船山信一の人間学的唯物論
やすい ゆたか

     ( 1 ) 舩山「人間学的唯物論」とは何か?

本巻に収録した諸論文は、『へーゲル哲学と西田哲学』(未来社、一九八四年刊)から「「絶対弁証法」の観念論的性格」を除いたものに「フォイエルバッハとマルクス及びへーゲル―人間学的唯物論のために」(初出は 『季報・唯物論研究』第一五号と第十六・十七合併号に所収、一九八四年)と「私のプロレタリア文化活動時代」(同誌第四号、七・八合併号、第十・十一合併号に所収、一九八二〜三年)を加えたものです。これらに収録された諸論文は舩山の「人間学的唯物論」の形成に重要な役割を果たしていたり、あるいはその理解に重要な手掛かりを与えてくれるものです。(本解説では「私のプロレタリア文化活動時代 にはふれません。)

まず舩山の「人間学的唯物論」の内容を私なりに概略的に説明し、その意義と問題点をはっきりさせることにしましょう。

舩山の「人間学的唯物論]という語感から、「人間」とは何かについての唯物論的な議論を期待されては困ります。

むしろ「唯物論」の正しい立場が、主体を身体的存在としての人間と捉え、かつ客体も自然的諸事物並びに身体的存在としての人間及び、人間が構成する社会や歴史であると捉える立場です。ということは主体である人間も、他の主体からは客体として捉えられます。つまり主体であると同時に客体でもあるのです。そして客体である人間も同時に実践主体ですので、客体であると同時に主体でもあるのです。これを「主体即客体、客体即主体」と舩山は簡潔に表現しています。

舩山哲学では「超越」というターム(用語)が重要です。主体は単なる「意識」や「自己意識」ではありません。優れて身体なのです。人間ですから心的機能を持っ身体と言った方が正確です。ともかく主体が身体である以上、客体は身体に対して超越的な存在として相対しています。これが「外への超越」です。もし近代哲学に一般的な傾向に従って、「意識」や「自己意識」を主体と置きますと、客体も意識に現れる意識内容に過ぎなくなります。ですから「意識」や「自己意識」を主体と置く立場は、舩山に言わせますとすべて観念論だということになります。

また主体は意識に還元できません。意識から超越したところに身体的な主体が存在するということです。これが「内への超越」です。このような超越によってはじめて主体的対象的な存在構造ができます。この「内への超越」なしに主体を意識と混同しますと、どうして主体が客観的実在と対象的に関わるのか、その必然性が出てきません。実在間の関係として主体・客体関係を捉える事によって、対立物の統一や矛盾による弁証法的な関係が捉えられるのです。
 このような「人間学的唯物論」に対して、あまりに常識的過ぎて新鮮味がないという批判があるかもしれません。ところが舩山自身はそれが実際には唯物論者の中ですら決して常識にはなっていないこと、それどころかマルクスやレーニンの唱えた根本的な命題とすら厳しく対決する命題だというのです。そのことについて「こぶし文庫」の小冊子[場 N03 に、私は「舩山先生の繰り言」と題して次のように関説しています。 

「「人間の本質は、現実的には、社会的諸関係の総和(アンサンブル)である。」というマルクスの規定は、人間を社会的関係に還元して捉えており、生身の身体的主体として捉えていないから誤りだ。」

「「物質は意識から客観的に独立した存在である。」というレーニンの物質概念は、意識との対置で捉えられた存在として捉えられている限り、客観的観念論と変わらない。」

もう四半世紀以上前になるが院生の我々に口癖のように繰り返されていた。当時の私はマルクスやレーニンの別の叙述によってそんな誤解は氷解すると考えていたので、舩山先生のそのような批判は、マルクス・レーニンから殊更距離をとって転向に固執する虚勢のように浅く捉えていた。

でもテーゼというのは一人歩きするものであり、関係に還元して人間を捉える見方は人格的主体の軽視をもたらし、人格無視の官僚主義体制を生んでしまう。また感性の基体としての身体を主体即客体と置かないかぎり、意識現象に還元する現象学を克服することはできない。舩山先生はこのことを念頭に繰り言されていたのである。

