アダムとエバの人間論

 

コスモスをつくりし神をつくりしは、救い求むる人のあがきか


やすい:では『バイブル』の「創世記第一章〜第三章」を材料にして、ヘブライズムの人間観を検討することにしましょう。

立男:はじめに神が天地を創造されます。天地創造以前には神はおられたのですか。

命子:そりゃあ、神は初めからいたから神なのでしょう。だから逆に言えば、この世の初めを想定したとき、この世を作った主体が必要と考えた、その主体はそれ以前からいなければならない。そこでそういう永遠な存在を神と名づけたわけよ。

立男:すると神は人間の想像力によって作られたことになりますね。神を作ったのは人間なんだ。

やすい:早速、深遠なる神学論議に花が咲きましたね。確かに神観念を作ったのは人間です。しかしその神は天地万物を創造され、人間を創造されたものとして考えられたのだから、人間が神観念を抱くずっと前から神は存在していたことになります。「初めにあり、今あり、世々限りなく有るなりアーメン」という節のついた祈祷があります。

立男:と人間が考えたわけですから、やはり人間の思考の産物ですよね、神は。そうすると人間が作った神が人間を作ったことになります。これは矛盾してますね。

命子:要するに神なんて思考の産物だから存在しないのだといいたいのでしょう。信じたくなければ信じなきゃいいでしょう、信仰は自由なんだ

ですから。ただ人間が考え出したものといっても、だから存在しないとは言えないのじゃないかしら。たとえば建っている家があれば、立てた大工さんがいるという推論は成り立ちますね。大工さんは推論の産物だから居ないとはいえません。それに薔薇の花だって人間の感覚や思考が構成しているので、その意味で思考の産物だから、存在しないとはいえないわけです。

立男:大工さんが居るかどうか、薔薇があるかどうか、そういうことは大工さんや薔薇で確かめられますが、神は目に見えないもので確かめられないじゃないですか。

やすい:この神学論争はいつ果てるとも知れないけれど、大いに突き詰めて議論すべきです。ただ神観念の発展を振り返りますと、最初は天地を創造した見えざる超越神を信仰していたわけではありません。はじめは、人間がありふれた蛇や石を神に指定していたのです。それにいろいろ願い事をして叶えてくれるように供物をささげます。もし願いが叶えられなければ、その神に攻撃を加えて、殺したり、破壊したりしたのです。こういう信仰形態をフェティシズム(物神信仰)というのです。

立男:やっぱり人間が神をつくっていたんだ。

命子:インドの説話ではプルシャ(原人)が最初にいて、そのプルシャからコスモスが生まれ、神々や万物が、またヴァルナが生まれたそうです。フェニキヤでも人間が神々を作ったという説話があります。しかもそういう説話の方が、神々が人間を作ったという説話よりも古いようですね。だからといって、神がコスモスや人間を創造しなかった証拠には成りません。人間が作った神というのが本当の神なら、またそれ以前に神がいなかったというのなら別ですが。

やすい:その辺にしておかないと『創世記』のなかみの検討ができません。

 

一条の光さしきて闇照らす、愛がつくりしコスモスならずや


立男:天地に分けられてから、神は「光あれ」といわれると光がありますね、そして光と闇に分けられます。これは世界をプラスとマイナス、肯定的なものと否定的なもの。善と悪、勝ち組と負け組みに分けるような二元論ですね。

命子:この二元論はゾロアスター教の影響でしょう。ゾロアスター教は、光の神アフラマズダと闇の神アーリマンの戦いが世界を作るという発想ですね。

やすい:ええ、光対闇、正義対悪、愛対憎悪、あるいはプラス対マイナス、肯定的なもの対否定的なものの対置、こういう二元論にゾロアスター教の与えた影響は大きいでしょうね。

立男:光は万物の根源でしょう。ギリシアではアルケー(根源物質)が問われて哲学が発生したといわれますが、宗教的にアルケーを語るのだったら光でしょうね。アマテラス大御神みたいな太陽信仰が世界中でさかんでしょう。

命子:それに光は感情としては愛ですよね。だから救いとなり、希望につながるわけですが。

やすい:そうそう、そういうふうにイメージを膨らませて解釈していくと、バイブルからいろんなメッセージが聞こえてきますね。仏教だって、これもゾロアスター教の影響と思われますが、大乗仏教では光信仰が大切になります。仏の慈悲はイメージとしては光なのです。そこで阿弥陀如来や廬遮那仏は実体としは光なのです。そしてすべては仏の現れであるということですから、世界は仏の慈悲によってできていることになります。

キリスト教のイエスも神格化されて太陽信仰と結合します。彼は「世の光」と呼ばれます。彼の誕生日は不明ですが、冬至に太陽の光が最も弱まり、これから強くなっていくので、太陽の誕生日とされていた民間信仰を取り入れて、クリスマスが降誕記念祭になったのです。

世界は愛によって作られ、愛のために存在する、愛を信じ、光を求めて生きなさいというメッセージが託されているというように解釈しますと、読んでいて感動があるわけです。

立男:でもそれはしらけます。だってコスモスは何百億年か昔にできて、人類が出来たのがたかだか数百万年前でしょう。愛という感情は人類独特のものでしょう。性的衝動や育児本能なら動物にもあるにしても。それをコスモスを作ったのが愛だなんて、ちょっと変ですね。

