中東問題の宗教的背景

 

                             一神教の起源とユダヤ教


単一神信仰


 中東問題は、ユダヤ人がパレスチナに戻ってきて、イスラエルという国を再建したことによって、そこに住んでいたパレスチナのアラブ人が反発したことが事の発端です。その背景にはユダヤ教、キリスト教、イスラムの長い対立の歴史があるのです。何故この三つの一神教が成立し、対立するようになったのか、ごく基本的な知識を学んでおきましょう。

 

 ユダヤ人の祖先はヘブライ人(ヘブル人)と呼ばれていまして、元々はメソポタミアに住んでいたのです。その族長の名前がアブラハム(アブラム)です。彼らは流浪の末にカナン(パレスチナの古名)にたどり着きました。今から約40003800年ほど前のお話です。そこにはカナン人が住んでいまして、アブラハムの一族は肥沃なカナンの土地に定住していたカナン人を砂漠の強盗団ベドウィン族から守るためにカナンのはずれに住み、半農半牧の生活をしていたといわれています。
 

 アブラハムの一族は、勇敢で、カナン人をよく守ったのですが、数が少ないので、カナン人から土地を借りて寄宿する境遇で、自分たちの土地を持っていなかったのです。彼らは自分たちの土地を獲得するのが部族の悲願だったのです。

 

 カナン人たちは大地女神アシュタロテや雷神バウル、川の神ニールを信仰していました。農業が中心ですから当然ですね。しかしヘブル人たちは自然神信仰をさけていたです。それより部族の族長の守り神を信仰するように強制されていたのです。族長神は族長にだけ姿を現す神です。この神は嫉みの神で、他の神を信仰することを嫉むのです。つまり族長神だけを信仰することによって、部族の団結を図ろうとしたのです。自然神はその土地の人々の神であって、半流浪のヘブル人たちにとってあてにできない存在なのですね。

 

このような族長神信仰を単一神信仰と言います。まだ唯一神信仰ではありません。といいますのは、他の神々が存在しない偽の神というのではなく、自分たちの守り神ではないという捉えかただったのです。
 

アブラハムの信仰

 

アブラハムには七人の子供があるという歌が有りますが、それは間違いです。アブラハムの正妻サラにはなかなか子供ができなかったのです。80歳近くになっても子供ができないので、サラは自分の奴隷女のハガルを差し出してアブラハムの子イシマエルが生まれました。

 

すっかり自分の子をあきらめていたのですが、神様が彼らの家を訪れた時に、子供ができると告げられたので、婆さんにご冗談をといって笑ったら、神様に神のいうことを信じないのかと叱られたのです。

 

それでアブラハムが百歳、サラが90歳でやっと跡取り息子のイサクが誕生しました。そうしますと、サラはイシマエルからイサクが悪影響を受けるといって、ハガルとイシマエルを追い出すようにアブラハムに迫ったのです。そこで可哀想にハガルとイシマエルは追放されてしまいました。これがアラビア人の祖先になったわけです。

 

そこでヘブライ人の祖先になったのがイサクですが、彼は一人っ子になったので、夫婦にとっては自分たちの命よりも大切な存在でした。ところが天使がやってきて、神様が一人っ子のイサクを肉を切り捌き串刺しにして黒焦げになるまで焼いて神に捧げるように命じられたと伝えます。「ギェーそんな残酷な。息子を生贄にするぐらいなら私を身代わりにしてください」と言うところですが、そこはアブラハムは違います。だって神様が望まれる事が、息子イサクにとって不幸な筈はないからです。串刺しで丸焦げにしてくださることはきっとイサクにとってもいいことに違いないと信じて、進んで喜んで捧げようということになったのです。

 

そこでイサクをつれてモリヤの山に登り、そこでイサクに神様のお望みにより、お前を生贄にささげると言い聞かせますと、イサクも納得して、まさに刀を振り下ろそうとしたときに天使が止めたのです。「これは神様が行われた信仰テストです。あなたは見事合格されたので、あなたの子孫にカナンの土地ばかりか全地の支配権を神様はお与えになられます」と天使は告げました。

 

