仰天仮説 イエスは食べられて復活した!?
やすい ゆたか著『キリスト教とカニバリズム』の世界

キリスト教徒は今でもイエスを食べている
 キリスト教会の礼拝の中心儀式は、聖餐式(ミサ)である。
 「聖餐」とは聖なるものつまり神を食べることである。
 キリスト教会では「主の聖餐」と呼び、主イエス・キリストを食べているのである。
 では、どのようにして現在は天上にいる筈のイエスを食べるのか?それは司祭によって、聖化されたパンは、パンのままでイエスの肉となり、赤ワインは、赤ワインのままでイエスの血となるので、信徒たちはそれを食べることで、イエスの体や血を取り込み、イエスの体である教会と合体することになるのである。
 聖餐のパンやワインはイエスの肉や血の単なるシンボルではない。少なくともカトリック(正統派)教会では神父に言葉でイエスの肉や血に変わるというのが、正式の教義である。
 二千年間ミサという形でイエスを食べ続けてきたのは何故か?
 それは実は精神分析すれば、イエスの肉を食べ、血を飲んだという原行為をしたからではないか?そしてパンとワイン聖餐は、その行為を正当な行為であったと無意識に主張する合理化にあたるのではないか?

聖餐の起源は「最後の晩餐」か?
 イエスは処刑される前の晩餐で次のように語った。・「マタイによる福音書」第26章
 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』( わたしの記念としてこのように行いなさい。・・「ルカによる福音書」) また杯を取り、感謝の祈り唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは罪が許されるように、多くの人の為に流されるわたしの血、契約の血である。』」・
 「わたしの記念としてこのように行いなさい。」という言葉を護って、二千年間キリスト教徒達は、パンとワインの聖餐を続けていることになっている。しかしこの「最後の晩餐」で、本当にパンとワインはイエスの肉となり血となっているのか?あるいはイエスは本気でパンがパンのままでイエスの肉となり、ワインがワインのままでイエスの血となると考えていたのか?

パンとワインの聖餐は物神信仰(フェティシズム)である。
 イエスは神の子であるから、イエスがパンをイエスの肉だと言えば、パンはイエスの肉になるというのは、物を神にするフェティシズム(物神信仰)以外の何ものでもない。フェティシズムや偶像崇拝は最も神を冒涜するものとして、ユダヤ教・キリスト教では斥けられている。だから自らフェティシズムを排斥しておきながら、パンとワインのフェティシズムを信徒に強制するとは考えられない。
 パンとワインの聖餐はイエスを思い出し、イエスとの合一を象徴的に表すものとして行われるべきで、パンとワインが聖化されてイエスの肉と血となると考えるのは、とんでもない冒涜なのである。だからイエスはパンをイエスの肉、赤ワインをイエスの血と見立てているだけである。
 ではイエスはどういう目的で「最後の晩餐」を行ったのか?

「最後の晩餐」は予行演習である。
 イエスは捕らえられ、処刑されることを予感していた。そしてその時が、刻一刻と迫っていることを感じていた。そこで明日にでも処刑されそうなイエスが「パンが私の体であり、赤ワインが私の血である」と語って、それらを食べさせる時、その意味するところは、小学生でも分かるのではないか、イエスは「私が死んだら、このパンのように私の肉を食べ、この赤ワインを飲むように私の血を飲みなさい」と指令しているのである。
 しかし人の肉を食べたり、血を飲んだりすることは、ユダヤ教では最大のタブーであり、イエスがどうしてとんでもないタブー破りを、弟子たちに強要しようとしたのか?イエスには聖霊が宿っているとイエス自身が信仰しており、それを弟子に引き継がせるためには、イエスの肉と血の聖餐が必要だったからである。このイエスに対する聖餐の意義は「ヨハネによる福音書」に説かれている。

「わたしは命のパンである。あなたたちの祖先は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかしこれは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(第六章46節から)
 これはカファルナウムの会堂で語った言葉であるが、この時にはイエスの死は差し迫っていなかった。だからイエスの肉や血を食べるわけにいかないので、これは比喩的な表現なのである。つまりイエスを信じる者は永遠の命を得るという意味なのである。そこでイエスは「命のパン」だということになり、イエスを食べるということはイエスの言葉を信じるという意味に他ならない。イエスの言葉こそが「肉」なのだ。このイエスの比喩を理解できなかった人々は「どうしてこの人は自分の肉を食べさせる事が出来るのか」と激しい議論になった。そこでイエスは、比喩であることを分かりやすく説明すればよかったのに、また同じような説明を繰り返した。