実際この四半世紀の内に、関係還元主義や現象学主義が、いわゆる「弁証法的唯物論」をスターリン主義というレッテル貼りで退ける議論と手を携え、自称マルクス主義哲学者の中でも盛んになった。だがいわゆる唯物論の論争は、政治主義的なレッテル貼りや流行哲学からの援用では、何ひとつ決着がつく筈はないのだ。 

近年「社会主義」世界体制崩壊と共にマルクス主義が思想としての寿命が尽きたという議論があります。それに便乗して唯物史観や弁証法的唯物論も根本的に問違りていたという議論が次第に、自称マルクス主義者の中でも支配的に成りつつあるようです。いったんそういう流れが起こると、我先にという感じになります。古い教条を守っていることがとても後ろめたい気分になるものです。

その点舩山は戦前に転向経験という免疫があります。彼は政治的にマルクス主義を棄てました。また党派的な意味での「弁証法的唯物論」も棄てました。しかし哲学としては弁証法も唯物論も一度も棄てたことはありません。戦後も彼はマルクス主義や党派的な「弁証法的唯物論」には復帰しませんでしたが、弁証法や唯物論に対する信念は一貫しています。そしてフオイエルバッハの人間学的唯物論から学んで弁証法的唯物論の唯物論的基礎を固めました。

彼は戦後の唯物論者の論争に対しても、人間学的唯物論の立場から、人間主体の主体性を軽んじる当時正統派とされていた俗流客観主義的唯物論を批判し、返す刀で人間主体の身体性を軽んじるか、対象の側の実体的な主体性を無視する主観的な唯物史観主義、主体的唯物論、実践的唯物論を批判しています。そして実在としての人間同士の関係、人間と自然との関係に基礎を置かず、それらを共同主観的な意識に還元する廣松渉の事的世界観も批判しています。その上、唯物論者の中でも最近は極めて評判が悪い「模写説」や「自然弁証法」を死ぬまで堅持しました。

つまり舩山はこと哲学に関する限り、たとえどんなに時代遅れと言われようが、その理論を唱えた人物が政治的にどんなに大きな犯罪を犯し、人類の敵とされようが、あくまで理論自体が正しいかどうかで真理性を判断したのです。

残念なことに戦後の唯物論の論争も論敵をきちんと論破して、発展したわけではありません。外国から新傾向の理論を輸入して、それを焼き直したものも多かったのです。また特定の理論と特定の政治傾向を結び付けて攻撃されました。例えば「弁証法的唯物論・自然弁証法・模写説」を唱えるとスターリン主義者だと非難されたのです。たしかに共産党の御用哲学化したいわゆる「弁証法的唯物論」はかなり杜撰で幼稚な図式主義だったとしても、自然や論理における「弁証法」も「唯物論」的世界観も、対象認識に伴う「模写」の契機も永い哲学史的伝統を踏まえたもので、決してスターリンに悪用されたことによって無効になるわけはないのです。その点決して時流に流されず、あくまで自らの知性で持論を貫いた舩山は尊敬に値します。

とはいえ近代世界においてマルクス主義が果たした負の役割は甚大なものがあり、その理論的遺産についても徹底した批判が行われるべきでしょう。でもその批判が内在的な批判でなく、しかもそれに代えて登場するのが、より浅薄でお粗末なものであってはいけません。

舩山の人間学的唯物論では「人間」が身体的存在として捉えられており、身体的存在であることで主体的対象的だとされていました。しかし「人間の身体とは何か?」この点の議論は、感性的存在であるという以上は、それ程展開されていません。

人間は歴史的、社会的存在であり、巨大な生産・流通・消費機構を持つ存在です。またその他の政治的・文化的・社会的なさまざまなシステムに統合されて存在しており、主体としての意識もその中で再生産されています。その意味で人間は、直接の肉体以外に非有機的身体として自然的、社会的諸事物からも構成されているわけで、意識の内容もそのような諸事物およびその諸関連から産出されるわけです。そうしますと対象的に働きかける主体としての身体に、社会的諸事物や社会構造全体が含まれることにもなります。このような身体概念や人間概念の拡大によって舩山の人間学的唯物論を批判的に継承しようというのが、現在の私の課題なのです。 