命子:先生が感動されているのに、白けた反応は失礼ですね。宗教の話に科学的な知識を持ち出して、けちをつけるのはよくないですよね。

やすい:いろんな角度からの反応は当然で、白けないのも不自然です。バイブルは紀元前に書かれているので、その人々がどのように世界を捉えたか想像して、感情移入することも古い時代の本を読む態度として大切です。

それに宇宙的時間・空間は天文学的数字になりますので、宇宙の根底や根源に人間的感情を置くのは不自然だということですが、時間空間意識自体が生きている人間の意識でして、数百億年前のビッグバンのイメージも現代の人間の意識にすぎません。もしその場に居合わせて現代の人間が見ればああ見えるということですね。つまりその場合でも人間の意識でコスモスを構成しているわけです。現代科学が牽引と斥撥を原理に世界を説明しているから、コスモスの生成がビッグバンにならざるをえないわけです。もしエンペドクレスのように愛と憎しみという感情を世界を説明する原理していたら、コスモスは愛によって進化し、憎しみによって分解することになります。

立男:それじゃあ現代人は感情によってコスモスを捉えられないから、宗教は不可能ということですか。

 

     神々に似せてつくりし人ならば神は愛せり天使にまさりて

 

命子:第六日に地上の獣たちを作られてから、神はいよいよ人を創造されます。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。」とあります。

立男:ちょっと待ってください。「我々に」とありますが、神は唯一絶対の神のはずですから、間違っていますね。

やすい:さすが太郎君、見逃しませんね。これはバイブル独特の「神の複数」という用法です。唯一神なのに、何故か複数です。元々はヘブライ人たちも多神教だった痕跡だといわれています。

命子:そんなことよりも、ここで大切なのは、人間は神に似せて作られているということでしょう。人間はすべての作られたものの中で、神から選ばれた、神に特に愛されている存在なのです。だって神は自分に似ている人間を見て、自分自身をご覧になっているようなお気持ちになり、とてもいとおしく思われるに違いないですもの。親が子をいとしく思う理由の一つに自分に似た部分を見出して、自分の子だと思うこともあるでしょう。

やすい:キリスト教人間論というのがありまして、その分野でさかんに「人間は神の似姿である」ということが強調されます。だから人間は、神と対話でき、理性を共有し、聖霊を宿すことが出来るのだといいます。

立男:じゃあこれは逆に読まなくちゃあ。人間が神に似ているのではなくて、神が人間に似ているのです。人間は、自分に似た神を造って、特に選ばれた神のごとき神聖なる存在だと自分を捉えていることになります。これは人間中心主義(ヒューマニズム)宣言です。

やすい:全くその通りですね。バイブルは神から受けた啓示にもとづいて書かれたかもしれないけれど、実際書いたのは人間ですから、書いた人のバイアスがかかっています。ですから書いた人間の心理を分析すべきなのです。ここで人間は神に一気に近づき、天使より貴い存在になろうとしています。イスラム教の『クルアーン』ではこの部分にヒントを得て、次のようなエピソードがあります。神はアダムを大変かわいいと思われ、天使たちの前に連れて行って、天使たちにアダムに跪拝するように要求します。しかし天使たちは、土から造られたアダムよりも、火から造られた天使の方が貴いと考えていますから、神の寵愛が奪われた嫉妬もあって大変不満だったのですが、なにぶん神の命令は絶対ですからしぶしぶ跪拝したのです。

命子:宗教ですから人間が救われなければ意味を成しません。たとえどんなに人間を塵や芥のように表現しても、それはそれと対比して神や仏が絶対で神聖で万能であることを際立たせる為にすぎないのです。そうしておいて神や仏の力で救われるといいたいわけです。これは宗教の本質ですよね。

 

人のため世界つくりし神なれば、人に任せり地上の支配を

   ムツゴロウ人の未来を示すため諫早湾に住み着きにしや


立男:人を神に似せて造ったので、神は人に他の動物に対する支配権を与えていますね。食物連鎖の頂点に立たせたわけです。結局、神は天地創造をされ、動植物を作られたけれど、それは人間たちがそれらを支配して、どんな世界を作るのかをご覧になられるためだったのですね。相手が神だから敬語を遣わないと。(笑い)

命子:この記述から西洋文明は人間中心主義で、自然や動植物を自分の道具とか食料とか愛玩の対象としか見なしていないということで、それが環境破壊の原因だとよく言われますね。

立男:ヘブライズムは、輪廻転生(サンサーラ)を認めていないでしょう。サンサーラを認めると人も獣もお互いに生まれ変わるわけだから、みな平等だということがあるのだけれど、バイブルのような書き方だといかにも動物は人間の為に用意されているという感じですね。

やすい:これは人用のバイブルです。猫用バイブルじゃありません。もし猫用バイブルがあれば世界は猫の為に作られたことになるでしょう。人なんて猫にご馳走を提供し、かしづいて世話をするために存在するというように表現されるに違いありません。

命子:先生、それは『キャッツ』の世界ですよ。『キャッツ』観ましたね!