この信仰を「アブラハムの信仰」と呼びます。つまり神の命令ならば、たとえ人倫に反すると思われることでも、無条件に従うべきだという信仰です。これを「イスラーム(絶対帰依)」と言うのです。後にイスラムはこの「アブラハムの信仰」を手本にするということで、自らの宗教をイスラムと呼ぶことにしたのです。
 

イスラエルの謂われ

 

 さてイサクが家督を相続しましたが、彼は双子の子供を授かりました。兄の名は「エサウ」で弟の名は「ヤコブ」でした。エサウは元気がよくて、外で活躍し、あまり家政のことに興味がありませんでした。弟は内向的で家に閉じこもりがちでした。ある日兄が外から腹ペコで帰ってきたとき、弟はあつものを炊いていました。兄はそれを欲しがったので、長子権と引き換えに譲ったのです。ともかく計略を用いて父からも相続権を認めさせます。

 

 ヤコブは兄エサウから逃れていましたが、家に帰る決心をします。もし兄が恨んでいたら戦争は避けられないと覚悟していた夜に、神がヤコブのもとに現れます。そしておもしろいことに神はヤコブにレスリングをしようといって、試合をしましたが、ヤコブの方が強かったのですね。そこで神は、ヤコブを気に入られて「イスラエル」という名を授けられました。これは「神の兵士」という意味でして、これから代々ヤコブの子孫はイスラエルと呼ばれることになります。つまりイスラエルというのは、神のために戦う信仰団体ということです。それが部族・民族の呼び名になり、後に国家の名前になるのです。]

 

 実は、「創世記」を読めば、翌日劣勢で兄の軍勢と戦わなければならないかもしれないので、家来たちに自分には神がついていることを信じ込ませようとして語った作り話だと読み取れます。


出エジプト

 

 ヤコブが家督をついで、十二人の息子たちが生まれます。その子孫がイスラエル十二支族になるのです。その下から二番目の弟がヨセフといい、父ヤコブが特別に可愛がったので、兄たちが嫉妬して、彼をイシマエルの子孫であるアラビア商人に売り飛ばします。そのお陰で、ヨセフはエジプトに連れて行かれ、そこで夢のお告げで未来の大飢饉を予言しまして、それでエジプトが助かったのです。彼は宰相に取り立てられ、飢饉で苦しんでいた家族をエジプトに移住させました。それはBC17001600年頃だったのではないかといわれています。
 

 それでイスラエルはエジプトで宰相の一族として優遇されて栄えます。人口も増えました。エジプトに移住したときは百人程度だったのが、四百年後にエジプトから脱出するときには百万人を超えていたと記されています。もちろんこれは誇張があります。当時のエジプトの総人口は百万人もいなかったようですから。


 ともかくヘブライ人が増えてエジプトで大きな勢力になってきたので、エジプトのファラオ(王)が脅威に感じて、ヘブライ人を重労働に徴発して酷使するようになりました。そしてヘブライ人の長子を生まれたらすぐに殺すように産婆に命じたのです。


 モーセも生まれてすぐに殺されるところだったのですが、殺さずにかごに入れてナイル川に流したのです。それが王宮に流れ着いてエジプト王女に育てられたのです。モーセは成人してから自分がヘブライ人であることを知りました。そこでヘブライ人を鞭っているエジプトの役人を殴ってしまい、彼が死んだので砂漠に逃げ流浪民の中で過ごしていました。ところが80歳になって、神の山ホレブでイスラエルを導いてエジプトの苦しみから脱出させよという神のお告げを直接聞いたのです。


 その際、モーセは神に神の名を尋ねます。その答えが「エヘイエー」です。つまり「在りて在る者」という意味です。つまりヘブライ人を約束どうり、エジプトの苦しみから救出する神は確かに存在するのだという意味を名前にしたわけです。ユダヤ教・キリスト教の神の名は「ヤハウェー」ですが、それはこの名前から来ています。


 モーセはエジプトに戻ってヘブライ人に神の命令でエジプトから脱出する旨を告げます。そしてファラオに出エジプトの許可を要請します。しかしファラオは重要な労働力となっていたヘブライ人の脱出を認めません。そこでエジプト神々とモーセの神が何度か技比べをしたのです。その結果モーセの神はそのたびにエジプトに災いをもたらしましたから、とうとうたまらなくなって、出エジプトを認めるのです。これはBC1250年頃だとされています。

