このエッセイは『月刊 状況と主体』1992年1月号に掲載されたものです。元の題名は「筒井康隆『虚航船団』を巡って」でした。

 

筒井康隆『虚航船団』の人間論―文房具対鼬

やすい ゆたか著

第一節 息子コンパスの夢

一、唯野教授の名講義

筒井康隆の『文学部唯野教授』が大変な人気ですね。大学の実態を風刺したところなどは、永年非常勤講師をさせてもらっている私も部外者とは言えない面があって、あまり笑えないのですが、唯野教授の講義は、決して浅くない内容を大変要領よく、しかもわかりやすく壷を押さえて説明していて流石だと思いました。しかもそれを東京の若者向けの軽い乗りの口調でべらべらと喋りまくって、学生たちを文学論の世界に引きずり込んでしまう魅力に満ちていたのです。この乗りで予備校の講義ができたら超人気講師間違いなし、たちま
ち一コマ五万円から十万円、年収五千万円から一億円も夢ではない、なんて妄想を抱かせます。さぞかし筒井康隆自身が

講義をすればおもしろいだろうと思って、筒井自身によるハイデガー『存在と時間』についての講演テープを聴いたのですが、残念ながらこれは期待はずれでした。やはりあの唯野教授の講義も虚構だったんですね。

ニ、『虚航船団』の構成

なんといっても筒井の作品では『俗物図鑑』と『虚航船団』がスケールの上でもおもしろさの上でも群を抜いています。両方ともカタストロフィーの美学みたいなのがあって、崩壊に向かって盛り上げていくのがとてもうまい。さて文学論に紙数を費すゆとりなどないので、本論の『虚航船団』における人間論に入ります。

 宇宙全体の司令部みたいなのがあって、その配下の宇宙船団は各星からの宇宙船によって構成されているんです。この船団が宇宙の秩序維持に当たっているという設定です。文房具船というのは文房具星から派遣された宇宙船で、その乗組員は全員文房具なのです。そして文房具船に指令が下るのです。クォール星に侵攻し、そこの住民である鼬(いたち)絶滅するようにと。別の鼬の星では、鼬口爆発に伴って治安が乱れ犯罪が増加したので、特に凶悪な囚鼬を千年前にクォール星に流刑したのです。これがこの千年間で二十四億鼬にも増加し、文明も今の地球並に達し核戦争もおっぱじめる程になって、少しも凶暴さが取れていないので絶滅させるべきだと思ったのかどうか、ともかく絶滅指令が下り、文房具たちは「天空からの殺戮者」となります。

 筒井は第一章では文房具たちの精神分析を展開し、第二章ではクォール星の鼬の世界史をなんとも浅ましい地球の世界史のパロディとして展開します。そして第三章はもちろん文房具対鼬のハルマゲドンです。一つの文房具船だけで二十四億鼬を一鼬残らず殺し尽くすことは不可能で、結局文房具たちは全滅し、わずかの鼬と文房具と鼬のハーフが生き残ることになります。戦いが終わってから、母鼬マリナ・クズリは彼女とコンパスの無口な息子に、これから何をするのか尋ねます。眼だけ母親の血を引いた息子は「ぼくかい。ぼくなら何もしないよ」「ぼくは、これから夢を見るんだよ」と答えてフィナーレです。

 

三、虚構と現実

異形の息子コンパスはクォール星では現実の世界を引き受ける立場にありません。夢を見て虚構の世界に遊ぶしかないのでしょう。虚構の世界が現実の世界よりつまらないものだと誰が断定できるでしょうか。文房具船の世界は異常が日常化した人間界のパロディですし、鼬の千年間の営為は地球の世界史のパロディに過ぎないじゃないですか。現実は虚構で、虚構が現実なのです。この最後の台詞から察するに、作中の登場者である息子コンパスに、これは虚構の世界だと気付かれてしまっているんです。馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうが、これが筒井流なんですね、きっと。

 作家にとって彼が描き出す虚構の世界は、その世界の中では完結した現実であって、それが虚構であるなんて事をばらしたら、ふざけているとしか言い様がありません。読者は馬鹿にされていると思うでしょう。筒井はそれを承知で読者に果敢に挑戦しているわけです。漫画でよくやる手法なんですね、あの作家が途中で顔を出して「締切だ、速く書け」なんて編集部の人に急かされるやつ、あれをやってるんです。慢画だから読者も息抜きみたいで、それをおもしろがるんですが、小説だと少しもおもしろくないです。はぐらかされている気がするものです。それなのに筒井は「これは純文学なんだ」って、逆説みたいな宣言をします。何だか人間論に入ると言ったのにいつまでも下らない文学論をやっているように思われますが、これが筒井流です。何故純文学かというと、言い換えると何故人間論かというと、現実が虚構で、虚構が現実で、つまり現実のパロディが虚構のパロディですから、われわれの現実だって息子コンパスの夢かもしれない。唯野教授は虚構のための虚構の理論をリアリズム論に対置しているのですが、現実の世界をいったん虚構だと受け止めないと、いたたまれないんです。現実の世界をいかに受け止めて生きるか、その生き様を真面目に作品化したのだから純文学なのです。現実が虚構だと示すために〈蛇足だけど〉わざと作家の家庭が登場し、路地を回っている選挙カーの連呼まで聞こえてくるのです。