やすい:だからどうしても人間は世界を自分中心に観てしまう。そこで自分も支配されているということを忘れそうになるわけです。人間は食べるだけで食べられる存在でもあるということを忘れてしまう。でも食物連鎖は、頂点にある動物もバクテリアが分解するわけです。土や空気に帰るわけです。大いなる生命というものを考えますと、土や空気もそこに含まれますから、人だって大いなる生命から生まれ、大いなる生命に戻るわけで、そのことを忘れると、生命の循環から切り離されますので、永遠の命も得られないわけです。

立男:そういうことですね。有限な生命は永遠の生命である大いなる生命の一こまという意味で永遠性を宿しているわけですから、食べられることを通して、永遠の生命に帰ること以外に永遠はないわけです。でもそれじゃあ宗教にはなりませんね。

命子:ヒンドゥー教で、永遠の生命の象徴ともいうべき大地女神カーリーに人を生贄にささげる儀式がありましたね。人の内臓を鷲づかみにして女神像に投げつけました。生贄という儀式を通して、永遠の生命と交流していたのですね。そういう宗教もあるわけです。

やすい:ただ注意して欲しいのが、支配権を任されたからといって、人は何をしてもいいということではありません。間違った支配をして、神に造っていただいた大切な生き物を死滅させてしまったりしますと、神はお怒りになられるかもしれません。人間には理性を与えて、自然の秩序にしたがって管理するように任されているのですから、産業の発達で森や野原や海や川や湖などを破壊し、生態系を壊していけば、当然その報いとして人もサバイバルできなくなるわけです。その意味では人は自然自身の理性を自分の理性としなければならないわけです。人間は自然の自己意識であるとシェリングも言っているのです。ところがどうしても人間は自然理性を忘れ、私利私欲のために行動するので、自然を破壊し、最終的には自己破滅の方向に向かいがちなのです。

立男:諫早湾のムツゴロウは締め切り工事で壊滅的な打撃を受けました。何と1億匹のムツゴロウがいたのですが、いまではほとんど死んだでしょうね。でもそれは彼らが犠牲になって、人間の未来を示してくれているのです。そのことに気づいて、心からムツゴロウに詫びて、回心しなければ、人間の未来はムツゴロウの今日の姿なのです。

 

土くれを湧き出る水でこね回し命吹きいれ人をつくりし

 

命子:「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人は主に土から出来ていますが、よく注意しますと、水分が必要だったことがわかります。そしてそれだけではまだ生きられないので、命の息を吹き入れてもらうわけです。命の息を火のことだと解釈しますと、これは陶器の製造方法と同じです。土を水でこねまして、それを火で焼くわけです。

やすい:それはおもしろい解釈ですが、命の息はプネウマで魂にあたります。これがパスカルのヒントとなって身体機械に魂を置き入れて人間が出来たという見解になります。つまり心身二元論ですね。あるいは精神・物理的存在としての人間論とも読めます。またアルケー論で解釈すれば土と水と空気あるいは火という諸元素の混交で人が出来ていることになります。

 

    終末に蘇りして楽園に入りなば待つや麗しき女(ひと)

 

立男:「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形作った人をそこに置かれた。主なる神は見るからに好ましく、食べるのに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

命子:ついでにこれも読んでおきます。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。

『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 少し気になったのですが、どうして後の文章には命の木のことがないのですか、命の木も禁断だったのでしょう?

やすい:その通りです。その理由は分かりません。ただ「創世記」も何種類の伝説を集めて作ったので、いろいろ矛盾する表現が出てくるのです。

立男:エデンの園がパラダイス(楽園)なのでしょう?天国とはまた違うのですか?

やすい:天国はコスモスの外にあるわけです。天地創造によってコスモスが作られましたね。神は超越神ですから、コスモスには住まれておられません。天上の神の国におられるのです。そこが天国ですね。

命子:神の国といっても神は唯一神だからひとりですね。そこに天使たちと暮らしておられるのですか。

立男:死んだら天国というから、信仰の篤かった人々は天国に昇っているのでしょう。

やすい:残念ながら天に人が昇った例は二つしかありません。エリヤとイエスだけです。モーセやダビデ王ですら天には昇っていないのです。

立男:本当ですか?じゃあやはり死んだから土に返ってそれでおしまいですか。良くそんな教義で信仰が成り立ちますね。

やすい:それで終末思想ができまして、終末がくると復活させられるのではないかと考えるようになりますが、これも預言者の夢想のようなもので、しっかりした保証はありません。イエスは、「私の肉を食べ、血を飲んだ人を私は終わりの日に蘇らせる」と言っています。それでキリスト教会では、イエスの肉を食べ、血を飲む儀式をメインに礼拝を行っているのです。

命子:オエー、どのようにして二千年も前に死んだ人の肉を食べ、血を飲めるのですか?あ、そうだ。そういえばミサでパンを食べ、ワインを飲みますね。あのミサはイエスの肉を食べ、血を飲む儀式なのですね。

立男:でもパンはイエスの肉ではないし、ワインはイエスの血ではないので、象徴的にそんなことをしたって復活できないでしょう。

やすい:だからカトリックは正式の教義では、象徴ではなく、奇跡として説明します。教会の儀式においては、パンはパンのままでイエスの肉となり、ワインはワインのままでイエスの血となるとしています。プロテスタントでは象徴と認めるようになりましたが。でもこの話は、イエスの復活の謎ともかかわりますので、話せば長くなります。関心をもたれたかたは拙著『イエスは食べられて復活した』(社会評論社刊)をお読みください。

命子:少し気分がおかしくなってきましたが、では終末がくれば、正しく信仰した人は復活して天国にみんなで昇るのですか。

やすい:旧約聖書には書いてません。新約聖書でも天国には昇ると書いてなくて、地上が神の支配、実際はイエスの支配が実現し、地上が神の国になるわけです。

立男:その時、みんなでエデンの園に帰るのですか?

