次性も認められるべきです。ですから言語による物象化を、一方的に倒錯だと決め付けるのは理性的とは言えません。シェーラーは、この[「必然的デカダンス」としての人間観]が生命次元の間題提起に停まっていると、その限界を指摘しています。彼は人間は生命次元を超えているとし、この問題提起を却下しています。

                              
五、要請的無神論の人聞観

 第五番目にシェーラーが取り上げているのが[「要請的無神論」の人間観]です。彼が念頭に置いているのは二ーチェとハルトマンおよびケルラーです。その後活躍するサルトルももちろんこの類型に入るでしょう。カントは実践理性の要請として、「神」と「魂の不死」を説きました。つまり、理論的には神の存在証明は不可能だけれども神が存在しないとすれば、あるいは魂が肉体と共に滅びてしまうとしたら、肉体の傾向性に逆らって、当為を守ることの意義が揺らいでしまうと言うわけです。カントは理論的には神や魂の不死を確信してはいなかったけれど、きちんと教会に通い、神と魂の不死に対する信仰を示してきました。理論理性の世界では、世界は現象としてしか現われません。そして我々は事物を現象界における因果法則に従って認識するだけです。物自体は遂に姿を現わさないわけです。そして物自体が存在することも、理論理性で証明することは不可能です。実践理性の世界でも、現実の行動は物理的、生理的なカで動かされますし、あるいは社会的な利害 関係で規制されています。互いの人格を目的にした行為を貫くのは客易ではありません。しかし、物自体があるように現象界を超えた実在の世界があり、そこで神が居給もうて、魂が不死であるとすれば、傾向に流される事なく、実践理性の命令に従う事ができるのです。

 ところで、実践理性は「汝かく為すべし!」と語りかける内なる良心の声です。もしこれ以外の如何なる命令にも従わないとすれば、実践理性は神に取って代わっていることになります。そこでカントでは自己が神化していると評されることになるのです。おそらくキリスト教的に言えば、実践理性は聖霊なる神に当たるわけでしょう。超越神論としてのみキリスト教を理解していますと、神である聖霊と魂は峻別されます。聖霊は天から下り心に宿るとされます。みそなわす(イマニエル)神である聖霊と悪霊が魂を引き合うのです。カントにあっては、実践理性は真の主体であるという意味では自我であり、魂ですが、聖霊の側にある、聖霊といわば合一した魂です。

  魂の不死は、ギリシア的な神観念から言えば、魂の神化に他なりません。永遠不滅とすれば、それ自体絶対的な存在ですから、神との差は量的でしかなく、自ら小さな神と開き直ってもいいわけです。実は如何なる超越神論でも、表向きは神と人間の断絶を強調しますが、それは神からの救いを確実にし、救いによって自ら絶対的な永遠不滅なものになるための論理なのです。何故なら自分は塵に等しいのに対して神は全智全能なのだから、心から帰依すれば救って下さらない道理はないわけです。救うとは魂の永遠不滅の保証に他なりません。ところで魂の不死は元々魂の定義のようなものです。と言いますのは、身心二元論では、身体が滅びるのに対して滅びないものとして魂を対置しているので二元論になっているのですから。そうしますと、魂は始めから救われているようなものです。ただし魂の不死を信じている者にとってだけですが。

 魂の不死は、不死のシンボルとしての神の実在の信仰によってのみ信仰可能になります。しかし、神が実在するとすれば、総べての実在、総べての善は神に由来することになります。神は全智全能であり万物の創造者であるとすれば、人間は善を行うことも自分自身の責任に於いてではなく、神の御心のままになのです。ルターはこのことを強調して、「自由意志」で善を行えることを否定し、『奴隷意志論』を著わしたのです。

 要請的無神論は、このルターの土俵で、神が存在するのなら神は全てで人間は無に等しくなってしまうから、人間が自らの自由意志で行動し、自ら責任を負う為には、神は存在してはならないと説くのです。ところで神が不在だとすると、魂の不死は保証されないのではないでし ょうか、また人間が善を行う義務あるいは自由はどうなるのでしょう。神がいないとしたら塵に等しい人間に如何なる生きる意義や支えがあるのでしょう。