四、いたたまれない現実

筒井は残虐で凶暴な本性を抑え切れない鼬の世界史を描いていますが、これは人間の世界史のパロディですから、人間を動物的な衝動を本性に持つ存在として把握しているのです。ただ地球の鼬はどうか知りませんが、クォール星の鼬は処刑や戦争となると相手を喰い殺すのです。戦争で一々敵を喰っていたら、それ程敵をやっつけられないと思いますが、そんなことはお構いなしに喰うこと喰うこと呆れ返る程の食鼬症です。おそらく筒井の理解によると、人間の闘争本能も相手の肉を喰いたいというカニバニズム的衝動の発露なのでしょう。愛情も極点まで達しますと、愛憎という形にメタモルフォーゼ(変態)され、抑圧されていた衝動が一気に解放されて生の形を現わします。これが身体的な一体化であり、性衝動ですが、極端な形が身体的取り込みつまりカニバニズムなのです。実際に食べるかどうかよりも人間の世界史が要求した血の量が鼬に劣らないのですから、人間はこれ程ひどくはないなどとは決して言えないのです。

それに現実がいたたまれないということは、筒井自身が否定し難いものとして、現実に対して抱いているカタストロフィーへの予感があるということです。それを直視した作品が『幻想の未来』ですが、そこでは環境破壊や核戦争の危機を踏まえて人類の未来を黙示録風に予言しています。このカタストロフィーを防ぐための努力も、彼は彼なりに作家として危機を対象化することを通しているのです。しかし歴史は常に、流れに逆らおうとする個人の思惑や努力をも自己を貫く契機に変えて進行していくもので、簡単に流れを止めることはできないものです。現実を絶対化すればいたたまれない思いが募るばかりです。

五、作家的ヒューマニズム

そこで自己の内部の想世界を無限に膨らませて、そこに様々な可能性を思い描き、それを想世界の内部で現実化させる営みが精神的な救いをもたらすのです。現実の世界は様々な日常の煩わしさや、小さな利害にこだわり焦繰しがちです。個人の短いしかも非力で貧しい生活では、ほとんどの望みははかない夢に終わり果てます。人類全体をとっても、筒井のいうような『幻想の未来』が待ち受けているだけかもしれないのです。たしかに夢は覚めれば終わりですし、小説も読み終わればまた退屈なせわしない日常が待ち受けています。それでもわれわれは虚構の世界に帰る度に、新鮮な可能性が現実化する疑似体験を重ねることができるのです。何故筒井が一見荒唐無稽なとSFの世界の夢を描くのか、これでわかります。それが純粋に虚構なので無限の可能性が現実化できるからなのです。筒井は現実には人間はクォール星の鼬や文房具でしかないが、虚構の中では無限の可能性を生きることができる存在だ、といういかにも作家的ヒューマニズムとも名付けるべき人間観を示しているのです。

第二節 文房具人間の可能性

一、ホンモノの文房具が字宙船の乗組員か?

さて話題をいよいよ文房具たちに戻しましょう。『虚航船団』で最も奇想天外と期待されたのが、文房具たちが宇宙船の乗組員となり、クォール星の鼬文明の破壊に乗り出すという設定です。この設定そのものはたしかにちょっと思い付きません。まさかコンパスや三角定規やナンバリングや日付スタンプや下敷き等が、宇宙船の乗組員だなんて思いませんよね。一体どんな展開になるのかと固唾を飲んで読んで見ると、第一章は文房具たちの精神分析が続くのです。そこで何だ文房具というのは人間の性格を表現する記号じゃないか、本当の文房具じゃなくて、コンパス的人間とか消しゴム的人間とか糊的人間とかいう意味なんだ、なーんだそうか、そんなら詰まらないな、というような反応が批評家たちの間で起こったのです。「〜的人間」などは小此木啓吾に任せた方がよいと思ったのでしょうか。本当の文房具が活躍した方が奇抜なのにということでしょう。

 クォール星の鼬は鼬だけど文明を築き、地球人のパロディみたいな世界史を展開しているのですから、文房具たちが宇宙船に乗って、「天空の殺戮者」になっても良かったのにと私も思います。だからもし私が筒井だったら、地球では猿の一種が人間だが、クォール星では鼬が人間で、文房具船では文房具が人間なんだと説明したでしょう。宇宙にはそれこそ無限の可能性があるのですから、文房具が精神的存在であるようなそんな星があっても構わないはずです。

三、記号としての文房具たち

筒井自身は、感情移入という言葉で説明しているんです。筒井の説明を『虚航船団の逆襲』所載の「メディアと感情移入」という対談から引用してみましょう。

「これだけ記号論だのなんだの言われているのにですね、どうして文房具を個々の万年筆であるとか虫ピンであるとかを記号として見られないのか」。

この発言では批評家たちは文房具が宇宙船の乗組員だと言ったら、素朴に文房具が乗組員だと思ってしまって、文房具を人間を表示する記号として見れないから、的外れな期待をして、勝手に失望していると反駁しているのです。さらにこう言います。