やすい:いいえ、地上全体がパラダイスになるということです。

命子:それじゃあ、死者がたくさん復活するので地上は人口が増えすぎて食糧難になりますね。

やすい:はたして正しい信仰をしていた人がどれくらいいるのか分かりませんよ。それにイエスによりますと、もうだれも死ななくなるので、子供は産めません。したがって性別はなくなるのです。

立男:じゃあ『クルアーン』にあるような、パラダイスでは麗しき乙女が三人かしづくというようなことは、キリスト教では有り得ないわけですね。

やすい:そこはムハンマドは商人だっただけに損得勘定とか、セールスポイントを考えていて、パラダイスへの憧れを掻き立てるのがうまいのです。

命子:「エデンの園」まだありあまるほどの食糧があって、生きるための労働の苦しみなんてなかったわけですね。まだ人間としての自覚も芽生えていない、いわば子宮で守られた胎児のような状態ですね。

やすい:ええその比喩は良くつかわれます。

命子:すると大変退屈するでしょうね。食べるものも果物ばかりだし、やがて食べ飽きますから、禁断の木の実がどんな味なのか好奇心が膨らんで抑えきれなくなるでしょう。

 

    見たままを音に取り替へ伝へても、認識までは伝へられまじ

 

立男:そこで神は人に同伴者を与えようとします。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」と獣や鳥をつくります。それを人のところへ持っていってどう呼ぶか観ていたのです。「人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助けるものはみつけることができなかった」のです。ここにアダムに名づけの能力があることがわかります。これをアダム語といいます。つまり言語を遣ってコミュニケーションを取り合い、集団や類として自然適応能力を発展させたわけです。この能力はまた概念的に思考する能力でもありますから、言語使用を人間の本質だとする人間論は大変有力ですね。

命子:というより言語使用により、人間になったと言えるのじゃないですか。

立男:霊長類は音声を使ったコミュニケーションを活発に行っています。またイルカの超音波コミュニケーションが盛んです。これらも立派な言語でしょう。

やすい:それは何を言語と定義するかによるわけです。動物は身振り信号でコミュニケーションをとるわけですが、信号を言語だと考えますと、たしかに動物も言語を話していることになります。ドリトル先生の言語観はこれです。しかしそれでは言語を人間固有のものとできないために、言語以外のものに人間の特徴を探さなければいけなくなりますね。せっかく目覚しい言語活動を行って人間の文明がその基礎の上に築かれているのですから、できれば言語を人間論の中心におきたいわけです。

命子:デカルトが魂と身体を二元論的に考えたのも、言語をたくみに使用する能力を身体機械はもてる筈がないというところからでしたからね。
やすい:そこで単なる音声信号は身振り信号に分類しまして、構文が整い、命題的表現や主語・述語的表現が中軸を成している言語となると人間の言語でしかありませんので、そういうものを言語と規定しておくのです。

立男:しかしいかに言語が人間特有だとしても、それによって人間が文明を起きた理由がはっきりしないと、人間本質論としては胸を張れませんね。

やすい:なかなか鋭く突いてきますね。主語・述語構造を言語が持ちますと、主語をそのままにして述語がいろいろ入れ替えられますね。事物の認識はどんどん蓄積されることになります。また述語がそのままで主語が入れ替わりますと、主語が述語で類別されることになり、認識は深まっていきます。こうして言語を遣うことで、事物認識は飛躍的に発展して、文明が拓かれるにいたるのです。

命子:では逆に音声信号にとどまっていれば、どのような知の発達に障害になるのですか?

やすい:それは信号の場合に五官が感じ取った状況が生理的に身振りや音声になっているだけですから、それに対して条件反射を引き起こすにとどまるわけです。ですからまだ客観的な事物に対する認識という意味での知は伝えられていないのです。信号の発達は複雑な反応を引き起こしますが、その種類は身体の反応の種類に制約されるので、言語の場合のように、無限に蓄積されるというわけにはいかないのです。

立男:ではどのようにして音声信号から主述構造を持つ言語に発達したのですか。

やすい:それは表象されたものを単なる刺激ではなく、客観的な事物へと捉え返すことができるようになったからです。そのきっかけは互いに人間同士が他者として関係しあい、物を交換し合うになることによってなのです。それで自己意識が発生するのです。しかしこのことを展開すると膨大な量になりますから、ここではこのくらいにしておいてください。

 

  吾が骨を取りて生まれし女(ひと)なれば、吾に帰れやいとしの吾が娘() 

 

命子:それで獣では同伴者というわけにはいかないので、アダムを眠らせて、あばら骨を抜き取り、それで女を作ってアダムのところに連れてきます。「人は言った。『ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉、これをこそ女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」

 女は男から作られたという話の狙いは、男の為に女を作ってあげたという印象をあたえるところにあるのでしょう。バイブルの作者は、女は男の慰め者か、道具ぐらいにしか捉えていませんね、いまいましいけれど。保健の時間に習ったけれど、胎児は最初は女で一定の発達をとげてから、染色体の影響で男に変わるということらしいです。

立男:よく考えますと、アダムとエバは肉親ですよね。これは近親婚タブーを破っています。もっともアダム以外に人はいなかったのだから、自分の骨から造ってもらうしかなかったわけです。ところでエバはアダムの妹ですか、それとも娘ですか?

やすい:それはどちらともい言えません。父母の生殖行為によって生まれたから、父と娘の関係だと言えるのです。でも、あばら骨が生殖細胞的役割を果たしていると見るのなら、アダムはエバの父親だということになります。エバには母親がいないのですが、それは最初の女だから仕方ありませんね。一応直系的な関係であることは確かですね。

命子:科学的に言えばどうでしょう。人は男女同時に進化してきたのですか、それとも男とか女とかが先に人になり、前の遠類と関係して合いの子をつくって少しずつ進化したのですか?