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもいつもその内にいる」
(53節)   
 イエスの説明は、比喩であるという印象を薄めている。比喩にしてもカニバリズム(人の肉を食べたり、人の血を飲むこと)を肯定的に使っている。カニバリズムのタブーの強烈なユダヤ社会では、これはひどい話だということになる。そこでイエスの弟子や信徒たちの大部分はイエスに幻滅して、イエスから離れていったのである。だからイエスの許に残った弟子たちはなんらかの意味で聖餐を行う意志を持っていた聖餐派なのである。
 ところで「ヨハネによる福音書」では聖餐は比喩的だったが、それはイエスの死に際しての本当の聖餐を否定してはいないのである。むしろ比喩の形でイエスに対する
 聖餐を肯定的に表現することで、聖餐の意義を強調し、聖餐があったことを暗示しているのである。聖餐の事実は「福音書」には書けなかった。それは殺人と共に最もおぞましい犯罪とされていたからである。人の肉を食べたり、血を飲んだりする者は、人間ではなく、鬼か悪魔のごとく思われたので、弟子たちがイエスを食べたことが露見するとキリスト教徒たちは皆殺しにされていた可能性が大きいのだ。
 それにしてもどうしてカニバリズムタブーの強烈なユダヤ社会で、教祖の聖餐を教義にするような宗教が生まれたのか?

聖霊は食べられることで移転する。
 イエスは、イエス自身が聖霊を宿していることを信じていた。そして聖霊の力で悪霊を退散させていたのである。この聖霊をイエスの死に際して、弟子たちに伝えなければならないと考えていた。その方法が聖霊を宿した肉と血を弟子たちに食べさせることなのである。イエスの肉は消化されて、排便されるが、そこに宿っていた聖霊は弟子たちの心に住み着くことになると信仰されていたのである。何故なら聖霊も悪霊同様に「つきもの」であり、人から人に移転可能なのである。シャーマンの活躍している社会では、シャーマンは、自分の霊力が衰えると、後継者に自らを食べさせる。
 そうすることで、霊を乗り移らせて、後継者として蘇えるのである。こうして霊力をリフレッシュさせるのだ。
 イエスは荒れ野の修行時代にアジアからのシャーマンに出会って、カルチャー・ショックを受けたと想像される。イエス誕生の際に、異常に明るい星に導かれて東方から三人の博士がベツレヘムを訪れる話があるが、実際は、イエスは宗教家としての誕生に際して、アジアのシャーマンに大きな刺激を受けたことを暗示しているのかもしれない。

神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。( 「マタイによる福音書」第三章16)
 聖霊もつきものであることは、イエスがバプテスマのヨハネに洗礼を受けた際に、聖霊が鳩になって天から降りてくるという表現に示されている。聖霊は外から体内に入るつきものなのである。悪霊もとりついて病気を引き起こすつきものである。そして聖霊は、悪霊を見つけ、とりつかれた人から追い出す力を持っている。イエスは、悪霊退散を行う魂の医者として高い評判を得ていたのである。
 それにしてもどうしてイエスは自分の中に聖霊が宿っていると信じることができたのだろうか?