「もう物や人間を、つまりあらゆるものを記号にしてしまうだけという時期は過ぎているのではないか。小説の方ではむしろ記号に対して感情移入しなければならない時期ではないかと思うんです」。

コンピュータゲームのインべーダという記号に、「このインベーダめ!」と感情移入するように、身近な文房具を人間を表現する記号と捉え、この糊は色情狂のAさん、このナンバリングは数字魔のBさんというように擬人化して、「やあAさん!」なんて糊に呼び掛けて感情移入するということでしょう。

 対談者の巽は、文房具が人間になっていることに批評的な意義を感じて、

「それまで対象であったメディア=文房具が主体性を持つ。―文学表現が既成のわれわれが使っている言語から逸脱していくような。そういう問題意識のある時代にあって、筒井さんは文房具を、書くことそのものにつながるものをテーマに出されて、それをメディアとして感情移入された」

と評価しています。巽は、メディアがそれを使っている人々から自律して、独り歩きしているという現実を根拠に、文房具を意思や感情を持つ主体として表現することのリアリティを感じているのです。

 筒井は巽の書くことにつながるものに感情移入してという表現だけに反応して

「でもそれはあくまで、『虚航船団』の第一章だけの問題なんです。文房具をそれぞれ出して彼ら個々について精神分析を行っているのは」

と噛み合いません。彼はこんなに人間に身近な文房具なのだから、人間の感情が乗り移って意思や感情を持ってもいいじゃないかという発想なんです。例の小説の中に作家が登場する部分でこうまくしたてます。

「文房具はすべて人間が考え出したのであり人間が文房具に求めるのは自分の手や脳や眼の代理としての機能であり、従って文房具が人間並の思考をしてもおかしくはない」(453頁)。

これが本気だとおもしろいのですが、作中ではいかにも苦し紛れの言い訳調で書かれていて、感情移入論が本音のようです。

三、倒錯的冒険としての「文房具人間」

巽に対する応答に戻ります。

「第三章で出てくる文房具はもう、文房具の名前がついているだけでほとんど人間そのものなんですね。もともとそうなんだけれども、あそこに出てくる文房具を人間としてしか考えていないんです。最初からそうなんですよ」。

鼬なら知能が発達して喋りだして、文明まで築くかもしれない。でも文房具が喋りだすなんてあんまりだ、と筒井自身が思っているんです。ですから作中作家登場部分で、批評者と筒井のやりとりが句読点抜きで、ということは筒井自身の自問自答でもあり、なんとか合理化しようと焦っているように見せているような形で、あたかも作品の破綻を暗示しているように受け取らせようとしているように見せる形で、こうです。

「@そうらとうとう万年筆が喋りはじめたぞ吸取紙もださあ病気ださあ大変だ無機物有機物の区別もなく何にでも人格をあたえてよいものでしょうかAわれわれはわれわれ独自の思考形態を持っているのかも知れぬのですよB人格といっても作者の部分的人格の投影に過ぎぬのではないですかいかに超虚構とはいえ左様なことが赦されましょうかCまあまあ待ってくれ許してくれ堪忍してくれすべてのものに愛情を持っていればこそだ愛情あればこそ悲哀もまた強調される」(459頁)

 番号は解釈のため私が付けました。@Bが問いでACが答えでしょう。

@精神病の病状の一つに石化症というのがありまして、石のようになってしまって硬直して何もできなくなるんです。その症状が現われる前に、他人がみんな石に見えるんです。最近はロボット症というらしく自分や他人がロボットだと思い込むらしいんです。人格的な付き合いがよほど苦痛なのでしょう。いっそ自分も他人も石やロボットと思い込んだ投うが楽だという思いが昂じたのでしょう。人形に生きている人間のように接する人形愛や、生身の女性よりも靴・靴下・下着等物にだけ欲情するフェティシズムなどの倒錯愛も、アブノーマルな心理です。先に触れましたように西洋には超越神論に立つヘブライズムの伝統があり、神を人や物と見なす偶像崇拝が最大の神への冒瀆とされました。その影響もあり、動物や事物が意思や感情を持つように考える擬人化的倒錯は、最も幼稚な倒錯として軽蔑されています。

Aは地球人は@のように考えるけれども、宇宙の何処かの星では無機物でも文房具でも意思や感情を持っても不思議ではないと考えるかもしれないという意味でしょうか。だとすると文房具星の文房具人という設定でいいわけでして、感情移入論はあくまで文房具人を思い付くきっかけにしておくべきでした。

Bの詰問は、Aのように言うけれど、実際は作者の人格をそれぞれの文房具に当てはめているだけじゃないか、文房具はその化身に過ぎないのだろう。本当は文房具が意思や感情を持つかもしれないなんて思ってもいないくせに、という趣旨でしょう。