やすい:それは謎でしょうね。

立男:もし父と娘だったらショックですね。近親相姦じゃないですか。

命子:前の遠類と交わらないのなら近親相姦しかありえませんが、まだタブーも存在しないから別に悪いことは何もないので、気にしなくてもいいのよ。

やすい:ただ「我が骨の骨、我が肉の肉」という言葉は気になるね。自分の分身だから、元々一つだったから一つになりたいという欲求ですので、これは父の娘へのコンプレックスです。ということは父親は娘に対して潜在的な性衝動をもっているということになりますね。

命子:それってファーザー・ファッカーっていうのでしょう。これはよくあるらしいですね、アメリカの性犯罪の中にはけっこうファーザー・ファッカーがあるらしいです。

立男:日本では母が再婚した義理の父に犯されることがよくありますね。実際どれくらい実父による性犯罪があるのか疑問ですけど。

やすい:フロイトはエディプス・コンプレックスで有名ですが、その場合は息子の母親に対する潜在的な性衝動です。娘の父親に対する性衝動はエレクトラ・コンプレックスと呼ばれています。それで父親の娘に対する潜在的性衝動をアダム・コンプレックスと名づけてはどうかと私は提唱しているのだけれど、一向にそちらの学会からは反応はありません。エバの方の気持ちには触れていないけれど、エバにもアダムに対して自分のルーツを感じて一体化の衝動があるとしたら、アダム・エバコンプレックスというターム(用語)も成り立つと思います。みなさんも宣伝してください。心理学の人が臨床研究してくれればいいのだけれど。

命子:こういう心理学的な内容でも人間学にはいるのですか?

やすい:もちろんです。人間の心理は人間独特のものですから、人間とは何かは、人間が何を感じ、何を苦悩し、どう行動するかということです。哲学的な人間概念はそれらの総括から生まれてきます。ですから心理学は人間学の中に丸ごと入ります。最近人間学部と言っても受けないので、人間科学部という名称の学部がいろんな大学にできつつありますが、その中身は心理学や教育学、スポーツ科学、生物学そして哲学などの研究者を教授陣にならべているのです。

 

   欲望の蛇がいつしかとぐろ巻き、罪にいざなうアンニュイの午後

 

立男:いよいよ誘惑の蛇の登場ですね。こいつはなかなか狡賢くて、初心なアダムとエバを罪に誘うのでしたね。「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と神に言われていたのに、蛇が「決して死ぬことはない。それを食べると目は開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」と言って、そそのかしたのです。

命子:あれ、おかしいですね。蛇は別に嘘をついているわけではありませんよ。別に食べたから死ぬのではなしに、神に背いたから死ぬことになるのでしょう。木の実そのものに毒性はないのです。それに食べれば善悪を知ることになるというのは正しいのです。

やすい:おそらく蛇は先に善悪を知る木の実を食べていて、自分が死ななかったから、そう教えているのでしょうね。きちんと読むと蛇はそれほど悪者ではありません。

立男:でも蛇はエバを誘惑して、肉体関係までいってたという話聴いたことがありますよ。

やすい:そういう穿った解釈もあるようですね。でも実は蛇の方が初心でエバに誘惑されていた可能性もあるでしょう。蛇はアダムとエバの退屈しのぎにするために、神が創造して二人に与えたかもしれません。とするとアダムとの関係で倦怠期に入っていましたので、エバは新入りの新鮮な蛇に惹かれてしまったかもしれません。

立男:なるほどではどうして蛇はまるでサタンみたいに扱われてきたのですか?

やすい:蛇はサタンだというように解釈する人もいますが、「創世記」にはそのような記述はないのです。ただヘブライの人々の信仰では蛇は敵役なのです。最も原始的な信仰はフェティシズムです。その代表的な信仰が蛇信仰と石信仰なのです。ヘブライ人も昔はフェティシズムだったのです。彼らは石を神にし、石を枕に寝たりして身を守ってもらっていました。同じカナンに蛇信仰の部族がいたりしたのです。その蛇神に自分の子供を生贄にする儀式があったりしたのです。ヘブライ人にしたら随分恐ろしい神だと感じたのです。それで蛇に悪い印象を持ってしまったようです。

命子:私は爬虫類特に蛇には生理的に弱いのですが、そういう気持ち悪いと言う印象から蛇が悪者にされているのではないのですか。

やすい:蛇の方が命子さんを生理的にどう感じるのか、蛇にも伺わないと公平ではありませんね。確かに蛇や蜥蜴などの爬虫類は生理的にゾクゾクするような刺激があります。それに彼らは性的にタフというか一度まぐわったら二・三日離れないですからね。そこからくる欲望の化身のようなイメージがあります。

立男:ということは蛇に誘惑されているというのは象徴的な表現なので、本当はアダムとエバの欲求不満が昂じて、禁断の木の実に向かってしまったということですね。

やすい:その通りですね。欲望の蛇は実は人間たちの心に潜んでいて、とぐろを巻いているわけですが、アンニュイ(倦怠)等からその蛇が次第に実体化し、心から独立して誘惑の蛇となって立ち現われ、罪へと誘うのです。だからこの蛇は欲望の対象化、自己疎外であると言えますね。