トーラー(律法)を取るか、メシア(救世主)を取るか。
 ユダヤ教はトーラー(律法)というバイブルに記された神から与えられた掟を忠実に守ることで、イエラエルの栄光がもたらされるという信仰をもっている。そこから個人生活においてもトーラーをしっかり遵守すれば、その人は神の国に入れてもらえると考えるようになった。その為にはバイブルが読めなければならない。民衆の大部分は文盲だったので、説教師がシナゴーグ(会堂)で読み聞かせることになる。ところがトーラーは膨大で、事細かに生活について規定しているので、ゆとりのない貧しい人々はとても守れない。しかも相矛盾した規定もあるのだ。
 ファリサイ(説教師)人たちは生活にゆとりもあり、表面的にはトーラーに忠実なように取り繕うことができたが、大部分の民衆にはとても無理だ。そこでアム・ハーレツ(地の群れ)と呼ばれた一般民衆は、自分たちは罪に汚れていると考え、救済の望みを持てなかった。
 イエスは、「神への愛と隣人への愛」に生きることで全てのトーラーは成就されると説いた。つまり個々のトーラーを字句通り遵守できなくても、この二つの愛を貫いて生きているのなら、それがトーラーの精神に、結局神の御心に叶った生き方であると説いたのだ。逆にトーラーを字句通り守っているように見えても、それを自分だけは救われたいという自分の利己的な動機の為に守っていれば、そういうのは偽善であり、神を欺いているから、最大の神に対する冒涜であるとした。例えば「隣人愛」のトーラーを守ろうと他人に親切にしても、それが自分の救済の手段でしかないなら本当に「隣人愛」があるとは言えないのである。
 これまでユダヤ人たちはトーラーに呪われていたのである。トーラーを生きる為ではなく、罪に落ちるため、破滅のために使ってきたのだ。イエスは遂に「トーラーの呪い」から民衆を解放したのである。
 イエスは「山上の垂訓」で、「貧しい人達は幸いである。神の国はあなたたちのものである。」とか「金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がもっとたやすい」と説いた。これはアム・ハーレツの方がファリサイ人より神の御心に叶っているということである。このような発想の転換で、イエスは民衆を救う論理を発見したのだが、この発想はどうして生まれたか?
 それは天から鳩が舞い降りるようにイエスの中に入ったのである。つまり聖霊が宿って、神の御心が分かったのである。という風にしかイエスはこの事態を解釈できなかった。自分の力で民衆を救えるような発想の転換ができるとは思えない。何か巨大な力が地の底から、天上から働いて、自分の中にその力が宿ったというのが実感だったのである。
 その時、イエスはつきものとしての聖霊を信じたのである。この聖霊によって民衆の中から罪の意識と共にとりついている悪霊を追い出すことができると考えた。こうしてメシアの自覚を得たイエスは、自らに宿った聖霊によって民衆を救えると確信したのである。つまり人々はメシアの聖霊の力を信じ、それに帰依することによって、救われるのであって、トーラーの表面的な遵守によっては救われないのである。
 イエスが言いたいことは結局「トーラーを取るか、メシアを取るか」に帰着するとトーラー秩序によって生きてきた権力者たちはイエスを警戒し、イエスをユダヤ社会の敵として排除しようとしたのである。

悪霊退散のパフォーマンスー悪霊役者活躍
 イエスがサンヘドリン(最高法院)の裁判で珍しくも死刑を宣告され、十字架に架けられて処刑されたということは、イエス事件というのはユダヤ社会にとって、かなりの重大問題だったことを意味する。イエスの教団はエルサレムから北方約百キロメートルの豊かな田園地帯ガリラヤ地方では、既に勢いは衰退していた。しかしエルサレムに乗り込んで大々的なパフォーマンスで、喝采を拍すれば、今度は一時的にもせよ、聖都の人心を掌握することにもなるかもしれない。
 イエスは三年間ガリラヤで布教したが、山上の垂訓のような民衆の魂にしみるスピーチだけで人気を博したのではない。むしろ魂の医者として、悪霊を追い払い、悪霊のせいで苦しめられていた病苦から民衆を救済することで、メシア(救世主)の証をしていたのである。
 イエスは自らに宿る聖霊の力で悪霊を退散できると信じ込んでいたが、イエスがいかに悪霊を退散させたといっても、悪霊は目に見えないから、民衆は容易には信じない。信じなければ、病気も直った気がしないので効果も少ない。そこでイエスはガリラヤの漁師たちを弟子にして、悪霊役者に仕立てあげ、悪霊芝居をうって、聖霊の力を目に見える形に示したのである。
 イエスの言行を示したマルコ・ルカ・マタイ等の福音書では悪霊が目に見える形で登場し、イエスが聖霊の力で退散させる場面がふんだんに登場する。しかし悪霊は目に見えない筈なので、こうした場面は全くの粉飾であろうという解釈が、これまでなされてきた。しかし民衆の中で爆発的な支持を得たのは、民衆が悪霊を退散させるのを実際に目撃したからなのである。
 カファルナウムの会堂で初めて悪霊退散を成功させる前に、ガリラヤの漁師たちの弟子入りが行われていたのだ。福音書に記録する際には、悪霊役を弟子たちが演じたことは秘密だったので、あたかも実際に悪霊が民衆の目前で退散させられたかの記事になったのである。これは決して詐欺的な行為のつもりはない、民衆に悪霊払いを示すことで、聖霊に帰依させようとするものなのである。聖霊も悪霊も実在するものとして、イエスやその弟子たちは信仰していたからこそ、行ったのである。
 民衆の支持が集まり、メシアと認められるとユダヤの王になってほしいという期待が強くなるので、ユダヤ王を名乗りたいガリラヤ領主ヘロデ王の一派や、エルサレム神殿の祭祀を司るサドカイ派や富裕な説教師ファリサイ派の人々から敵意を抱かれるようになり、暗殺の機会を窺われるようになる。