       ( 2 ) マルクス対フォイエルバッハ

「フォイエルバッハとマルクス及びへーゲル」は、一九八三年の早稲田大学の「疎外論の現代的意義」のシンポジウムでの報告をもとにしたもので、舩山の人間学的唯物論とフォイエルバッハ・マルクス・へーゲルの関連がよく分かります。

マルクスは一八四四年の『経済学・哲学手稿』では、へーゲル弁証法を深く理解し、人問主義=自然主義、自然主義ー人間主義の立場を貫いたフォイエルバッハを高く評価していました。マルクスは(フォイエルバッハの偉業」をこう述べています。 

( l )哲学(へーゲル哲学)は思惟によって遂行された宗教に他ならない。だから哲学は宗教とともに断罪されるべきであることを証明した。

(2) 「人間に対する人間の社会的な関係」を理論の根本原理にすることで、真の唯物論と実在的な諸科学とを基礎付けた。

(3)「否定の否定」に対して、自分自身を根拠にする肯定的なものを対置することによってそれをおこなった。 

しかし翌年の 『フォイエルバッハ・テーゼ』では、フォイエルバッハが感性を実践として対象的活動として捉えておらず、単に直観的に客体として捉えられているにすぎないとし、また歴史・社会・政治についてあまり取り上げず、自然についてばかり多く語っていることにも不満だったのです。フォイエルバッハの非実践的な性格についてのマルクスの批判には舩山も共感を示していますが、敢えて舩山はフォイエルバッハの側に立ちます。
 このマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の立場は実践的唯物論・主体的唯物論であり、客体を感性的な意識に還元していますから、客体の実在性は止揚されています。人間学的唯物論の立場では主体が身体である以上、それに対する客体も身体を超越した他の身体あるいは諸事物の筈です。つまり主体対客体の実在同士の関係があって、その基礎の上に意識が生じるわけです。言い換えますと対象についての意識が生じるのは実在間の関係があるからだということです。

対象の意識から対象の実在を導き出すのは独断ではないかという批判がありますが、たしかに個々の対象の意識から、いつも対象の実在を導きだせるわけはありません。でもいつも夢幻であり、錯覚であるなら、人間は実在間の物質代謝を行えなくなり、すぐにも滅亡してしまいます。ですから日常的な生活実践の場面では、対象の意識から対象の実在を推論するのは決して独断論ではない筈です。

感性つまり意識内容を客体として捉えないで、主体の実践や対象的活動に還元したままでは、意識内容に埋没して主観的観念論に陥ってしまいます。意識内容を対象に成っている客体の性質として客観的に捉え返すことにより、客観的世界の法則的認識が可能になるのです。つまり感性的意識内容を客体としての事物の認識にまで高めるには、意識を超越して実在を立てる必要があるのです。外に超越して客体的事物を、内に超越して身体的主体を立てるのです。これが人間を自然を基礎に身体的な主体として立て、我と汝の係を感性的な関係として捉え返したフォイエルバッハの人間学的唯物論に戻ろうという、舩山の問題意識です。 


       (3)哲学の体系と構造

舩山は人間学的唯物論の哲学を展開するにあたって、人間学的唯物論に相応しい展開の方法を考えています。その場合へーゲル哲学の体系を参考にし、その人間学的唯物論に相応しい改作を行おうとしました。へーゲル哲学には狭義の体系、すなわち『エンチュクロペディー』における《論理学 →自然哲学 精神哲学》という体系があります。それにもう一つの体系は、「へーゲル哲学と西田哲学との一対立点」で述べられている「構造的発展におけるへーゲル哲学体系」にあたる広義の体系《『精神の現象学』→『論理学』→「実在哲学(特に「歴史哲学」)」》という体系です。これに対して人間学的唯物論においては《人間学(認識論[意織学・現象学]+実践論)→論理学(本質学)→現実学(存在論)》という体系が成立するとされています。

