人間論の構造構成

 

                                    はじめに

 

人間とは何かというテーマは古今東西さまざまに論じられてきた。百人百様の人間論があり、それぞれ人間の一面を捉えている。しかしそれぞれ人間に対する捉え方の問題関心がずれているので、互いに他の人間論は人間の核心を捉えていないように思っているらしい。しかし、それぞれの視角においては有効なので、それぞれの人間観の構造を明確にしつつ、相互補完的に総合的な人間像を組み立てていく作業が必要であると思われる。私はそれを「人間論の大樹」と名づけて問題提起してきたが、その方法論が整理できないでいた。@
 

西條剛央氏の講演Aならびに『構造構成主義とは何か』(北大路書房)という著作によって、「人間論の大樹」形成の方法論が見えてきたのである。とはいえまだまだ荒削りで試論的なスケッチしか示せないがたたき台を提供させてもらえれば幸甚である。

 

                 生物学的特徴―直立二足歩行するサル

 

 人間と生物学的なヒトを混同するのは、人間学で陥りやすい初歩的なミスである。元々人間は生物学的概念ではない。つまり自己意識をもつ人格的存在が人間であり、それは猿科霊長目の人類という動物であるとは限らない。

  別に手塚治虫の劇画『鳥人大系』のように鳥類から鳥人が生じてもよいのである。異星人の存在がいまだに発見されていないとしても、他の太陽系とは別の惑星で大気や水があって別の生物進化が行なわれると、全く地球上では見られない生物種から自己意識を持つ知性体が進化してくる可能性はある。

 

  それに自己意識をもつ知性体ロボットが存在しても、それらが人間ではないということはできない。Bこの見解には異論があるだろうが、その人は人間概念を生物学的概念な人類概念と混同しているのである。もちろんそのような区別に関心がなく、人間はどのような生物であるのかという関心しかもたない人にとっては生物学的な人類概念で十分満足であろう。


 とはいえ地球上の人間を考察する場合は、猿から進化した人類が人間となって文明を形成したわけだから、人間と成った人類がどのような生物学的特徴を備えているのかを人間理解の参考にする必要がある。

 

  直立二足歩行する猿が人類に成ったのだが、そのことによって前足が手に進化して、手の延長としての多様な道具の使用が可能になった。従って手の延長としての道具の使用に人間の本質を見出す人は、生物学的人類と人間との区別は念頭にない。C

 

  たしかに道具の種類が豊富になり、その結果文明が開花するようになれば、人間の生成といえるが、何種類かの道具を使用したからといって、存在構造が一変したわけではないのだ。


 また生物学的人類と人間を混同する人は、猿人段階から直立歩行で頭脳容量が大きくなったので、人間的な思考をし、言語を使用していたかに思い込んでいるが、その根拠はない。特に言語に関しては、動物言語という観念があって、動物でも言語を使用しているとみなす見解もあり、身振りや音声や超音波を使った動物信号を言語と混同する傾向がある。そうすれば、言語は人間の本質とはいえなくなり、言語を通して人間の存在構造を解明することもできなくなる。動物信号と人間独特の言語の違いを明確にしないことには、人間の何たるかは解明できないのだ。


 喉の発達から音節を区別する発声がネアンデルタール人から可能になっていたので、旧人段階から音声言語の使用を説く見解が有力である。しかしそれは音声信号の豊富化を意味するに過ぎず、人間独特の言語ではないのだ。なぜなら言語には認識を蓄積し、そのことを通して自然認識が飛躍し、文明が開かれるところまで進んでいく必然性があるのだ。D


                          言語の構造と認識の構造
 

 言語は主語・述語構造をもっている。未開言語にそれが不明瞭なのは音声信号の要素が大きいからである。主語はそれにつける述語を変えることによって主語に来る事物の知識をいくらでも豊富にできる。また逆に、主語の取替えによって多くの知識を蓄積できるので、物事の認識は無限に発達して文明に到達させる必然性があるのだ。


 しかし言語は音声信号の多様化によって自然に主語・述語構造をもつようになったのではない。主語にくる対象が客観的な事物として捉えられていたからこそ、その事物の様子や属性を述語として付け足すことができたのである。つまり世界が事物の集合として捉えられていたからこそ、それに対応して主語・述語構造をもつ言語が成立したのである。