 

 最後の技比べでは「過ぎ越し」と呼ばれヘブライ人の住居には子羊の血で書かれた星マークが書かれます。神はその家を過ぎこされて、エジプト人の住居に侵入してその長子をことごとく殺害したのです。ファラオの長子もこの犠牲になったので、出エジプトを認めざるを得なかったのです。その際ヘブライ人たちはエジプト人たちから財宝を略奪して、砂漠での生活に備えたのです。


モーセの「十戒」


 エジプトから脱出しても、すぐにはカナンに入ることはできません。カナンにはカナン人が生活しているのですから、でもモーセに言わせれば神がついているから大丈夫だと侵入しようといいましたが、とてもみんな自信がないので、モーセはその不信仰の罰で40年間侵攻はできないとしました。結局荒れ野で暮らしていたのです。


 その時にモーセは神の山ホレブ(シナイ山)に登って、神から『十戒』を授かります。これで唯一神信仰が確立したと解釈されているようです。


@ヤハウェ以外を神としてあがめてはならないこと  A偶像を作ってはならないこと

B神の名を徒らに取り上げてはならないこと  C安息日を守ること D父母を敬うこと

E殺人をしてはいけないこと F姦淫をしてはいけないこと G盗んではいけないこと

H偽証してはいけないこと  I隣人の家をむさぼってはいけないこと


特に4番目までは神のことですから違反すれば、即死刑です。石袋に入った石を投げつけられて殺されます。


 エジプト神々がヘブライの神であるヤハウェに敗れた事で、ヤハウェは最強の神と認識され、さらには唯一絶対の神だと見なされるようになったわけです。そして神が人間のために存在するのではなくて、人間が神のために存在するのだとされたのです。つまり神が主人で人間は神の奴隷だということですね。神は宇宙(コスモス)全体を創造された創造主であるとまでされます。ですから神は自然物ではなくなり、自然物を神と見なしたり、自然物で神の像を作ったりしても、神を自然物に貶めるとんでもない冒涜だとし、神の罰で滅ぼされて当然だとしたのです。

 

 このような信仰は、他の民族が自然神信仰や偶像崇拝をしているわけですから、非常に画期的な異質の信仰ですね。この信仰によりますと、全ての異民族は神を冒涜しているから滅ぼされて当然だということになります。ですからヘブライ人は異民族の土地を奪って、異民族を皆殺しにしたとしても、神を冒涜していたから滅ぼされて当然だということになり、侵略が聖化されるわけです。実際に「出エジプト記」ではモーセの後継者であるヨシャの時代にカナンに侵攻してカナン人をほとんど皆殺しにしたことになっています。

 

 ユダヤ人は20世紀にナチスドイツから激しい迫害に遭い、数百万人が毒ガスで収容所で殺害されました。それで彼らはホロコースト(大虐殺)の被害者として同情を買い、イスラエル建国のチャンスを掴んだのですが、三千年前にはホロコーストの加害者であったわけです。ですから当然被害者になったときに、自分たちの過去の加害責任を反省すべきだったはずですね。ところがユダヤ人は正式にそのことに対して加害責任を反省したという話は聞いたことがありません。それがあれば、現代においてパレスチナのアラブ人に対する対応も変わっていたかもしれませんね。


古代ヘブライ王国の盛衰


 カナンに侵攻して、定住したイスラエルは、神が直接統治するという名目で、預言者による宗教支配が続きました。200年程経ってから、民衆は王を欲しがり、預言者がサウルを王にしました。二代目ダビデ王はBC1000年頃イェルサレムを聖都に定めます。神はダビデ王を祝福されて子々孫々までイスラエルの王にすることを約束しました。のちにメシア(救世主)がダビデ王の子孫でなければならないというのは、そこからくるのです。