「へーゲルの現象学的観念論」によりますと、へーゲルの『精神の現象学』は感覚的確信から絶対知までの意識のすべ発展を展開しています。そこでは客観的な自然や社会的諸事物や歴史も全て意識の経験の学として意識に還元された「絶対的観念論」です。舩山は認識論と実践論を結合することによって、身体的存在としての人間相互の関係、身体と自然の代謝関係を基礎に置いた人間学を先ず展開します。この認識と実践の豊富な蓄積と成果を踏まえて、そこから弁証法的な論理学が本質学として展開されることになるのです。
 へーゲルの場合、『精神の現象学』の成果としての絶対知は、次に論理として自己を展開します。この『論理学』が抽象的な意味で存在論なのです。その後で展開される実在哲学は 『自然哲学』にしろ『精神哲学』にしろ外化された論理の自己展開なのですから。それに対して「人間学的唯物論」の「論理学」はあくまで実在(身体や諸事物)相互間の主体的対象的構造を反映した論理の学になります。舩山はこの論理学をエンゲルスやスターリンのように[形式論理学十弁証法]ではなく、弁証法一本でいくべきだとしています。

弁証法も論理の発展段階で種類を異にしますから、弁証法一本でも決して貧相にはなりません。またエンゲルスの公式のように「量から質への転化」「対立物の統一と闘争」「対立物の相互浸透」「否定の否定」等を適当に当てはめて説明に使っていくのではありません。へーゲル論理学で、有論は移行の弁証法、本質論は反省の弁証法、概念論は発展の弁証法というように、弁証法の論理自体がダイナミックに発展していますが、この唯物論的改作が念頭にあったようです。

論理学を方法論として実在哲学(現象学的人間学・法哲学・経済哲学・歴史哲学)を展開する点はへーゲルも舩山も変わりませんが、人間学的唯物論ではこの現実学こそが存在論に当たるわけです。人間学的唯物論で政治や経済や歴史を論じる際、その主体が身体主義的人間観を前提にしていますと、せいぜい現実的諸個人どまりです。さまざまな集団・組織・企業・階級・民族・国家などが生きた主体として状況を織りなしてきたのではなかったでしょうか?私が「人間学的唯物論」の「人間観の転換」を訴えているゆえんです。


        ( 4 ) 西田哲学への視角

「へーゲル哲学と西田哲学との一対立点」では西田哲学に関する関心は、専ら学としての体系性をへーゲル哲学と比較するところにあります。舩山は自らの「人間学的唯物論」を体系的に展開するにあたって、日本を代表する西田哲学では学としての体系性をどう捉えていたか、確認しておきたかったのです。舩山は西田哲学について「発展における哲学の体系」の前期を「現象学的心理主義的時代」、後期を「存在論的論理学的時代」に分けます。 

前期―「現象学的心理主義的時代」

「純粋経験 知的直観」の哲学(ロマンティシズム)の時期―『善の研究』(一九一一年)

「自覚の哲学」の時期ー『自覚に於ける直観と反省』(一九一七年)〜『芸術と道徳』(一九二三年

後期―「存在論的論理学的時代」

「場所→弁証法的一般者」の時期―「場所」(一九二六年)、「働くものから見るものへ」(一九二七年)〜『哲学の根本問題・続編」(一九三四年)

「行為的直観 絶対矛盾的自己同一」の時期―『 哲学論文集・第一』(一九三五年) 〜『哲学論文集・第三 』(一九三九年)

「ポイエシス」の時期― 『哲学論文集・第三』(一九三九年)〜『哲学論文集・第五』
(一九四四年) 

舩山によると「場所」において方怯が確立し、その方法に基づいて体系が展開されたわけではないのです。西田哲学の全発展が立場・方法の不断の深化・発展なのです。そして前期は現象学であると同時に論理学(存在論)であり、後期は論理学(存在論)であると同時に現象学だとしています。各時期において西田哲学にも体系的な試みはありますが、立場・方法が不断に深化・発展しますので、体系としてのまとまりは弱かったのです。

西田は後期においてへーゲル哲学の影響を受け、「弁証法的一般者」「絶対矛盾的自己同一」等、西田独特の弁証法論理を展開していますが、西田はへーゲル弁証法をマルクスを介して知ったのです。つまり当時の京大の教授たちは学生の中の議論に関心を示し、常に最先端の問題意識を培っていたということです。三木清、戸坂潤、梯明秀らとの交流が西田哲学の発展に重要な役割を担ったということです。梯明秀は西田に若きマルクスの『経済学・哲学手稿』を紹介したことを大変手柄に感じていまして、晩年一九七○年代の立命館大文学部大学院の授業でも、私たちにそのことを盛んに自慢していました。