 だから動物信号の段階では世界は事物によって構成されているのではなく、生理的な表象の変化として捉えられていたのである。つまり物ではなく事態・事の連続なのである。動物は事態表象を信号化してコミュニケーションしているのである。だからいかに多様な信号を駆使しても、多様な事態の変化を伝えることしかできず、客観的な事物としての知識を蓄積できないのである。つまり音声信号は生理表象の伝達に過ぎないが、言語は事物認識の伝達であるという決定的な断絶があるのだ。


 世界が生理的な事態であるという事的世界構造から世界が事物の集合であるという物的世界構造へとブレイクスルー(突破あるいは破開)するに伴い、生理表象から主観・客観的認識構造に変化し、それが音声信号から主語・述語構造の言語の成立を惹き起こしたのである。ここに生物学的人類から人間へと存在構造の転換が起こっているのである。だから言語の主語・述語構造と認識の主観・客観的構造はセットで捉えておくべきである。このことに関しては一見常識的な説のように思われるだろうが明確に述べている書物に出会ったことがない。E

 

                             対他構造と事物構造

 

 つまり事物となるとそれは生理表象として現れているものの、身体の外に存在する実在と捉えられている。そしてその生理表象を事物だと解釈する自己意識が成立しているのである。動物の場合は、自己の生理表象に対して条件反射の積み重ねで、生理的に対応してきたのである。その対応がうまくいったのが生き残り、進化してきたのである。ところが人間は生理表象を事物の表れとして解釈するので、その事物は自己の身体の外に立つ独立した実体とみなされる。そしてその事物に対して立ち向かっている自己を見出すのである。


 しかし何故そのようなことが可能なのか、それは実はヒト同士の個体的身体間の関係が対他関係になったからである。前人間的なヒト同士は融即段階にある、生理的表象として親しい表象か疎ましい表象であり、生理的に反応しあっていた。そこには互いに独立した他者としての意識はなく、他者に対して自己を意識することもなかったのである。ところが相手を生理的表象として愛したり、退けあったり、避けたりするのではなく、取引相手として交渉しなければならない関係ができた。つまり交換の発生である。


 交換の発生によって、ヒト同士は身体的な生理的関係から、人格的他者関係に移行する。それで交換される事物も以前の身体の延長から切り離され、他の事物からも区別されて生理的表象ではない、生理からあたかも独立した事物とみなされる。そのことによってそれ以外の生理的表象もやがて事物として捉えられるようになる。こうして生理的表象の世界から脱して、事物によって世界が構成されているとみなされるようになり、主語・述語関係で表現される言語が形成されたのである。こうした観点からの言語起源論が見当たらないのも腑に落ちないところである。F


 だから人格的な対他構造が世界に当てはめられて、事物間の関係として世界が表象されるようになったのである。つまり人格関係と事物関係は相即しているので、人格関係が精神的実体の関係とみなされるように、事物間にも霊的関係が想定されることになる。物と心、物質と精神を対極的な二元論で捉えてきた超越神論の文化からは想像もつかないだろうが、元々、日本語では「物」という言葉は「事物」とともに「霊魂」をも意味していた。最も伝統ある氏族である物部氏は武器を扱う軍事集団であると共に、霊魂を祀る祭祀集団でもあったのである。しかも身体間の生理的関係が人格的関係に変わっても、身体がそのまま人格とみなされたように、物それ自体が霊とみなされていたのである。つまり身体についての捉え方も生理表象から事物へと構造が転じていたのである。

 

                             人間生成論の構造構成
 

人間の生成の論理構造に即して捉えれば、各人間論を相互補完的なものとして構造構成することが可能になる。交換を契機に人類ではなく、人間が発生したとすれば人間は根源的に交換価値を価値意識に持つ商品人間として存在構造をもっている。それにより他者と交渉するという対他存在として自己意識を持つ存在である。人間であるかどうかは自己意識があるどうかで決まるという自己意識が人間の本質であるという人間論も相即的に成立している。


 交換関係を機に成立する対他関係によって、人格相互の対他関係が、事物間関係としての物的世界観を生み、それに相即して認識が主観・客観的なものとして成立する。この認識構造を基底に主語・述語的構造をもつ言語が成立する。この言語が認識によって獲得した知識を無限に蓄積させる構造をもっており、しかも、コミュニケーション手段として、その知識を社会的に共有する機能を果たすので、文明を発生させるにいたる必然性を持っている。言語が人間の本質とみなされる道理である。