 三代目のソロモン王の時にシオンの丘にイェルサレム神殿が作られました。それはアブラハムがイサクを生贄にしようとしたモリヤの丘と同じところだという説が有力です。この神殿がイスラエルにとっては信仰の中心にあり、特に神殿が崩壊している時代にはその再建が最大の悲願になります。この頃が「ソロモンの栄華」と呼ばれた古代ヘブライ王国の最盛期です。


 しかし神殿という建物信仰に陥るのは本来の超越神信仰に反しますね。それにソロモン王の時代にはカナン人の信仰であったバウル信仰なども復活して勢力を得てきます。そりゃあ自然の神に祈らないと、農業がうまくいくとは思えませんからね。超越神は宇宙の外にいて姿を現してくれませんから。しかしヤハウェ信仰と他の信仰が混じって不純になりますと、イスラエルの団結が弱まり、ヘブライ王国が分裂したり、異民族に侵略されるようになります。

 

 北部はサマリアを首都にイスラエル王国が、南部はイェルサレムを首都にユダ王国ができ、互いに戦争を繰り返して衰えます。イスラエル王国はBC721年にアッシリアによって滅ぼされます。ユダ王国はアッシリアの属国になり延命しましたが、やがて新バビロニアによって侵攻され、ネブカドネザル王の時、二度に渡ってバビロン建設のために男たちが捕囚として連れて行かれました。これをバビロン捕囚と呼んでいます。BC597年とBC586年のことです。イェルサレム神殿も破壊されました。

 

 BC538年にペルシアが新バビロニアを滅ぼしてやっと解放されました、5060年間も捕囚としての生活を送っていたことになります。ユダヤ人たちはこれを神の与えた試練と捉えたのです。つまり神から与えられたトーラー(律法)を守っていれば神は味方してくれるけれど、神の教えに背いてトーラーを蹂躙していれば、神は敵を強くされて、イスラエルに試練を与えてくださるわけで、そう考えればバビロン捕囚も正しい信仰に立ち返らせてくださるための愛の鞭なのですね。ちなみにイラクのフセイン大統領は自分のことを現代のネブカドネザル王だと言っていたそうです。


 帰還後にイェルサレム神殿が再建され、正しい信仰に立ち返ろうということで『バイブル』が編集されて、ユダヤ教が確立したのです。しかし異民族の支配は、ペルシアからギリシアへ、さらにローマへと変わりますが、BC2世紀からBC1世紀にかけて一時ハスモン朝がユダヤの独立を回復しますが、ローマが強大化しますと、やはりその支配にのみこまれてしまいます。


 そこでいつまで異民族支配から解放されないので、神の直接の支配の回復ではなく、メシア(救世主)による解放を待ち望む信仰が強くなりました。しかしメシアを自称する人が現れても、偽メシアだとされて失敗するので、やはりトーラーを遵守して救済されるとするファリサイ派が強くなってきました。

 

                                               キリスト教

 

イエスの登場

 

 イエス・キリストというのは「イエスはキリスト(救世主)である」という信仰告白であって、キリストは名前ではありません、メシアのギリシア語なのです。彼の誕生によって西暦は紀元前後に分かれるぐらいですから、キリスト教がいかに重要な宗教か分かりますね。イエスは正確にはBC6年に誕生して、ガリラヤ地方のフォッサリオという首都の近くのナザレ村に住み大工をしていました。30歳を過ぎてから、宗教活動に入りガリラヤ湖の周辺で布教していたのです。

 

 彼はファリサイ派のトーラー(律法)至上主義に反発していました。といいますのはトーラーは『バイブル』の中に書かれてあるわけですが、当時は大部分の人民は字が読めませんし、古代ヘブライ語は日常会話では、死語になっていました。それに安息日に人助けができないなど、互いに矛盾したトーラーもありとても厳密には遵守できません。ですから貧しい民衆はとても救われないと絶望していたのです。

 

 イエスは「神への愛と隣人への愛」という「二つの愛」を貫いて生きれば、トーラーを字句通りに遵守できなくても、トーラーを成就したことになるので大丈夫だとしたのです。神は天の父なので、父が二つの愛に生きている人をトーラーを使って地獄に落としたりするはずがないとしたのです。そして「権力者や富者が神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがはるかにたやすい」諭したのです。つまり権力者や富者は権力や富を守ることで精一杯で、もっとも大切な神のことや隣人のことなど愛しているゆとりがないのです。ですから彼らは細かいトーラーは守っていても、肝心の中心のトーラーを実践できていないのです。