命子:そういえば高校倫理でもマルクスの「疎外された労働」四つの疎外習いましたね。

やすい:元々はヘーゲルが意識の自己疎外論を展開していたのです。意識は自己を認識するために自分の考えていることを意識の外に出し、意識に相応しい事物として自己を認識しようとします。ですから事物は意識の外にあって、意識でない物、意識に対立する事物のように見えますが、それは意識の疎外された姿に過ぎないのです。意識は事物からの疎外を止揚するために、事物を意識として述語付け、意識に還元して取り戻します。

 蛇の場合は欲望という意識が、蛇という形で事物の姿で立ち現れたのです。そして意識に外から働きかけ、罪に誘うわけですね。本当はアダムやエバが食べたいから食べるのに、蛇のせいで食べてしまったことにするわけです。

立男:神も正直に「神様から禁じられていたので悪いとは思いながら、あまりに単調で園の果物の味にも飽きてしまっていたので、つい出来心で、自分が抑えきれずにやってしまいました。もう言いつけに背くことのないように努力しますので、お許しください。」と謝られれば寛大な処分で済んだのかもしれませんね。

 

     各々が善悪知らば各々の正義の旗が戦始むや

 

命子:ところで素朴な疑問なのですが、どうして神は善悪の智恵の木の実を禁断にされたのですか。善悪の判断を人は出来なくてもいいのですか。

やすい:大事なことに気づきましたね。ベーコンは『ノヴム・オルガヌム』という本を書いて新しい帰納法を開発し、これでいくとどんどん賢くなって、人間の自然支配はますます大きくなり、大変便利で暮らしやすい世界になると吹聴した。そのさいそれは人間の分を超えているのではないか、人間は禁断の智恵の木の実を食べて、賢くなり過ぎている。これ以上自然の秘密を暴いたら、神の罰が下るに違いないという批判をあびました。それでベーコンは、それは大変な誤解だ。神様は善悪を知る木の実を禁断にされたのであり、自然科学的な智恵は大いに発達させたらいいのだと言ったのです。ベーコンによりますと、神は世界を人間のために造られたのだから、世界を知りそれを人間の為に利用することは、神の創造をたたえ、神の愛にこたえるすばらしいことなんだとしたのです。

立男:それでどうして善悪を知ってはいけないのですか。

やすい:それは何が善で何が悪かは、神がすべて決定して、人間に言い渡すから、それにみんなが従えばいいということなのです。もしそれぞれが善悪を判断しますと、百人いたら百人の善悪の基準ができてしまい、善を貫くために間違った正義を唱える連中を排除しなければならなくなります。それでは平和は保てない。だから自分の頭で善悪は考えないで、すべて神に任せなさいという考え方なのです。
命子:それこそ宗教による恐怖独裁になってしまいます。

立男:それで一神教どうしが自分たちの正義を相対化できない理由が分かるような気がしますね。

 

智恵の実を食べてはじめて隠せしは性器ならずやかなし性(さが)かな

何ゆえに人は隠すや秘めどころ時来たりなば見せむがために

 

命子:「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」男より女の方が好奇心が旺盛で、感じやすく、発展的で、冒険心もあるようですね。女はもうたまらなくなって、木の実を取って食べました。そして男にも食べさせます。死なば諸共というか、独りでは不安でしょうからね。でもこれはエバ主犯説を取ることによって、男性の女性支配を合理化するために書かれたようです。それにしてもすぐに効き目が出て、性器をイチジクの葉で隠したと言うのはおもしろいですね。

立男:考えることが先ず性のことだということがわかりますね。これは悲しい性ですね。
やすい:人間の本性として性的人間ということがよく言われます。つまり人間ほど好色な動物は少ないということです。直立歩行するようになって、それと関連して、女性の発情に伴って男性が発情するのではなくなったので、男性は四六時中発情しやすくなったというわけですね。それに女性性器が前付きになることで性交の態位がバリエーションが多くなります。

命子:この前、NHKの『地球大進化』で人は高等な猿は視力がすごくいいそうですね。それで表情でコミュニケーションをとるようになったといいます。お互いに対面して見詰め合うということで、メンタルな面でも盛り上がります。次第に男性に見られることを意識してというか、男性が見た目の美しさ、セクシーさによって女性を選別することもあり、現在のような女体が作られたということですね。

立男:でも賢くなったらどうして性器を隠すのですか。

やすい:それは二つの理由が考えられます。一つは抑圧です。人間は放任しておくとセックスばかりして仕事になりません。そこで特に刺激的に造られている部分は隠して生産に励まなければならないということです。二つ目は、隠すのは見せるためです。普段隠しているからこそ、いざというときに隠していた葉っぱとかパンツを取ることで、強烈な刺激になり、強い快楽が得られるということなのです。そのことを論じたのが栗本真一郎著『パンツをはいたサル』です。栗本は文化人類学をエンターテイメントにした功労者です。

立男:現在国会議員ですよね。政治にも関心があるですね。

やすい:核兵器廃絶運動はナンセンスだというのです。つまり彼に言わせれば文化はすべて余り物である。それを「余剰」と言います。パンツは脱ぐときの為に穿いておくように、余剰は、それを「蕩尽(パッと使い果たしてしまう)」するためにあるのだというのです。これを「余剰蕩尽論」といいます。ポランニーという人の受け売りらしいのですが、それで文明というのも余剰だというわけですね。だからいづれ戦争とかでぶっ壊すために文明はあるんだ、これは法則的なことだから、さからってもしょうがないよというのです。現代文明は大工業で巨大な機械文明を作り出した。それで当然これをぶっ壊すものがなければならない。そのために核兵器があるのだから、核兵器をなくしたら壊せなくなってしまい、法則に反することになる。だからそんなことは無駄なので、核兵器廃絶運動はナンセンスという議論をぶっていたのです。