 二ーチェの場合、魂の不死を認めないで、身体と共に魂も滅びるとツァラトストラに語らせています。しかし、一方で永却回帰を説いています。魂は人格として捉えられるとき自我ですが、それは身体なしでは存在できないので、身体と共に滅びるのです。しかし、魂はプシュ ケーとギリシア語では言いますが、プシュケーは生命という意味でもあります。身体が滅びることが我々の常識では死ですから、プシュケーも身体と共に滅びるように思われますが、ギリシア人は生命としてのプシュケーを破壊できない実体として捉えます。つまり身体は亡んでも、それは生命即ちプシュケーが身体から脱け出しただけなのです。身体から脱け出したプシュケー(魂=生命)は天に昇って、空の星になると俗に言われます。ギリシアではプシュケーは希薄な程純粋でして、それで天に昇り天の火即ちアイテールと合体するのです。火は空気即ちアエールがより希薄でより乾いた状態です。ところで、プシュケーは元来が気息を意味していて、空気が身体に出入りすると生きているので、生命は空気だと考えられていたのです。このことはインドのウパニシャッド哲学の奥義にあたる「ブラフマンとアートマンとは一つである。」のアートマンの原義もやはり気息である事と照合します。

 もう推測がついたでしよう。身体が滅びると生命は自然のアルケーである空気にかえるのです。自然(フィシス)全体、宇宙(コスモス)全体が生命即ち魂なのです。ですから個人的には、身体的な死によって個人的な命は終わり、全体的な命に帰るわけです。そして全体的な生命の繋がりの中で、新たな個体的な生命が生み出されることになります。この全体的な生命の運動は、巨大な悪無限的な循環を繰返すのです。何故ならコスモスは完結した全体です。外部はないのですから、外的な要因はゼロです。コスモス全体の運動を関数的に捉えますと、巨視的には全く同じ循環が繰返されることになるのは必然的です。そうしますと、全く同じ人格が繰返し現われて全く同じ生を営む永却回帰も、観念的には合理的です。もちろんこれはコスモスのマクロ、およびミクロにも、無機界、有機界、精神界にも究極的には同じ数的処理が可能であることが前提ですが。

 さて、神がいなくても道徳は成り立つか、という問い掛けに答えましょう。これは逆に無神論者の社会では、不道徳な人間ばかり集まっていることになるかどうか考えてみれば分かるでしよう。山賊の集団でもそこには厳しい規律とともに、仲間同志の友情や信義があります。また首領に対する忠義の心も持っているものです。首領も手下に分け前を与え、その功に酬おうとします。そこには慈愛の心や利他心も当然あるのです。道徳心や人倫的精神というのはそれぞれの社会や集団が成り立ち存続していくために、その社会や集団の中で個々人を規制するルールを積極的に受け止め、進んで従おうとする心情をいいます。構成員の多数がそのような態度を採らない限り、社会や集団はスムーズに運営されません。その結果、構成員の利害が損なわれることになります。ですから、神を信仰する、しないとに拘らず、道徳心は養われるのです。むしろ、神の名の下に正しいとされたことに無批判になってしまうのは、反って道徳的ではありません。自分自身の理性から判断して正しいことを貫く方が道徳的とも言えます。神は何しろ絶対者であり、神に背きますと未来永劫に苦しめられるという脅迫観念を信者は持っていましたから、たとえ世界を滅ぽしてしまえという命令であっても、神の命令であれば従うのが信者の立場です。つまり宗教は、究極的には、社会的な善悪の彼岸にあるのです。これに対して、具体的に自分の属している社会や集団にとって為になる、と自分で判断したことを誠実に行う方が、自分の私的利害の為だけでない点でより道徳的なのです。