 つまり絶望していた民衆こそ救われ、ファリサイ派の説教師たちも含む富者は救われないと逆転したわけで、民衆はイエスをメシアと感じたのです。ただそういう言葉だけでは信仰までいきません、そこでイエスはトーラーによってではなく、メシアの聖霊によって救われることを示すために、悪霊退散のパフォーマンスをしていました。どうしてイエスは自分には聖霊が宿っていると思ったのでしょう。おそらく彼は「二つの愛」に生きることで民衆が救われる道を悟ったのは、自分に聖霊が宿っているからだと信じ込んだからだと思われます。
 

 でも悪霊を聖霊で追放させるところをどうすれば民衆に見せることができるのかということが問題ですね。私の解釈では弟子たちに悪霊を演じさせたのでないかと思います。この成功でイエス教団はブームになりガリラヤ湖畔に拠点をつくりましたが、ファリサイ派は、イエスにとりついているのは聖霊ではなく悪霊の親玉ベルゼブルだと攻撃してきました。それでイエス教団は追い詰められ、とうとうイェルサレム神殿に乗り込んで、起死回生を狙ったのです。


 イエスは「私はイェルサレム神殿に乗り込んでも、きっと捕まえられて十字架にかけられるだろう。しかし、三日目に復活する」と予告しました。イェルサレム神殿にどうして乗り込むことができたのでしょう。それは、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りの前の一週間はメシアを自称するものが現れて神殿で説教することが慣例になっていたようですね。イエスはそれを利用して、神殿権力に挑戦したのです。

 

結果は、イエスはメシアだとは認められなかったのです。イエスはローマ帝国への納税を認めて、ローマへの従順を説きましたから、ユダヤ解放の王にふさわしくないと反発された上に、メシアの資格だとも思われていたたダビデ王の子孫だということも証明できなかったので、偽メシアだと思われたのです。

 

結局民衆に捕まえられて、ユダヤの最高法院に裁判にかけられ、ローマのユダヤ総督の許可を得て十字架刑にかけられて処刑され墓に収められました。でも三日目に予告どおり復活して、弟子たちに聖霊を授けて、天に昇ったことになっています。そして未だに再臨していないのでしたね。

 

どうして死んだはずのイエスが復活したのでしょうか、本当に神が死者の中から復活させたのでしょうか。そう信じている弟子たちは、キリスト教団を立ち上げて、これが全世界に広がり、いまや世界最大の宗教になったのです。私はこの復活の謎を解く鍵は、最後の晩餐にあるとにらんでいます。


キリスト教の発展


 イエスの復活を体験し、イエスから聖霊を授かった弟子たちは、殉教を恐れずに布教しました。その際に、イエスの復活を信じ、イエスをキリスト(救い主)と認めることだけが、神との新しい契約であり、それだけで罪人のまま救われるとしたのです。

 

ユダヤ教のファリサイ派から厳しい弾圧に遭います。後にローマ帝国からも弾圧されたくさん殺されました。でもイエスの「右のほほを打たれれば、左のほほをだしなさい。」「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という言葉を忠実に守って、精神的優位を得、ローマ帝国全体に浸透したのです。

 

その異邦人への布教に特に功績があったのがパウロです。彼は元々、ユダヤ教のファリサイ派の説教師だったのです。キリスト教徒を迫害することに情熱を燃やしていました。でもいくら鞭を打ち、殺しても、彼を憎まないばかりか、彼を愛して彼のために神に祈るキリスト教徒の愛の攻撃を受けて、イエスの偉大さに感動して、回心したのです。パウロは、異邦人への布教にあたって信仰の印である割礼をさせることを止めることで、飛躍的な拡大の成功に導いたのです。彼は「信仰・希望・愛」のキリスト教三元徳を説き、その中でも愛が一番大切だとしました。