CはBを認めてあやまっているわけです。それで巽に対する、端から文房具は人間だという応答と辻棲が合うのです。身近な文房具を見ていると、これは人間の性格の記号になるな、これに感情移入して文房具に人間をやらせてみようということになったのです。

四、文房具からくる意思や感情

筒井は感情移入という形で、意思や感情の方向が人間から文房具に一方通行なのです。でもよく考えてみますと、文房具に性格的なものを感じ取る感情は実は文房具との交わりの中で、文房具に影響されて出てきたものでして、文房具の方から来ているのです。「杓子定規にものを考える」と言いますね。ステロタイプな思考しかできない人は、杓子定規など規格の厳格な道具や機械を使う文化の影響でそうなってしまったのです。ですから人間の意思や感情は文房具によって形成されているという面を持っています。だから人間の意思や感情は同時に文房具のそれでもあるという面を持つのです。それを天才筒井は潜在的に直感している、だからこそ文房具の人格化という誰も試みなかった冒険に乗り出したんじゃないでしょうか。

筒井は精神分析学にやたら詳しいんです。だから直感しているものを作品化したものの、こいつはやばい、これじゃ全くの正真正銘の精神病じゃないかというわけで、感情移入論に逃げたと私は診断しています。精神分析学の問題点については後に「現代人の諸類型―小此木啓吾の精神分析―」で詳しく検討したいと思いますが、生理学的唯物論という限界を持っているのですね、精神分析学というのは。身体の生理から意識が生じるという視点しか持っていない。だから幼児体験に異常にこだわったり、拡大された自我を同一視という倒錯に基づくと捉えたりする。意識の生産の主体を身体に限定してしまっているから、自分の意識が同時に対象によって生産された対象の意識でもあるという面に気付かない。事物の意識、集団の意識、社会の意識を正しく位置づけられないという欠陥を孕んでいるのです。

五、文房具と力ースト制

作中作家筒井の言い逃れはまだあります。

「何がマルチ人間であろうか人間そもそも多目的しからば文房具とてただ本来の用途のみに甘んじてはおらぬ筈だ否否否否文房具並の単独目的の人間が多過ぎることに対する逆理逆説モーション」(459頁)。

文明社会は分業の発達によってもたらされます。だれでも一生一つの仕事にのみ専念したらさぞかし凄い腕前になるだろうと考え、できるだけ社会的に必要な職業を細分化し、それを身分化して子孫に代々継承させるシステムがカースト制です。近代産業社会でも社会的分業が発達し、様々な専門的職業が生まれました。それぞれの職業に自己のアイデンティティを見出し、自分の生涯をその職業にかけて、社会的役割分担を全うすることが求められてきたのです。社会が変動して社会的に必要とされる職業がめまぐるしく変わる場合は自分の現在の職業にだけ固執しているわけにはいきません。転進の効くフレキシブルな多能的な人間にならなければならないわけです。

 文房具は徹底したカースト的分業で書類作成業務に当たっています。マルチ的文房具では書類に正確さ厳密さが要求される場合には役に立たないのです。人材でも専門的知識や技能が必要な場合は、やはり相当突っ込んでその分野を究め尽くしたような人でないと役に立たないものです。ただし各分野は連関していて蛸壷的に細かいことに集中していると、その仕事の社会的役割や他の仕事との連携の仕方が見えてきませんから、やはり役に立ちません。筒井のいう文房具的単独目的人間です。

六、不定形動物から進化した文房具人

ところで文房具星の文房具人の可能性は狂っている程皆無でしょうか。二つの可能性を提示しましょう。一つ目は生物の進化で考えます。不定形な動物がいてそれぞれの役割にふさわしい形姿をとりますが、役目が変わればその姿も変形するとします。やがて社会的分業が発達します。その生物は何千何万の姿ができるので、自らの身体であらゆる仕事がこなせるのです。地球人だったら無機物を材料にした道具や機械を使って行った作業を、自らが道具や機械の部品の姿をとって作業や生産を行っていたのです。ところが年月がたつにつれて体型が次第に固定化し、遺伝するようになりました。文房具の仕事を分担していた者たちは文房具の姿のままになってしまったわけですね。

文明の発達により彼らは知識の上では無機物を自分たちの体型のように変化させる事ができることを発見し、その方が技術的正確性、経済的合理性に優れていることに気付いたのです。文房具などはその最たるものでしたから彼らは用なしになります。そこで文房具たちは一緒に新しい星に植民して文房具星を造ったのです。