 言語と思考および理性をばらばらに考えて、それぞれを人間本質と捉えるのは、説得力がない。考えるということは自己との対話であり、他者との対話も思考過程である。そのことを通して知識が蓄積整理され、法則的・体系的な認識が出来上がっていくと、それが人間理性として機能するわけである。なぜばらばらに考えるのかといえば、言語に対する定義があいまいであるからで、先述した動物信号との違いを明確に抑えておかなくてはならない。


 道具使用や労働を人間の本質におく場合、その主体を自己意識ある人間として抑えておかなくてはならない。従って道具の使用や労働の発達によって人間が、交換による対他関係や自己意識の成立を踏まえないで成立したかに捉えるのは間違いである。身体の延長として各動物も自然を利用する、つまり道具として使っているのである。そして自然に働きかけ、環境を自己に適応しやすいように改変している。その意味で労働によって自然を改変し、獲得しているのである。


 だから人間の本質として道具や労働を取り上げるのなら、道具や労働に人間独特な質を持たせなければならない。その道具は身体の代わりにどんどん進化して、身体は進化しないのに自然が人間の適応できるものに改変されているような道具でなければならない。労働も蜂やビーバーなどは驚嘆すべき巧みさや規模を持っているけれど、それらは種によって定められた習性に従っており、その意味で閉じられたものである。人間の労働は、予め実現しようとしている労働生産物が無限に豊富化し、発展していくわけで、その意味で開かれており、自然全体を普遍的に支配する労働である。


 道具や労働がそのようなものであるためには、生理的表象に対して条件反射の積み重ねで対応していては無理だから、やはり主観・客観的な認識が成り立ち、主述構造を持つ言語で知識の蓄積と共有、法則性の認識が行なわれなければならない。つまり道具や労働によってのみヒトが人間化したのではなくて、むしろ道具や労働が人間化されなければならないのである。そのように人間化された道具や労働であるからこそ、他の動物と本質的な区別ができるのである。

 

                             ホモ・サピエンスの構造

 

 ホモ・サピエンス(叡智人観)とホモ・ファーベル(工作人観)という代表的な人間観の対立を見直しておこう。ホモ・サピエンスという言葉は分類生物学のリンネCarl von Linne1707-1778の命名らしいが、元々は知恵の発達したものという意味である。それがいつしか叡智人観とも訳されるが、単なる道具的な知識だけではなく、道徳判断や宗教的な聖なるものへの感受性や、芸術的な審美感も含むような能力とされている。

 シェーラーMax Scheler, 1874 - 1928の人間観の分類では、イギリス経験論や功利主義、実証主義、マルクスKarl Marx, 1818 - 1883の唯物史観、フロイト(Sigmund Freud1895-1982)の精神分析などはホモ・サピエンスに分類されないのだ。言語を使用する動物、道具を使用する動物というのもホモ・サピエンスではない。自然科学的な知識や知恵がいくら発達しても、リンネの命名意図に反してホモ・サピエンスではないということになる。

 シェーラーは、理性を実体的に捉え、それを神と分有しているとみなす人間観をホモ・サピエンスとみなしているのである。だからギリシアのアナクサゴラスAnaxagoras紀元前500 - 紀元前428頃)に端を発して、プラトンPlaton紀元前427 - 紀元前347のイデア論、ストア派を源流とする自然法思想や社会契約説、大陸合理論、ドイツ観念論などがホモ・サピエンスの人間観だということになる。G

 実体としての理性があって、イデア界で知の体系を成しており、プシュケー(魂)はイデア界にあったときにそれをコピーしているとみなすことによって、プラトンはすべての現象をイデアを範型として認識可能としたわけである。つまり認識するには予め知の体系がなければならないとすると、事物に先立って観念があるとする形而上学や観念論になる。H

 

 この議論に対して、観念はあくまで事物の観念でしか有り得ないという至極もっともな理屈でアリストテレス(Aristoteles384 - 322は批判するが、プラトンの議論の前提は主観性つまり自己意識があって、はじめて現象を客観的な事物の現象と見做し得るということなのである。この主観性としての自己意識が感覚から超越しているので、自己意識が精神的実体として霊魂として実体化され、イデア界や霊界に帰属するとされ、物心二元論が成立するのだ。