 復活し天上に昇ったイエスは、すぐにも再臨されるはずでしたが、いくら待っても再臨されないので、再臨による裁きとイエスの地上支配への待望という信仰は影が薄くなります。それよりイエスが人類の罪を背負って贖罪の十字架につかれ、そのことによって人類の罪をチャラにしてくれたという贖罪信仰が中心になります。イエスをキリスト(救世主)と認めさえすれば神の国に入れるという信仰ですね。

 

そのためにはイエスはただの大工の子ではなく、生まれたときから聖霊を宿した神の子であって、処女マリアから生まれたことにしたのです。そうでないと今まで多くの人が人々のために犠牲になって死んでいますが、それで全人類が救済されるというのはなかったわけですから、神の子なら犠牲になれば全人類を救済するということも考えられるわけです。

 

キリスト教はユダヤ教の『バイブル』を『旧約聖書』としました。そして新しい神との契約という意味の『新約聖書』を編纂しました。それはイエスの言行を記した福音書と弟子たちの布教活動をしるした使徒行伝やパウロたちの手紙からできています。

 

イエスの神格化によって、キリスト教内に対立が起こります。なぜならユダヤ教は唯一神信仰が最大の特徴ですから、イエスが神、あるいは神の子なら唯一神信仰の否定になるからです。やはりあくまでイエスは人間であり、神や神の子ではないと言い張る人もいたわけです。

 

そこで325年にニケア公会議が開かれ、この問題に決着をつけたのです。その時に採用されたのがアタナシウス派の「三位一体説」です。父なる神ヤハウェと子なる神イエスとみそなわす神である聖霊は、それぞれ別の神格でありながら、唯一絶対の神として一体であるという説です。

 

これは神は実質において霊であり、その霊がマリアに宿ってイエスになって人となったので、イエスは神でありながら人であるということで、そのイエスの聖霊が弟子たちに受け継がれたので、信徒の中に宿っている聖霊も神であるということです。つまり実質としては同じ霊だから一体だというように解釈できますね。でもうまく説明できないので、神のことを人間が完全に理解できるわけがないと、三位一体説はキリスト教会でも解明しきれないとされています。

 

ですからユダヤ教徒や後のイスラム教徒からみれば、三位一体信仰は、唯一神信仰を投げ捨てたものだとして、キリスト教を裏切りとみなしています。ともかくキリスト教会は絶対平和主義や非暴力によって広がり、ローマ帝国の国教となったのですが、国教になったとたん、異教徒を弾圧します。信教の自由なんて考えてなかったのです。

 

                       イスラム教


イスラム教の成立

 

イスラムは宗教だけでなく社会や文化を含んでおり、それらは分かちがたく結びついていますので、世界史の教科書では「イスラム教」という表記をやめて「イスラム」としています。イスラムはアブラハムの信仰のように神の与えた命令には無条件に従うという態度です。ところでアブラハムからイサク、ヤコブ、ヨセフと引き継がれ、モーセが導き、ダビデ、ソロモンで絶頂に達したあと衰退し、苦難を重ね、イエスなどメシアを自称するものの現れましたが、十字架にかかって死に、その弟子たちがキリスト教を立てましたがユダヤ教では異端として排除されました。

 

ユダヤ教徒は紀元70年にローマ帝国に解放戦争を挑みましたが敗北し、ディア・スポラ(離散)させられてしまいます。それ以後は祖国をもたない民族として世界に散らばって暮らしていたわけです。ただしユダヤ教という信仰を捨てなかったので、ユダヤ人としてのアイデンティティを守り続けました。彼らは主に商業や金融業に従事していましたので、ヨーロッパや北アフリカ、中近東などで経済的には重要な役割を担っていました。

 

キリスト教文化圏ではイエスを処刑させた張本人として憎しみや差別の対象になり、時折虐殺されたりしたわけです。7世紀にアラビヤ半島でムハンマドが現れイスラム教が成立します。彼はどうもユダヤ教徒の商人との交際があって、『バイブル』の話を聞かされたようです。ですからイスラム教はユダヤ教を批判的に継承したものであって、『バイブル』を聖典として尊重しているわけです。