七、ロボットとしての文房具人

もう一つの可能性はこうです、汎神論の強い文明が極度に発達し、ありとあらゆる自然物や道具にそれを備え付けられると、自己意識が生じるような超小型超高性能のマイコンを取り付けたのです。実はコンピュータが発達しただけで自己意識のあるロボットは造れません。例えば押しピンに超ミクロで超高性能のマイコンを取り付けてもじっと壁に突き刺さっているだけで、他に何の用もないのなら意識機能も余り役に立ちません。外れかけたらきちんと押し直したり、期限が来たら合図を出したり、自分で外れて移動したりする装置と連動していなければなりません。その上、自己意識を持つには対他関係が必要です。世の中のことについての様々な知識を持ち、自己と他者を比較して向上心を持ったり、他者との協力・競合関係を意識したりする体験が必要です。意欲や意思や感情を持つためには生活体験が必要なのです。働かなければ処分されて自己保存ができないとか、働けば何か自己保存に必要な手段を提供されるとかの社会関係がなければ自己意識にならないでしょう。その上、外界からの情報を電気的な刺激として感覚できる装置とマイコンが連動していて、快・不快を区別しそれを基礎に欲望を抱くようにすれば、生理的に意欲が形成されます。そのような様々な装置を押しピンに内蔵させて、何の意味があるのかと言われても困りますが。きっとその星では汎神論的価値観から、あらゆる社会的事物を生活主体にすることが倫理的善とされ、文化のグレードを示すと考えるイデオロギーが支配的だったのでしょう。

 この星でも文房具差別が問題になります。生活を抱え自己主張する文房具は、文房具組合を造って待遇改善を要求して立ち上がり、文化的要求をします。そんな文房具ロボットより、普通の文房具の方が使い易いし、経済的合理性がはるかに高いでしょう。イデオロギーというのは流行り廃りがあるものです。すべての社会的事物を生活主体にすべきだというイデオロギーも弱まっていきました。そこでお払い箱になった文房具たちは他の星に移住してそこに文房具文明を築くことになったのです。

筒井にはどうせ虚構なのだから文房具が喋りだす荒唐無稽もご愛橋じゃないかという開き直りがあります。しかしそれではSFファンは納得しないでしょう。だって虚構がおもしろいのは一見荒唐無稽に見えても、作家の合理的で新鮮な推理と構想力で、そのリアリティを納得させられるからです。虚構のための虚構の理論もいいけれど、虚構の開き直りはいただけません。文房具星の文房具人の可能性をしっかり詰めておいてから書けば、漫画みたいな作中作家の無作法もせずに済んだし、文房具に地球人をダブらせる。パロディにも、批
評家たちも文句は付けられなかったことでしょう。

第三節 文房具の精神分析

一、倒錯人間としてのコンパス

いよいよ文房具たちの精神分析に入ります。筒井はここで人間論を展開しているつもりなのです。文房具たちは全員狂っているのです。宇宙船の閉鎖された空間の中で何年も飛び続けていれば、誰でも気が変になって当然かもしれません。ですからもし、この宇宙船の中で正常な者がいたら、そいつは異常なのです。地球自体も宇宙を飛び続けている宇宙船に違いないわけで、大なり小なり地球人も全員狂っているのです。ところが大部分の地球人は自分は正常だと思っている、それが狂っている証拠なんです、なんて言う、こういう人間論が最近は流行りなんです。

 「まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが自分ではそれを完全な円だと信じこんでいた」。

これが書き出しです。完全な円はどんな精巧なコンパスを使ったって描く事はできません。ミク口的に測定すればがたがたの円しか描けないんです。見た眼に円らしく映れぼそれでほんとはいいんです。ところがコンパスを使えば完全な円が描けたと思い込んでいる、これも一種の倒錯なんです。コンパスや定規を使わなくたって、鉛筆と消しゴムで、円や線を描くことはできます。もちろん完全じゃありません。でも上達してだんだんうまくなるんです。コンパスや定規を使っていると、鉛筆ではきれいな円や線が描けるようになりません。学校の先生はすぐコンパスを使いなさいと言いますが、生徒を不器用にするだけです。

描かれた円というのは、実は円のシンボルです。それを客観的な実在する円と信じています。人間は自己の感覚を素材にして対象的世界の姿をシンボル化して、了解しています。カッシーラーは、人間が客観的な実在の世界だと思っているのは、本当は人間自身が作り出したシンボルの世界に過ぎない、決して客観的な実在を認識することはできないんだと、断定しています。丸山圭三郎は独特のソシュール解釈を通して、言語は差異の体系であり、言語を使った認識は、この言語の側の差異の体系を現実に押し当てたものなのだから、現実の秩序とズレていて、倒錯していると主張します。

 人間が用いる認識や表現の手段は、感覚にしろ、言語にしろ、観測機器にしろ、また文房具や工作機械にしろ、完全なものは存在しませんから、多少なりとも正確さにおいて問題があり、原理的に倒錯性を持っていることは承知しておかなければなりません。しかしそのことから客観的な事物の本質的認識の不可能性を帰結してしまい、人間は本質的に狂っている「狂ったサル」だから、人間の認識していると思っているのはすべて幻想だなんて飛躍した議論をするのは正常ではありません。だってもしわれわれの認識が客観的現実とひどくズレていて、認識の発達がズレにズレを重ねることを意味するのなら、客観的現実との乖離が大きくなって、認識に基づく実践はすべて破綻してしまい、とっくに生存できなくなっている筈だからです。なんとかここまでやって来れたのは、不完全ながらも本質的な認識ができていることを意味すると考えてよいのです。つまり倒錯性というのは程度問題ですから、概ね正常なのです、われわれは。