命子:そんな馬鹿げた議論をしても大学教授や国会議員になれるのですね。

立男:そりゃあ反対ですよ。そんな馬鹿げた議論をしたから、話題になって本も売れたし、人気も出て、国会議員にもなれたということです。

やすい:でも「パンツは脱ぐためにはく」というのはなかなか鋭い文明批評ですね。余剰蕩尽論も文明の本質を抉る議論であることは認めなければなりません。だからたとえ有害で馬鹿げた議論をしていても、そこにある真実の一面を捉えた議論まで見逃しては、なりません。

 

    この罪は女のせいだと男逃げ、蛇のせいよと女はかわす

 

命子:善悪を知る智恵の木の実はたくさんなっていたのでしょうが、それでも食べたことはすぐに神にばれてしまいます。彼らは賢くなったため、裸で神に見られることが恥ずかしくてたまらなくなり、神の顔を避けて木の間に隠れるからです。それで神に追求されて、先ずアダムはこう答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 「こんな言い訳、しても言い訳?」まさしく責任転嫁です。あくまで自分が欲しかったから食べたのであって、無理やり食べさせられたわけではないのです。それなのに無理やり食べさせられたかのようにいい、悪いのは女だと言いたいかのようです。

立男:女も同じように答えています。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」ですから。やはり「秘書が」というのと同レベルですね。それによく読んでみると蛇はだましていません。蛇は濡れ衣を着せられているのです。もっとも蛇も禁断の木の実と知っていて、食べていたでしょうから、同罪には違いありませんが。

やすい:誰の罪かと言われても、宗教的には神に従うのが善で、神に逆らうのが悪という基準でいきますから、みんな神の命令には逆らっているので有罪です。でも神は最初からお見通しだったわけです。だって人を欲望で動く機械として造っているわけですから、楽園の倦怠の中で欲求不満に陥り、罪に誘惑されるのは必然的なのですから。そういう意味では神のシナリオ通りで、誰が一番悪いかと言われれば、そういうシナリオを書いた神が一番悪い。しかし神は善悪の彼岸にいますから、神を非難しても始まらないということになっています。

命子:アダムやエバを無責任な人間に描くことで、しっかり罰を与え、責任を取らせ、自分の言動に主体性を持ち、責任を取れるようにしようとされているわけですから、これも神の愛ですね。

やすい:ここで神のやり方を汚いとか思って、ひねくれてしまうと駄目になっていきます。たとえ納得いかなくても、神は人間がかわいくてたまらないのですから、そこのところ神を信頼して、進んで処分を受ける心構えでないといけないのです。こうしてはじめて人間は「応答しうる存在」「責任人間」として人格になりうるのです。そういう人間観が汲み取れますね。

 

    這い回り塵を喰らいて生き抜くは、神の裁きや蛇の自由や

 

立男:先ず蛇から判決が下ります。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を喰らう。」ということは蛇は裁きの前にはああいう姿ではなくて、ちゃんとした四足動物だったのですね。それがエバを罪に誘ったとして紐みたいな姿にさせられてしまったというわけです。そして這いずり回って塵を食べなければならないということです。でも蛇さんの意見も聞いてみたいですね。

命子:蛇に言わしめれば、神の裁きだというのは全くのでっち上げで、このスマートで滑らかな姿は、自由自在に森や野原や地面の中まで這い回ろうとして、邪魔な手足を捨ててしまった結果であり、まさしくシンプルの見本にまで進化した最も高等な、最も美しい生物なのだと主張するでしょう。

やすい:『蛇用バイブル』があればね。きっとそうなります。でも生涯這いまわり、塵を食らうという姿はやはり犯罪や失敗、あるいは不運ななかで、立身出世ができず、赤貧の生活にあえいでいる感じがあります。そういう人に対して、あいつは心がけが悪いから,神に見放されている。自業自得であると決め付けるのは残酷ですね。周囲から如何に見られようと自分の生き方を変えず、自分らしい生活をたとえ赤貧でも貫いてゆけば、そこに本当の自由が感じられるかもしれません。

 

バイブルの女性蔑視に泣かされし女の苦しみいかに贖ふ

 

立男:神は女にこういいます。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する。」ようするに妊娠やお産で女が苦しむのは、蛇の誘惑に女が負けた罰だということですね。それにそのために男に守ってもらわなければならないので、その代わり男の支配を受けざるを得ないと言うことでしょう。

命子:この文章はひどい女性差別です。女が男に支配されるのは、自ら犯した罪によってだから、自業自得であるとしています。こういう『創世記』の作り話でも、いったんバイブルの言葉で書かれると、宗教的権威となりますから、不当な支配を受け入れざるを得なくなります。二千年近くの間このバイブルの記述のために、虐げられてきた女性がどれだけ膨大な数になるのかと思うと気が遠くなります。

 

     呪われし土は茨を生え出だす、血と汗流しパンを求めむ


立男:いよいよアダムに判決です。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 これからは肥沃な土地ではなく、やせた土地に行って、そこで麦や綿を栽培しなければならないのです。雑草ばかり生えてきて肝心の麦は成長しません。雑草とりだけでも大変な仕事になります。パンを得るのは大変なことだとやっと分かるのです。働いて働いて働きづめに働いて、死ぬまで働いても、一向に豊かになれずに終わってしまうものなのです。としますと人間は終身徒刑のようなものです。全く救いはないのでしょうか?