 厳密に考えれば、信者が宗教的な教義に従って善を行うのは、むしろ当然のことであって、カント的な義務を果たすという意味で、道徳的ではないのです。ただ不信心が彼に悪を行わせるだけです。言い換れば、信仰に基づいて神に従うことが善であり、そうしないことが悪です。この定義では本当に信仰していれば善を為すしかなく、悪を為す余地はないのです。ルターは『キリスト者の自由』でキリスト者は自由に自発的に善を行うのであって、神に義認される為の手段として見せ掛けに善を行う必要はないとしています。これでは神の意志に従うだけだから自分自身の主体的な判断は成り立ちません。近代的な主体の立場に立てば、それなら神が居ては主体が消滅するので、神が存在しないことにしようと言うことになるのです。

 しかし、ルターの神は教会という外的権威を通して現われる神ではなく、内面的な信仰を通して現れる神ですので、それだけ主体的な性格を持っています。カントはこの内面の神を一般意志に置 き換えたルソーの文脈で読み換えます。「万人に妥当する行為の格律」にそった意志としての実践 理性の命令に従えというのです。この実践理性は、善を行うとする意志であるだけでなく、主体の判断によって、社会的に万人に妥当する善を行うとする意志ですから、近代的自我として 自己を自覚しているのです。それでは神はどうなるのかと言えば、普遍妥当性の存在を支えるものとして要請されているのです。ですから、カントの場合、一つの解釈としてですが、実践理性は内面的な神を主体化してそれを自我の核心に置いたものだとも言えるでしょう。そこには個々人の人格的な主体性がかえって自己目的化され、聖化されているのが分かります。カントに於いては普遍妥 当性を護るためには、内面で支える神があることを捨て切れないわけです。

 要請的無神論では、普遍妥当性を与える神が無いということが、主体性の支えになります。と言いますのは、それぞれの社会や集団ごとに護るべき人倫性の性格が異なります。地域や民族・国家あるいは階級や世代、様々な立場によっても、生き方、考え方、価値判断の基準が多様になっています。カント的な意味で「万人の普遍妥当的な行為の格律」を求めるのは困難なのです。ですから二ーチエは神の死を説くのです。

 要請的無神論では、それぞれの人格が自己の責任において、自己の信念に基づいて行動し、自己自身の生の可能性を最大限に発揮することを主張します。普遍妥当的な道徳が不可能で、それぞれの社会関係から規定された相対的な人倫しかないのなら、それぞれの人 間関係、社会関係に自己を没入させてしまってはならないのです。より高い可能性の限界に挑戦するためには、人倫に自分を釘付けにする十字架を克服すべきなのです。相対的でしかない道徳を絶対化することによって、人は自己を矮小なままで聖化し、自分の生の可能性を殺してしまいます。この生命に対する裏切りこそ、最む蔑むべきだというのです。こうして個々人が自己の限界に挑戦し、その為に敗れ去って没落していくことにこそ、人間の使命があるとします。この積み重ねこそが人間が自分の限界を超えて人間以上のものに高まる条件を産み出すと考えるからです。神が死んだ以上、生命 の大いなる差し潮として、人間が自分をより大きな可能性へと高めていくこと自体が最大の目的であり、価値であると断定しています。

 ところで人間的な諸価値、諸道徳の相対化をとことん押し進めますと、自己の可能性の限界に挑戦したり、自己の権カの強大化をあくまで追求するために、人倫的な諸関係を軽んじてもよいことになりかねません。あるいは、ある特定の社会関係(例えば民族国家)だけが重要視され、他の 社会関係が蔑ろにされる事もあるのです。また一人の陰謀政治家が超人とオーバーラップされて、その専制支配を可能にするイデオロギーとして機能することになるのです。


                       
六、ミクロテオスとしての人間観

 シェーラーは、要請的無神論の問題提起に強い共感を示していますが、普遍妥当的な価値、内なる神は今まさに我々が共同で形成しつつあるものであるから、これを無碍に否定してしまうのは良くないと考えています。「人間と歴史」を発表した一九二六年は、国際協調の時代でした。内部に 戦後処理に不満なナチズムの台頭を抱えながら、誰もが恒久平和体制の確立を願っていました。人類全体を包括するようなヒューマニズムが叫ばれていたのです。カントは実践理性の要請として「神」と「魂の不滅」を信じる態度をとりましたが、もとよりそれは論証され得るものではなかったのです。