西田のこうした開明的性格は、「日本近代哲学史における西田哲学の地位」によりますと、四高の学生時代から見られるのです。西田自身の晩年の回顧でも「極めて進歩的な思想を抱いていた。」とありますが、当時彼は唯物論的無神論的見解を披瀝し、また唯心論的見解も表明していました。つまり自分のよって立つべき思想を模索していたのです。これに後にヒュームの経験論、カントの先験哲学、グリーンの倫理説、ジェームスの根本的経験論等が加わり、西田の純粋経験論の源泉になったのです。舩山は西田哲学の近代性を個別性の原理、内面性の原理をはじめて哲学的に把握した点にあるとしています。 

       ( 5 ) 西田哲学の評価を巡って

「西田哲学は生きているか?」の中で、戦争中西田哲学がブームになった頃、三木清が「もし西田哲学がほんとうに理解されているならば、そのときはこのような政治的思想的状況が生ずるはずがない」と語ったことが紹介されています。船山はちゃんと断っていますが、三木は西田哲学に状況打開の力を期待したのではないのです。西田哲学が理解できる程の頭があれば、こんな愚劣な状況にはなっていなかったというアイロニーなのです。
 敗戦後、西田哲学は戦争に果たした役割を追及されました。しかし政治的批判はともかく、その哲学的批判は正鵠であったとは言えないと舩山は述べています。そこで「戦前 戦中の「左翼 」哲学者たちが観た西田哲学」で西田の存命中に左翼からどんな批判がなされていたのか検討されています。

三木は西田哲学の学的性格を捉えて、西洋的普遍的世界的性格を強調しました。戸坂も東洋的・封建的要素が多分にあるが、本質的にはブルジョワ・アカデミズム哲学と規定しています。東洋的・封建的だとしたのは汎神論的神学だと決めつけた山崎謙です。甘粕石介は神秘主義だとしながら、それが今日のブルジョワ哲学の特徴だとしています。ところが戦後とは対照的に左翼哲学者のだれも西田哲学をファシズム哲学とは見なしていなかったのです。

左翼哲学者は、西田の弁証法に対する捉え方の欠陥を批判しました。しかし舩山はそれに対してこの論文では論評していません。もちろん人間学的唯物論からは、一般者の白己限定や述語論理的な西田の弁証法理解は相容れないと思われます。西田哲学を積極的に評価し、発展させようとしたのは三木と梯だけでした。三木の『歴史哲学』 および『構想力の論理』は西田哲学の三木的展開であり、梯は「西田哲学を讃ふ」で西田哲学の唯物論的改作を試みているのです。西田哲学を冷静に批判しながら、その積極面を評価し、発展させる試みは、日本近代哲学史の総括の中で今でも最重要の課題だといえるでしょう。


         ( 6 ) 田辺元への思い

舩山の名著『日本哲学者の弁証法』がこぶし文庫に収録されました。京都学派の独創的な弁証法導入の試みがいきいきと描かれて、とても印象的です。特に京大での舩山の指導教官であった田辺元の「媒介の弁証法」の解説は出色です。

近頃は、弁証法はギリシャ哲学の他は、へーゲル哲学と唯物弁証法に限られがちです。そしてマルクス主義の凋落で弁証法もいささか鮮度が落ちて、敬遠され気味です。そんなときこの名著の再刊は、主体的創造的に生かせば弁証法も捨てたものではないと、弁証法が活力を取り戻すきっかけを与えてくれそうな気がします。

「田辺先生の想い出と田辺哲学にかんする感想」によりますと、田辺は三木、戸坂、本多謙三、舩山ら左派学生に好意的でした。唯物論研究会ができた頃、梯、舩山らが世話人の「哲学科学の会」にも出席し、集中攻撃されて舩山は気の毒に思っています。舩山が唯物論研究会の活動に本腰を入れる為に上京しようとした日に田辺にその旨を告げると、田辺の方から握手を求められた事がとても懐かしい想い出なのです、舩山にとって。

田辺は弁証法にははじめ否定的でしたが、若手の議論に刺激されて、へーゲルの観念弁証法とマルクスの唯物弁証法の統一としての「絶対弁証法」、弁証法的なるものと弁証法を超えるものとの弁証法的統一としての「絶対弁証法」を唱えたのです。これに対して舩山は 『唯物論研究』第四号に「「絶対弁証法」の観念論的性格ー田辺元博士著『哲学通論』の批判」を掲載し、唯物論者としての立場から厳しく批判しました。