やすい:人間本質論でいきますと、労働人間論にあたりますね。人間は働くために生まれてきたことになります。ただ労働を本質と考えますと、苦役としての労働をし続けるのは耐え難いものです。そこで労働は本来人間の想像力の中にある観念を、事物を対象変革して作り出す活動です。それはとてもすばらしい人間の本質的能力の自己実現なのです。労働には苦役と創造の二面がありまして、苦役でしかなければ、この世は地獄です。いかに苦役でもそこに創意工夫を凝らせば、仕事として自己実現の楽しい活動になれるのです。

 また労働は日々繰り返しですから、それを続けていけば、働く主体は吾を忘れ、大いなる生命の生む活動と一つになっていることを感じることができるようになります。これが勤行としての労働です。欧米人はどちらかと言うと創世記的な神の罰としての苦役としての労働観が強くて、そこに創意工夫をこらして自己実現の喜びを見出していくという面が弱かったのです。それに対して日本人は職人気質が強く、仕事の中に生きがいを見出し、仕事を自己実現の最大の機会と捉える積極的な労働観が多かったようです。どうすれば仕事から苦役の面を弱くし、自己実現の面を強く出来るか、みんなで創意工夫を出し合っていくことも大切です。

 

   苦しみは土に返らば終わりなむ、塵故にこそ塵にかえらめ

 

立男:「塵にすぎないお前は塵に返る」という表現は、宗教とは思えませんね、宗教は何らかの意味で死後の生を保証して、死の恐怖を和らげようとするものです。それがこの表現では全く希望がありません。

命子:ひょっとしてこれは塵を土と考えれば、アルケー論ではないのですか。つまり土をアルケーとする自然観があるとします。人間は土と水と火から作られましたね。それがまたアルケーとしての土に戻ります。そう考えますと、土に戻ってもまた、大いなる生命の循環のなかで、生まれ変わってくることになります。

やすい:命子さん、ひょっとしたらですが、当たっているかもしれません。もちろんヘブライズムとヘレニズムを対置させますと、バイブルはヘブライズムであり、復活はありえても、生まれ変わりというのはありえないのです。でも「創世記」はバビロン捕囚後にできたらしいので、ペルシアやギリシアからサンサーラ(輪廻転生)の思想や、ギリシアからアルケー論が入ってきていたかもしれません。実際ユダヤ教の祭祀階級に属するサドカイ人は、生まれ変わりを信仰していたといわれていますから。とはいえ、土に返れば個人としてはそれでおしまいという意識は強かったでしょうね。

立男:人間論とすれば「死への存在」や「有限存在」、あるいは「一回性」などとして語られますね。実存主義の人間論は、「塵だから塵に返る」を出発点においているのでしょう。

やすい:たしかに人生が何度でもやり直せるのなら、今回は失敗だった。また今度頑張ろうでいいのですが、たった一回しかないのなら、一度きりの人生をどのように生きるかは、非常に深刻な問題になります。

命子:おそらくもう一度やり直せると思っている人は、その段階で人生半分降りているようなものかもしれませんね。本当に生きようと思ったら、二度あるなんて思わない方がいいでしょうね。

立男:そりゃあそうです。日本人の大部分はほとんど信仰なんかないのに、人生何度でもあると思っている人が多いような気がします。もっと自分の有限性を深刻に捉え返してみるべきですよね。どうして怠ける方や気晴らしの方に流されてしまうのでしょう。

やすい:「人間は考える葦である」で有名なパスカルは『パンセ』で、気晴らしについてかなり論じています。やはり一回限りだと思うと不安になり、あせってしまいます。死の恐怖にとりつかれたりするのです。そういう状態から抜け出すには、機械的に数を数えたり、キャッチボールをしたり、酒でも飲んで憂さ晴らししたり、何か気をそらせるものを求めるものなのです。でもそれでは本当に生きるということにはならなりません。一回きりの有限な人生をどう生き、何をやり遂げるのか、しっかり自分の人生を納得できるようにしなければならならないのです。

 

    今もなおエデンの園に居残りて帰りを待つや孤独なる蛇

   

命子:いよいよ失楽園ですね。楽園追放と言った方がいいのですか。「『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木から取って食べ、永遠に生きる者になるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出して、彼に自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」

 いつまでも楽園で守られていては、本当の人間には成れないのですね。自分で土を耕し、生活の糧を得て、家庭や社会での責任を果たしていくのでなければならないわけですね。

やすい:幾つになっても親の家に同居して、半分寄生しているようなパラサイトシングルなどは、まだ楽園から抜け出せていないということです。それではきちんと社会で責任を取る主体にはなれないのです。それは晩婚化で親離れが出来ていないことと、少子化で親の方も子離れが難しいことも原因かもしれません。エデンの園を追い出されてはじめて人間になるのですが、この講座では逆にエデンの園に限定して、人間論を論じてみたわけです。ほんの五頁ばかりの中に実に豊かな内容の人間学が内包されていることに驚かされます。

では次回は舞台を古代ギリシアに移しましょう。

立男:先生、一つ質問があります。アダムとエバが出て行って、エデンの園はその後どうなったのですか?

やすい:榊周次という人がいまして、彼が夢の中でと思うのですが、エデンの園を訪れています。あれからずっと蛇君が神様と和解しまして、頼まれて管理しているようでした。ええだれも訪問客はいなかったそうです。それが蛇君は燕尾服の立派な紳士で人間の姿で現れたそうです。こんなに長く生きていると言うことは、おそらく命の木の実も食べちゃってるでしょうね。

 

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