二、コンパスのアイデンティティ不安

コンパスはスマートに見せ掛けようとします。両脚を屈伸させるなんて不恰好なことはすまいと、いつも硬直しているので、かえって泥臭く見えるんです。彼には文房具としてのアイデンティティに不安を感じているので、スマートに振舞って認知されたがっているところがあるのです。製図用具や観測器具と紛らわしいという陰口があるらしいのです。製図用具だって文房具の仲間ですよね。実際ディバインダーや烏口コンパスも文房具船に搭乗しているのですから、気にしなくてもいいんですが。それに観測器具のコンパスに至っては名前が同じだけなのです。このアイデンティティ不安というのは、実存が本質に先立つ人間にとって根本的な不安なのです。人間は様々な社会集団に帰属し、それぞれに適合した集団的な自己意識をもっています。それらがうまく調節され、噛み合えばよいのですが、あちらが立てばこちらが立たずでダブルバインド(二重拘束)に苦しむものです。また自分の属する社会集団と自己の適性などが乖離したりすると帰属不安に陥りがちです。アイデンティティの喪失は自己の精神的解体を結果しますから、この不安を掻き消そうとやっきになり、恰好で人目を引くのです。

 コンパスは、自分がどう見えるか不安ですから、他の乗組員にしつこく自分がどう見えるか訊ねます。あまりにしつこいのでしまいに口喧嘩になってしまい、コンパスは泣き出してしまうのです。泣くと硬直した自我から解放されるので、まるで楽しんで泣いているみたいでいやらしいです。つまり中途半端にアイデンティティを持っているからアイデンティティ不安に陥って、硬直して辛いんですが、泣いて泣いてアイデンティティをかなぐり捨ててしまったら、アイデンティティ不安からも解放されるんです。無理していた分だけ涙の中の解放感も大きいのです。逆説的に言うと、この解放感を味わうために無意識のうちにこじつけの理由を見出して、アイデンティティ不安を作り出し、精一杯硬直していたとも言えなくはありません。

 人間は感性的な存在ですから、時々カタルシスを体験しないといらいらしたり、落ち着かなくなったり、やり切れなくなるんです。ですから溜りに溜ったストレスを何かで一気に発散させる必要があるんです。ストレスを燃料にして泣いたり怒ったりして感情を爆発させると、これが生理的にはカタルシスに転じるのです。それで一応肉体の方は自己の生を納得するんです。ですから人間生きている限り、傍からどんなに浅ましく愚かでいやらしく見えようとも、コンパスみたいなことやってるんです。あなたも身に覚えがあるでしょう。

三、ナンバリングの娯しみ

ナンバリングは純粋の戦闘要員なので乗組員としての仕事がないんです。何もすることがないというのも、精神的には自己喪失の原因になりますから、彼は自分のなにげない行為に対しても数を数えて番号を打たずにはいられなくなります。よく子供の頃に数を数えながら歩くのやりましたね。彼は自分の行為にだけ数を数えていましたから、他人の行為は自分がそれに対して起こす反応としてだけ関係します。

自己の内部におけるナンバリソグという行為にのみ沈潜していますから、他人から見ますと沈思黙考する頼りがいのある男に見えたのです。ある行為に熱中していますと、その行為の中になんらかの楽しみを見出すものです。彼が突然笑い出すのはぞろ目になったり、数字の桁が変わったときです。また01234567というようにストレートに並んだときもにたあと笑います。

 数字や記号が揃うというのは確かに感覚的におもしろいものだと、私も思います。数字以外の事物でもいいのですが、同じのや対のや順番になっているのが揃う、するとなんだかとても気分が晴れるんです。でもいつまでも揃ったままだとすぐに飽きます。揃ったのがパッて消えちゃう、もったいないけど、パッと消えるのがたまらない。また揃ったらいいなと思うんです。人間の美意識の原点にはそんな感覚があるような気がしてならないんです。花火や舞台の揃い踏みやテトリスやぞろ目賭博や、もちろんセックスにも関係があるような気がします。人間の欲望の根っこのところでそんな単純な原理が支配しているんです。

でももちろん他人にはナンバリングが何故笑ったのか全くの謎です。価値相対主義の世の中ですから、人がどんな下らなく思えることに夢中になっても、その人なりの仕方でそれぞれに一回きりの人生の楽しみ方を選び取っているのですから、他人がとやかく言っても始まりません。ナンバリングにとっては、革命にも、恋にも、芸術にも、金儲けにも、スポーツにも興味が湧かないけれど、数を数える楽しみにだけは執着できるのですから。でもそれが嵩じて、その人の社会的職務が果たせなくなってしまうと、大変です。平和で安定した社会ですと、社会的な訓練を受けていれば、仕事は習慣で単純な繰返しでやれる場合もあり、ナンバリングのような性格の人でもなんとか適応していますが、変動期にはこういう人物は困りものです。特に彼は戦闘に際しては小隊長ですから、戦闘中も数を数えることだけ考えているようでしたら、部隊の命運は風前の灯です。