舩山は上京後、唯物論研究会を中心に一年半ほどめざましく活動しましたが、その後検挙され、転向後田辺や三木の世話で岩波文庫からフォイエルバッハの 『キリスト教の本質』の翻訳を出して食いつないだのです。三木は昭和研究会に加わり、「協同主義」を唱えて、アジア諸民族との共栄の論理を探っていました。舩山もこれに加わったのです。この傾向は国粋主義や排外的民族主義とは対立しました。田辺は「種の論理と世界図式」(一九三五年)や[歴史的現実 (一九四○年)では民族主義的傾向が露骨だったのです。それで船山は、いよいよ距離を感じたのです。


        ( 7 ) 三木清から引き継いだもの

三木は船山より十歳年上でした。彼は欧州に留学して左翼思想に触れ、帰国後「人間学のマルクス的形態」(一九二七年)を著しました。「三木さんについて想うこと」で当時哲学かマルクス主義かの選択に悩んでいた舩山にとって、「運命の人(師)」になったとされています。つまりマルクス主義にも哲学があることを示してくれたのです。

「三木清と戸坂潤ー両先輩の想い出ー」によりますと、一時三木が新興利学社やプロレタリア科学研究所を本拠に活躍し、ジャーナリズムからも寵児扱いされて左翼論壇をリードしかねない勢いになりますが、共産党シンパサイザァー事件で捕まっている間に左翼から攻撃されて、左翼との関係を断ちます。かわりに戸坂が上京して唯物論研究会を創設します。そしてやがて舩山も実践にあこがれて上京することになるのです。

三木は「昭和研究会」を通して、「支那事変」後の「東亜新秩序」や「新体制運動」に理論的に参画しようとします。舩山も、転向後この協同主義哲学の動きに本気で加わります。つまり野蛮な日本軍国主義の侵略の動きを、東亜協同体建設の方向へ少しでも舵を変えようと努力したのです。

遺憾ながら結果的には、野蛮な侵略を粉飾、美化することにしかならなかったとしても、主観的には日本知識人の良心の証のつもりだったのです。実際三木は軍国主義的な日本や軍部に対しても遠慮会釈なく、欠陥を突き、批判的態度を貫いたのです。

戸坂はあくまで体制に否定的であるとして検挙・起訴・有罪となりましたが、三木は体制に進んで協力したにもかかわらず、再び検挙されてしまったのです。それは不用意にも、警視庁から脱走した共産党員の高倉テルを一晩匿い、自分のネーム入りのワイシャツを貸して自分が捕まるきっかけをつくってしまったからでした。そして悲惨にも戸坂は敗戦の年の八月九日に、三木は敗戦後一カ月以上たった、九月二六日に獄死したのです。当時同じ獄に居た寺尾五餓の回想によりますと、三木の場合、高名な学者が怯えるのを看守たちが面白がって余計にいたぶり倒し、身体中膿みだらけになったのを不衛生のまま放置された結果、悶え死んだということです。

舩山は三木の死に相当責任を感じているようです。当時だれも敗戦になっても、治安維持法で収監された人達を救出しようと動かなかったのです。救出の為に動くことを考えることすらできなかったのです。敗戦の虚脱感から自分が何かをできるという気持ちにすらなれなかったということでしょう。

舩山の戦後の最も中心にした課題は、「人間学的唯物論」の確立でした。それはマルクスからフォイエルバッハへ戻ることで唯物論を確立することですが、実は「人間学的唯物論」こそ三木から船山が継承しようとしたものでもあったのです。三木は存在をすべて客観の側に追いやり、主観を意識に還元する近代の認識論を批判し、認識の主観を交渉的存在として捉えていたのです。ちなみに三木は「真理は心理学でも生理学でもなくて人間学である」というフォイエルバッハの言葉を好んで引用していました。三木を獄死させてしまった以上、三木のこの志をあくまで引き継ぐ責任があると、舩山は彼の人生の「ひとすじの道」をこの言葉の為に捧げたのです。

 

             『舩山信一著作集 第五巻―西田・ヘーゲル・マルクス』の「解説」より




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