 実際、認識には意識内容から離れて、意識内容を事物の現われとみなす自己意識が前提となる。そこに立脚した議論としての観念論およびホモ・サピエンスの議論の有効性を認めなければならない。やはり自己意識の成立によって生じた主語・述語の言語構造による知の蓄積・伝達システムがあってこそ、客観的事物認識が可能になっているのだから。


 しかし精神的実体として理性が存在するといっても、それは知の蓄積・伝達システムとして言語体系が存在するということに他ならないから、それは各人の中枢神経の中の記憶として蓄えられていたり、文字文化やその他の文化を構成する諸事物の中に保存されていたり、諸事物の社会的関係として存在しているといえる。


 また自己意識や霊魂なるものが実体としてあるという意味も、思考や反応が一定の個性的傾向性を示していることに他ならないから、決して身体がなくても個人の霊魂が空中を浮遊したり、上空の霊界に存在したりするわけではない。とはいえ意識内容から超越的に自己意識があって、それを対象化して事物として捉えているという構造においては、あたかも実体的に主観性が存在しているかのように機能しているわけで、その限りでホモ・サピエンス的な捉え方も有効である。

                           ホモ・ファーベルの構造
 

ホモ・ファーベル(工作人観)は、環境に働きかけて改変し、人間の身体が適応できるようにすることを人間の根本的な存在構造と捉える人間観である。動物は環境に働きかけつつ、環境に自己の身体を進化させて適応していくのだが、ホモ・ファーベルとしての人間は、自己の身体は進化させないで、道具を進歩させ、環境を変化させてることによって環境を支配するのである。


 若きマルクスは、1844年の『経済学・哲学手稿』で、「自然は人間の非有機的身体」だとした。Iもちろんフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 18041872)の人間学的唯物論を引き継いでいるのだ。つまり、身体は不完全であり、常に外界から取り込まなくてはならないのだ。受苦的存在であるがゆえに窮迫し、窮迫を克服しようと情熱的に活動するのである。これを「ライデンからライデンシャフトへ(苦悩から情熱へ)」というのだ。


 不完全性は積極的な実践の根拠となっていて、そこから活動的な人間観が展開されている。ペシミズム(虚無主義)や絶望になっていない。しかしやはり主体性の原理となっている。その主体が精神ではなく身体として捉えられているのだ。


 自然を非有機的身体とするということは、主体の範囲が拡大するということである。身体は裸体から衣服を含めた身体に、住居を含めた身体に、個人の身体から共同の身体に、農場や工場や海や空を含めた身体へと拡大するのである。自然が人間の非有機的身体だということは、自然が人間の定在だということである。人間はたんなる身体的存在にとどまらず、社会的諸事物や環境的自然としても見出されるのである。実際に経済的諸関係を取り結ぶのは生産物としての諸商品である。マルクスは『資本論』ではこれをフェティシズム的倒錯としたが、人間を身体の限界内で捉えることはできないのだ。J私は社会的諸事物や人間環境を含めてを事物のカテゴリーとして捉え返す立場をネオ・ヒューマニズムと名づけている。K

 

精神と身体は人間性の両面を成すという意味でホモ・サピエンスとホモ・ファーベルは対立すると共に補完しあうのだ。だから構造構成主義的調整が可能なのである。つまり主体が身体だといっても、その身体は個々人の身体から地球環境にまで伸縮しうるものであり、主体となって自己を対象化しているときには主観性として働いているのだから、あたかも自己意識が実体として存在するかに機能しているのである。

 

                                有限性と実存

 

極めて限定された紙幅のなかで、人間論の構造構成のラフスケッチ(粗描)を描こうとしたけれど、「人間論の大樹」の鳥瞰図には程遠い。人間論では有限性と実存が重要なテーマなのでぜひとも触れておかなければならない。


 「汝自身を知れ」というアポロン神殿の標語は不死なる神が死すべき運命の人間に与えたものとして受け止めれば、有限性を自覚し、死に向かう存在として人間を捉え返す人間論がそこに含まれていたと思う。