四、色情狂の糊

糊が色情狂だというのは、べたあとくっついて離れないからでしょう。人は性欲の特別強い動物です。他の動物ですと発情期というのがありまして、その時に雌の身体から何か特別の物質が分泌されて、その匂いに雄はそそられて交尾するのだそうです。ところが人の場合、雄は雌の発情と無関係に発情し、それで発情期がなくなって、年がら年中発情するようになったのだそうです。ということは他の動物から見れば人類全体が元来色情狂なのです。

 人間だってセックスばかりしていられないので、様々なタブーを設けて性欲を抑制します。抑制され潜在化した性的エネルギーがリビドーです。無理に抑制しますと理性の統制に肉体が無意識に抵抗してヒステリー症状が起こります。そこで性欲を社会生活に適合する形に変形して充足させる活動がいろいろ産み出されます。これが昇華です。スポーツや音楽やその他の文化的創造活動はすべて、この昇華に含まれるのです。正常な人々は適当に昇華によってタブーに抵触しないか、抵触してもうまく取り繕える人です。糊のような色情狂は社会的な規制が眼には入らずに、闇雲に直接的な生の形で性衝動に身を任せてしまうので、社会に適応できない人なのです。いちばん素直と言えば素直な性格ですから、人間誰しも潜在的には色情狂なのです。

五、アイデンティティの破綻した日付スタンプ

日付スタンプは、宇宙船の中ではかつての日付という秩序が崩壊しているため、唯一の自分のより所としていたものを失って気が触れてしまっているのです。自分が一生の仕事と思って永年取り組んできた仕事が、技術革新で自動化してしまいお払い箱になって、他の仕事に回されても、新しい仕事にアイデンティティを見出せない人がたくさんいます。時計修理の仕事がなくなった時計屋さん、自動販売機で売るようになった煙草屋さん等もかなり精神的には虚脱感を味わっているでしょう。自己の思想的根拠としてきた権威の崩壊がもたらす思想的虚脱状態も日付スタンプの心理に似ています。敗戦を迎えた多くの日本人は、思想的根拠としての天皇制を失いましたし、最近の社会主義者は「社会主義」世界体制を失いました。化けの皮が剥がれただけと言えばそれまでかもしれませんが、笑って済まされない事態です。

六、ホチキスはトラブルメーカー

ホチキスは性質が悪い。ホチキスは構造が単純な割にはよくトラブルを起こしますね。それに針を持っていて何にでも突っ掛かる、でも少し分厚いと駄目なのが多いです。そこに感情移入したのでしょう。誰彼となく難癖をつけ口喧嘩を始めるのです。しまいには殴られて卒倒してしまいます。彼は虚弱で直ぐに気絶するのでかえって大事に至らずに済むのですが、懲りずにやるのです。密閉された宇宙船内では苛立ちや憎悪が溜るんですね、アルコール摂取制限があるから酒に紛らわせることができないんです。もっともアルコール制限をするのは酔った勢いで苛立ちや憎悪が爆発されては困るからでしょうが。そこでアルコールが入らなくても苛立ちや憎悪を口喧嘩で発散できるような性格に自己改造したのだろうと、他の乗組員たちが推測しています。もともとホチキスは酒癖は悪いけれど普段は温和で真面目だったらしいのです。宇宙船地球号でも苛立ちと憎悪がつのっています。

人間誰しも、どんな小人物でも自分は一角の人物だと思っており、もっと正当に評価されるべきだと確信しています。自分が認められないのは、きっと腹黒い魑魅魍魎たちが悪巧みを続けられなくなるのを懼れて、自分を排除するためのネットワークを張り巡らせているからなのだと思ったりしています。その義憤のために悶々としているのです。自分の味方みたいに近づいてくる奴も本当はCIAかも知れないのです。ケネディを殺ったのは断じてオズワルドじゃない!CIAだ!ジョソソソだ!ジャクリーンだ!奴等はぐるで、そのバックには地球人の脳味噌が大好きな宇宙人がいるんだ!お前も復讐クラブの会員だろう!なんて情報が混線して、これが怒らずにおられましょうか。

七、逆噴射人間の操縦士―輪ゴム

輪ゴムは操縦士です。はて、どうして輪ゴムが操縦士なのかな?操縦桿を握るのが操縦士だから、輪ゴムは丁度操縦桿につけるのにぴったりだからかも知れません。いかにも操縦桿に軽くフィットしていてかなり操縦はうまそうに想像されます。彼は最も高度な教科カリキュラムを最優秀の成績で見事こなし、一級操縦士の免許を持っています。だから彼には操縦経験は無かったにもかかわらず、みんな全く信頼していたのです。まるで実社会での経験は皆無だけど、知識だけは完璧な東大出たてみたいですね。ところが輪ゴムには操縦士としては致命的な精神的疾患があるのです、自分か誰だかわからなくなるという。輪ゴムはよく使われる割には、軽く扱われ、よく床に落ちています。それだけ存在感に乏しく不安も大きいと言えます。輪ゴムはくにゃくにゃして形が変わり易いですし、輪ゴムケースから取り出すと、みんな全く同じで区別がっきません。それで自分が他人から区別できる、誰それであるという自信が持てないのです。教科書通りの画一的な教育を受け、型通りの似たり寄ったりの人材が大量生産されています。このアイデンティティの無さは操縦にあたって安全航行しなければならないという考えと、宇宙船を隕石にぶっつけたらどんなにおもしろいだろうという考えの、どちらが自分の考えなのかわからなくなる症状に行き着くのです。いわゆる「逆噴射人間」です。