 しかし『バイブル』は古代ヘブライ語で書かれていますからアラビア人には読めません。また読まなくていいのです。といいますのは、大天使ガブリエルがムハンマド
570年頃〜 632)に現れて、それだけで充分な新しい預言をアラビア語で授けたので、古い預言は読めなくてもいいことになったのです。

 

つまりユダヤ教徒は神から授かったトーラー(律法)を守らなかったので、神から見放されて、バレスチナから追い出されてしまったわけです。またキリスト教徒は神が遣わした預言者イエスを神格化してしまい、唯一神信仰を裏切ったわけです。それで、アブラハムの子イシマエルの子孫であるアラビア人のムハンマドにアラビア語で最後の預言を授けたというわけです。


 ですからイスラムの神アッラーとヘブライ人の神ヤハウェは同じ神なのです。呼び名が違うだけですね。だからアッラーとヤハウェが対立しているわけではないのです。イスラム教の教義は六信五行にまとめられています。

 

六信とは「神・天使・経典・預言者・来世・天命」を信じることです。神はもちろん超越的で唯一絶対の万物の創造主アッラーです。

 

「天使」は神が超越的で姿を現せないので,神の言葉を預言者に伝える役目を持っています。天使を信じないと一貫性がないのです。


 天使の中には大天使ガブリエルのような立派な天使もいますが、イブリースのような堕落した天使もいます。神は天使たちに最初の人間アダムを跪いて崇拝するように命令しますが、イブリースは天使は火からできており、人間は土からできているので、天使の方が尊いと拒否しました。そこで動物たちに名づけるように天使に言いましたが、天使は名づけられず、アダムは名づけたので、人間のほうが偉いということですね。そこでイブリースを罰しようとしますが、イブリースはこの世の終わりまでに人間たちを積に誘惑してゲヘナ(地獄谷)の血の川を人間で一杯にするからそれまで猶予してくださいと神に訴えたのです。神はイブリースに誘惑されるように人間はパラダイスに入れる気はないから大いに頑張るにイブリースを励ましたのです。

 

経典には『旧約聖書』『新約聖書』『クルアーン(コーラン)』などが含まれます。ただし暗誦して遵守しなければならないのは『クルアーン』です。それはアラビア語だけが聖典で翻訳されたものは参考書に過ぎません。それでイスラム教が布教された地域にはアラビア語が学ばれますので、アラビアとの交易が盛んになり、インド・中国・北アフリカなどとの交易が盛んになりました。


 預言者はバイブルのアダム、ノア、モーセ、イエスなどが挙げられますが、ムハンマドが最後の預言者だとされ、ムハンマドの預言だけが今では有効なのです。


 来世というのは、現世はいずれ終末が来るということです。終末がきますと、死者は眠りから覚めて全員生き返ります。そして神に審判を下されるのです。世界はパラダイスとゲヘナに分かれていて、現世で罪を犯していた者は未来永劫ゲヘナの煮えたぎる血の川で苦しむということですね。そして神に祝福された者はパラダイスが待っています。そこでは素晴らしいご馳走と、美しい女性が三人つくことになっています。

 

天命というのは、だれがパラダイスでだれがゲヘナかは、予め決まっているという宿命論です。これはキリスト教ではルターやカルヴァンの予定説と似ています。

 

五行は、六信にもとづく修行ですね。五行とはシャハーダ(信仰告白)・サラート(礼拝)・サウム(断食)・ザカート(喜捨)・ハッジ(巡礼)を行うことです。


 まずシャハーダは声を出して,「ラ・イラーハ・イッラ・アッラー,ムハンマド・ラスール・アッラー(アッラーの他に神無し,マホメットはアッラーの使徒である。)」と誓うのです。これを一度でも口にすれば撤回は許されません。背教者は死を以て罰せられるのです。サラートは「アッラー・アクバル(アッラーは至大なり)」を唱えながら,立礼・坐礼・跪礼を数回続けるラカーを毎日五回,聖地メッカに向かって行うのでしたね。

 