 有限性の自覚は、死を覚悟することによってたった一度の人生を意義づけ、価値あることをなそうとする積極的な人生観を生み出す契機となる。そして今、ここに在るということにおいて自己の生の実感、充実感を得て有限な生を納得しようとする。かくして自分がいかに生きれば自分の生が充実するのかという自己の生の選択が行なわれる。このような実存的な人間論は人間を本質において捉えるのではなく、状態性において捉える人間論である。三木清はパスカル研究によって、本質論ではなく状態性において人間を論じる方法を打ち出している。偉大と悲惨、両極の間を揺れ動く動性、中間者などの人間の状態性論である。L

 

有限性の自覚は、当然死や滅びなどからの救済への願望を生み、宗教的な人間の存在構造を構成することになる。つまり有限性を克服するためには絶対者の実在を信仰し、絶対者に依存することにより、絶対者による救済を願うことになる。かくしてコスモス(宇宙)全体が絶対者である神の被造物であり、神に依存した存在であるということになる。神との垂直構造によって、神に依存し、神に還ることで救済されるという図式が立てられるのだ。


 絶対者たる神と有限者たる人間は絶対的な断絶がある。この断絶を克服して絶対者と融合するには、堕罪によって神から離れた罪を悔い改め、神の定めたトーラー(律法)に戻らなければならない、文明が進展すればするほど価値は多様化し、大部分の人類は神から離れるので、人類は最後の審判に宿命的に向かうことになる。


 その意味でキリスト教はイエスの贖罪の十字架で、神の愛に目覚め永遠の命につながるとされる。とはいえ正しい信仰に目覚めることができるのは少数であって、大部分がゲヘナであることに変わりはない。


 これらのヘブライズムの宗教的人間は東洋人には縁がないかに思われるかもしれない。しかし問題を有限性や死の問題、それを見据えていかに生きるかという問題に直面しているのはすべての人間に共通しているのであって、その意味でも有限的な生命の営みの中にいかにして、不滅のものを見出していくのかは問われている。そういう形ではあれ、絶対者との断絶を克服するという課題は共有しているのである。


 そしてそれは人間が生成したのが、生理的な表象の世界、主客未分な事的世界から、人と人、人と事物、事物と事物が分裂した、主観・客観的に物的世界への転換であり、ようするに自己と世界、自己と絶対者の分裂対立であったことに淵源があるのだ。そういう意味で、すべての人間論は、深い意味で構造を持ち、構造相互に連関しているのである。


 まだまださまざまな人間論の構造と構造連関を明らかにしなければならないが、今回はその手始めであり、まったくの試論的で未熟なたたき台ということで、ご寛恕願いたい。 
 

参考文献

@拙著「人間観の転換と人間論の大樹」(『季報唯物論研究第912005 年2月号』やすいゆたか責任編集「特集21世紀「人間論」の出発点」」所収)

A西條剛央著「構造構成主義」(滝内大三、田畑稔編著『人間科学の新展開』(ミネルヴァ書房)2005年刊に所収)

B坂本百大著『人間機械論の哲学』勁草書房 1980年刊参照

C『猿が人間になるについての労働の役割』エンゲルス著、大月文庫

DAA.レオンチェフ著『言語の発生とその展開ーソヴェート言語学序説』未来社1970年刊

E拙著「「人間」カテゴリーについて」(『季報唯物論研究181985年7月号』所収)

F尾関周二著『言語と人間』大月書店1883年刊

渡部昇一著『言語と民族の起源について』大修館書店1973年刊

坂本百大著『言語起源論の新展開』大修館書店1991年刊

Gマックス・シェーラー著「人間と歴史」1926年、「宇宙における人間の地位」1927年いずれも『シェーラー著作集十三』白水社1976年刊所収)

Hプラトン『国家論』 藤沢令夫訳 岩波文庫 1979年刊

Iマルクス著『経済学・哲学手稿』藤野渉訳 1962年刊

J保井温著『人間観の転換ーマルクス物神性論批判』青弓社1985年刊

Kやすいゆたか著「対談 『ネオ・ヒューマニズム宣言』をめぐって」
ネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集 創刊号』所収http://www.dcn.ne.jp./~skana4/yasuiyutaka/mokujip.htm

L三木清著『パスカルにおける人間の研究』(『三木清全集第一巻』岩波書店1966年刊所収)

 

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