人間誰しも、例えいかに高名などんな大人物であっても、自分に自信がないものです。自分のような無力無能な人間がこのままやっていける筈がない。いずれぼろが出て名誉も地位も富もみんな一挙に失うに違いないと戦々恐々としているのです。人は失敗を恐れる余り、一般的なやり方や考え方に合わせようとし、ますます個性を喪失し、画一化し小人物化してしまいます。そこでますます自信を無くし、存在不安に陥り、アイデンティティを喪失することになるのです。「汝自身を知れ」と言いますが、自分が何を考え、何を為そうとしているのか、明確に自分は誰かを知る人は今や精神病院にしかいないのです。日本では総理大臣でさえ自分が誰であるか、すっかり忘れていると言われています。

八、可哀相なナルシスト―消しゴムの天皇

巨大消しゴムはみんなからは消しゴムのパロディだと思われていたのですが、本人は消しゴムの天皇と思い込んでいます。その為、消しゴムに話をしたり、指令を出したりしようとすれば、天皇に対して奏上する形式を取らなければ反応しません。その代わり、尿に血が混じるようなどんな力仕事でも厭わないのです。これらを総合して他の乗組員たちは消しゴムのことを低能だと思っています。しかし宇宙船の乗組員になるには普通以上の知能が要るので、きっと宇宙船ボケに罹ったのだろうと噂されていました。

 生真面日に与えられた職務をどんな無理をしても果たしているのに、周囲の評価はかえって自分を低能扱いすることがよくあるものです。かといって仕事の手を抜けば今度はもっとひどい評判を立てられそうなのです。そこでこの逆境に堪えるために、何らかの理由付けによって自己を神聖化するのです。巨大消しゴムから消しゴムのお化けではなくて、消しゴムの天皇というように発想するのです。イエス・キリストは世界初の人口調査で馬小屋で生まれたが、自分は戦争で疎開中に蚕室で生まれたから現代の救世主だと思ってもいいのです。人間はナルシズム的な何らかの自己絶対化をしておかなければ、心が晴れないし、胸を張って生きることができないのです。他人から見れば痴愚に見えるでしょう。でも痴愚が矜持を与えてくれ、心を救うのでしたら痴愚で結構じゃないですか。エラスムスは痴愚女神を礼讃し、人間の本質を痴愚だと述べています。

一九、ハルマゲドンの構図

まだまだ次々に文房具たちが登場するのですが予定の紙数を越えていますので、文房具たちの精神分析はここまでにします。ともかく人間は、一方で鼬すなわち衝動的な生であると共に、文房具すなわち用在でもあるのです。文房具は徹底したカースト的分業を営んでいますが、人間も社会や集団や家族のために配慮し合い、互いの役割分担をこなして生きています。文房具すなわち用在の面から言いますと、分業の体系である文明は衝動的な生を抑制し、変形し、昇華して形成されたものです。ところがこれが固定し、慣習化してしまっ
て、創造性や発達のエネルギーを失い、活力を磨り減らすだけになってしまったら、最早昇華機能を喪失してしまいます。いきどころのなくなった生の衝動が破壊的な形で文明に作用するようになるわけです。

そこで文房具すなわち用在は自分たちの存在秩序を護るために「天空からの殺戮者」になり、生の衝動すなわち鼬たちの絶滅に乗り出したのです。生の衝動すなわち鼬の面から言いますと、生の衝動が自然が直接もたらす恵みに満足できなくなったために、より大きく生の衝動を充足させる文明を産み出しました。文明は生の衝動を疎外しましたが、生の衝動をより大きく充足させる事ができない文明は、生の衝動をコントロールできなくなって衰退します。しかし文明は疎外された形態においてであれ、生の衝動を肥大させてしまいます。最後には生の衝動は自ら文化の形を取りながら文化を破壊し尽す自滅の道を辿ることになるのです。生の衝動はそれ自体は自分自身に対して客観視できません。自己の疎外態である文明の原理、配慮の体系によって外から自己を徹底的に否定してもらわなければならないのです。

 しかし文房具すなわち用在が生の衝動すなわち鼬を絶滅できる訳がありません。生の衝動なしには用在も存在できないからです。生の衝動に新鮮なカタルシスをもたらすような常に創造的な文明は、文房具と鼬の壮絶なハルマゲドンを体験した末に、産み出される、文房具と鼬の抽象的な区別の止揚である、両者の息子の夢の中にしか築かれないのでしょうか。

(参考文献)
筒井康隆著『虚航船団』新潮社
筒井康隆著『虚航船団の逆襲』中央公論社
筒井康隆著『幻想の未来』角川文庫

 

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