アラビア暦の第九月は深夜しか食事が許されません。またその月は日没までは沐浴・薫香・娯楽を禁じられているのです。これがサウムです。次にザガートは救貧税です。神の恩寵によって得た富は,元々神のものであって神の為に有意義に使うべきです。そこで貧しい人々を救うために国家に捧げる救貧税が制定されたのです。これに対して自由意思による慈善行為はサダカ(布施)と呼ばれています。


 ムスリムたちは一生に一度は聖地メッカに巡礼することが最大の望みなのです。子供達が大きくなって自立しますと,死の危険も省みず,メッカへのハッジを企てます。


 問題のジハド(聖戦)ですが、イスラムが好戦的だとみなされるので、現在では五行に含まれていません。イスラム原理主義の指導者には、自爆テロを行わせるためにジハドを含めている者もいるわけです。イスラムやイスラム共同体のための戦いによって戦死しますと、たとえどんな凶悪な罪を犯していても、すべてチャラにされ、パラダイスに入れるというものです。

 

しかしいつ終末になるか分からないでは、あまりジハドで死ぬ気になれませんね。そこはよくできたもので、死んでから何千年かかっても、本人の意識では三日ほど眠っていたという感覚で終末の目覚めを迎えるということです。ですからジハドで死んでも三日後にはパラダイスに入れるので、損はないということにしています。

十字軍

 

 1096年から13世紀後半にかけての7回にわたる西欧諸国のキリスト教徒による聖地パレスチナ回復のためのトルコ遠征を指します。何度かイェルサレムを占領しますが、結局イスラム勢力に奪還されます。

 

 もともとイスラムはユダヤ教やキリスト教に対しては寛容で、税金さえ納めればイスラム文化圏にユダヤ教徒やキリスト教徒が住むことを認めていました。ただトルコ帝国下ではイェルサレムへの巡礼が治安の関係で難しくなり、聖地を取り戻そうというキリスト教徒による十字軍がローマ教皇の提唱で行われたのです。

 

 イェルサレムのユダヤ神殿は紀元70年のローマ帝国に対するユダヤ解放戦争の際に破壊されたままでした。ただしイスラム勢力はそのユダヤ神殿の跡地に岩のドームというイスラムのドームを建てています。イェルサレムはムハンマドが昇天する際に、魂がイェルサレム神殿跡に行って、そこから昇天したといわれています。そしてイスラムの原点であるモリヤの山が神殿跡だったものですから、そこに岩のドームを建てたのです。十字軍は岩のドームも占領し、そこに立てこもったイスラム教徒(ムスリム)を皆殺しにしています。

 

 そしてイエスの処刑されたゴルゴダの丘や埋葬された墓地などの聖地を包み込む聖墳墓教会という巨大な教会を建設しました。

 

 現在ユダヤ教徒がイスラエルを建国してイェルサレムを支配しているわけですが、イスラムの岩のドームがあるので、イェルサレム神殿を未だに再建できていないわけです。それでユダヤ教徒はイェルサレム神殿の跡地の瓦礫の壁を「嘆きの壁」と名づけて最大の聖地にし、いつか神殿を再建することを誓っているのです。

 

シーア派とスンニ派


 イスラム教は多数派のスンナ派と少数派のシーアに分かれています。シーア派は、イスラム教の開祖ムハンマドの従兄弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。これに対してスンナ派は、アブー=バクルウマルウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。

 

 イランではシーア派が多く、シーア派によるイラン革命の波及を恐れたスンナ派の大部分のイスラム諸国はイラクのフセイン大統領を援助してイラン革命をつぶそうとしていたのです。その結果イラン・イラク戦争となり、アメリカ、ソ連やスンナ派諸国からの援助を受けたイラクは軍事大国に成長しました。ところがイラクは湾岸戦争に敗れましたが、なんとか政権を維持しました。ところが9.11同時多発テロのあと大量破壊兵器の保持を疑われアメリカを中心にする諸国に侵攻されました。

 

 このイラク戦争でスンナ派政権は崩壊しました。それでイランもイラクもシーア派政権になってしまったのです。イランとイラクを対立させようとしてきたアメリカの思惑はくずれ、核武装しつつあるイランの脅威が大きくなっています。アメリカはイランのシーア政権と対決してくれていたフセイン政権を倒してしまったので、かえって追い詰められているのです。

 

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