イエス教団衰退
 悪霊役者を仕立ててのイエス教団のパフォーマンスは、確かに爆発的なブームを巻き起こした。しかしこのやり方は長続きできない。病は気からという、だから、罪に落ちているという絶望感からくる心因性の病気は直っても、それ以外のものは気休め程度で、一時的に癒された気持ちになるだけである。やがて病気が重くなるとイエスへの帰依の気持ちは薄れてしまう。
 イエスの許に弟子入りをして、共同生活をしていた人達も百人を超えていたが、民衆の支持が退いてしまうと、教団は多くの出家弟子を抱えることができなくなる。

「人の子の聖餐」説教と教団からの大離反
 ブームが去り、教団の衰退が明らかになると、出家弟子を厳選しなければならなくなり、本当に命懸けでイエスに帰依するものだけ残そうと「人の子の聖餐」つまり「命のパン」の説教を行う。ここでカニバリズムタブーに挑戦し、カニバリズムを肯定的な文脈で説くことで、大部分の弟子たちを離反させるのである。
 本当にイエスの聖霊を信じているのなら、イエスの肉を食べ、血を啜ることは聖霊に守られ、永遠の命と一体化することである。他人の血と混じることで、審判の日に復活できなくなるという心配はないのだ。しかしそこまでできる弟子は少数だった。
 聖餐を約束させられた弟子たちは、命懸けの信仰をせざるを得なくなった。そしてガリラヤでの衰退をエルサレムで取り戻そうと、過ぎ越しの祭りの時期に教団あげてエルサレムに乗り込むことになるのである。

メシアを待望する聖都の民衆に歓迎される
 エルサレムに乗り込んだのは安息日の翌日、安息日は土曜日なので、週の初めの日曜日である。次の日曜日にはイエスは処刑の日から三日目で復活を遂げているのである。
 前もってイエス教団はエルサレムでメシアを歓迎する運動を組織しておいたのである。預言者になりすまして、次の日曜にはメシアがくるので歓迎しようと触れ回るのである。民衆はユダヤを解放するメシア王の登場を久しく待望していたから、この種の運動には何度幻滅させられても、懲りるということがない。ラザロを死の四日後に生き返らせたという評判が立てられていたことも、イエスに対する期待を高めた。
 あるいはメシア歓迎の運動は権力側が仕組んだ罠かもしれない。イエスを処刑する為にメシア歓迎の運動を組織しておけば、ガリラヤで衰退しているイエスは、絶好の巻き返しの好機とばかり聖都に乗り込んでくる、そうすればトーラーを蹂躪してきた罪で捕まえて処刑することができると踏んだのかもしれない。
 双方の意図が合致して「同床異夢」のような状態で、イエスはメシアとして聖都の民衆から歓迎される。イエスたちは敵の罠があることを勘づいていたが、だからといって衰退から脱却する為には、敵の罠に乗るしかなかったのである。イエスたちは聖霊の力を信じていたから、事態は権力者の意図を超えて展開すると期待していたのである。

イエスは神殿で商人達を追い払い、説教する。
 メシアとして歓迎されたイエスは神殿に乗り込み、神殿で商売をしている商人たちを神の家を汚す者として追い払う。祭祀階級のサドカイ人は、神殿で権威を振りかざすイエスを警戒する。しかしメシアの話を聞こうと神殿に詰めかけた民衆に説教をする。そこで律法学者やファリサイ派の人々がイエスに質問をして、言質をとろうとすると、その意図を見抜いてやり込めるので、余計に敵意をかきたてることになる。
 サドカイ派、ファリサイ派を非難するだけでなく、終末の時が迫っていることを告げ、その時には神殿も崩壊すると神殿を冒涜したと受け止められる予言をする。さらにイエスは、「カエサル(皇帝)のものはカエサルに返せ」とローマへの納税を認めて、ローマ皇帝の支配を受け入れるような発言をしたので、ユダヤのメシア王を待ち望んでいた民衆の期待を裏切ることになる。
 それにエルサレムに入ってから、イエスは神殿で悪霊払いの奇跡を行っている。しかし子供たちまでが「ダビデの子にホサナ」とほめたたえる一方で、かたくなに信じない人達もいたのである。それはある程度、手筈を整えてないと悪霊払いのパフォーマンスは難しいということでもある。それに敵対的な人々の監視の許ではなかなか難しいことであったのだ。エルサレムの民衆は、イエスに悪霊払いの奇跡を期待していたし、メシア王としてユダヤ解放の戦いを率いることを求めていた。その両方の期待を裏切られたとき、イエスはエルサレムの民衆の誇りである神殿を冒涜し、ユダヤ社会の根幹であるトーラーを蔑ろにする存在でしかない。つまり偽メシアにしか見えなかったのである。