 我々は超越的な神の存在によって、道徳的に支えられていると考えることは、既に出来ない時代に生きているのです。近代市民社会において、神を信じて生きていると口では言っても、信じているなら決して出来ないような罪を重ねています。それぞれの市民は、神によって生かされているとは考えていません。自分の甲斐性で生きているようなつもりでいるのです。ですから神を殺しておいて、いかにも 敬虔な信者のような顔をするのは欺瞞でしかありません。

 それでも我々の心情には愛や美に感動し、自己の可能性の限界に挑戦し、人生の意義を求めたり、自然や人間達の営みの中に偉大さを感得したりすることができます。このような聖なる感情は、人間にしかないものです。シェーラーは動物的な手段的な知恵がいくら発達しても 敬虔な聖な る気持ちには達しないと断定しています。人間において始めて精神的な世界が形成されるというわけです。神は人間の中に生じた宗教的感情を、超越的なものとして対象化して捉えたものだと考えるのです。ですから、神は人間の中にいるのです。正確には人間の中の精神的な在り方が神なのです。神と人との二元論的な把握は否定されています。

 シェーラーは「哲学的世界観」という論文(『著作集十三』所収)こうのべています。

「人間はミクロコスモスであり、物理的、化学的、生命的、精神的な存在の一切は、人間の存在において出会い、交叉するのだから、人間においてマクロコスモスの最上位の根拠も研究されることができる。それゆえに人間の存在はミクロテオス(小さい神)として、神に至る最初の通路である。」

  一般に神と人間の同一性を主張するのは、人が神に救済されるときに、人間の限界を越えて、不死なる存在に変わるからです。不死は実は神の定義なのですから、人と神は魂の不死によって同一性を持っているのです。ところがシェーラーのように魂の不死も主張しないとすると、神と人の同一性は専ら精神性に限定されます。人の魂は身体とともに個人的には滅びるしかないのなら、それはやはり神ではあり得ません。シェーラーは神概念を変化させているのであり、物的、生命的な要素のみならず精神的な要素をも含む存在を神の定義にしているのです。だから人 間はミクロテオスだということに,なります。しかしこれは神の定義ではなく、元々人間の定義です。そのように定義を変えるなら、どうしてかを説得的に展開しなければなりません。おそらく人間は全ての要素を持つ故に宇宙の根拠を自已の内に蔵していると直観したからでしよう。

 宇宙の根拠に精神的なものが入るのは何故でしょう?人間に宇宙の根拠が有るのなら、どうして雨のひと雫の中には無いのでしよう?それに、精神は人間の何処にあるのでしよう?前頭葉の中に詰まっているのでしようか?恐らく人間の脳髄を顕微鏡で覗いても精神は見えません。反って人間の作り出す独特の空気振動や、様々な生産物の動きの中に精神の中味が見えるのです。人間を人間の身体だけに限定して捉えることは出来ません。人間的な自然全体の再生産構造全体を人間として捉え返す必要があるでしょう。

 その中で身体的な個人がいかに自己の存在を了解して生きることができるのかが問われなければなりません。見てきましたようにシェーラーの人間観の五類型は、彼自身の独特のミクロテオスという人間観の展開の前梯となるものでして、かなり主観的な区分でしたし、解釈も強引な解釈が目立ちます。とはいえ、大戦間の激動と不安の時代にあって、既成の宗教や形而上学の破綻を踏まえ、衝動的あるいは道具的な理性の堕落を克服し、人 間に対する不信や絶望を乗り越えて、愛や感動や畏敬の気持ちを持ち続ける人間性にあくまで信頼して、危機の時代にこそ精神的.な協同の営みによって滅びることのない尊いものを生み出すことができることを訴えているのです。彼の講演は、熱烈な感動の嵐を巻き起こし、そのどよめきは容易に静まらなかったといいます。(生松敬三著『人間への問と現代』NHKブックス参照)

 

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