ユダがイエスを裏切った理由
 イエスはエルサレムに向かう途中にも、エルサレムに入ってからも、メシアは捕らえられ、処刑され、三日目に復活すると予言している。いかにもイエスを神格化するための福音書の作者による粉飾とも受け取れるが、イエスは敵の本拠に乗り込んで簡単に成功するとは思っていなかった。当然失敗し、処刑された時のことまで考え、聖餐による復活まで見通していたのである。その場合復活とは、聖餐によってイエスに宿っていた聖霊が弟子たちの中に入って、再び活動し始めるという意味なのである。
 だからイエスの肉体が三日目に蘇生するという意味ではなかったのだ。この三日目の蘇生の予言が刷り込まれていたので、三日目にイエスの復活を体験する事が容易になったといえるだろう。
 そしてイエスはサドカイ派祭司やファリサイ派説教師たちと対決するばかりで、聖都で宗教的指導者として幅広い支持を得ようとはしなかった。その上、ほんの数日という短期間の限界の中で、民衆の支持を得ようとする試みも理解されなかった。イエスを宗教指導者として尊敬していたユダは、聖都でのイエスの硬直した態度にかなりの幻滅を覚えたのかもしれない。
 その上、ぜいたくな香油をイエスに注いだ女弟子を他の弟子が咎めた時、イエスはその女をかばった。イエスは大食漢だったという話もある。貧しい民衆の味方を標榜しているわりには、放漫なところがあるイエスをユダには尊敬できなくなったのだ。
 特にユダは財政面を担当していたらしいので、なおさらである。ユダは教団の財布を預かっていながら、そこからお金を盗んでいたと書かれているが、このような嫌疑をかけられていたことが、直接イエスを裏切る動機になったとも考えられる。
 ユダはイエスを宗教指導者として失脚させようとして裏切ったのであり、まさかサンヘドリンで死刑判決が下されるとは思っていなかった。だから良心の呵責から首を括って自殺したのである。イエスが処刑されるという予測は弟子たちはあまりしていなかったようで、イエスの危機意識を大袈裟だと思っていた節が窺える。

イエスの罪状は何か?
 サンヘドリン(最高法院)でイエスが問われた罪は果して何か?イエスはトーラー(律法)の遵守による栄光よりも、メシアによる救済を説いたので、トーラー中心主義のファリサイ派の怒りを買ったわけだが、具体的に安息日に救済の業を行ったからといって、容易に罪に問えるわけではない。例えば人が井戸に落ちているのを見て、安息日だから助けないなんてことはあり得ないからである。イエスの様々な問題発言も取り上げられ、「神殿を破壊して、三日で建てる」と発言した事も問題になった。
 しかし、人によって証言に食い違いがあるので、罪に問えなかった。結局、大司祭が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いに「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(「マルコによる福音書」)と答えたのが決定的だった。
 この発言が神を冒涜しているのは、イエスが「神の子」でないとみなされているからであり、本当に神の子ならば、冒涜でもなんでもないわけである。しかしそれならその場で神の子の証を示せる筈である。だからサンヘドリンが死刑にするのは、当然であり、その場で証が立てられないのなら、死よりの復活によって、イエスは神の子の証を立てる以外にないのである。
 ただしこれはユダヤ教の内部での罪であるから、サンヘドリンが死刑を執行する権利がないのなら、ローマ総督にローマに対する罪で裁かせなければならない。そこでピラト総督には、「ユダヤの王を自称している」罪で裁くように要請したのである。
 しかしイエスは政治的な意味での王には関心はない。そこでちょうどエルサレムに滞在していたガリラヤの領主であったヘロデのもとにイエスを送って尋問させた。しかしイエスは何も答えなかったので、ピラトの元に送り返された。ピラトはイエスを罪に問う理由を見いだせないまま、過越祭で恩赦で釈放しようと考えた。そこで暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバとイエスのどちらかを釈放してほしいか民衆に尋ねたのである。もちろんイエスの釈放を求めると考えていたからだ。ところが民衆はイエスを偽メシアと思っていたので、イエスを死刑にするよう求め、バラバの釈放を求めたのである。

イエスは本当に十字架で死んだのか?
 イエスが復活した理由について、神が復活させたというのが、キリスト教会の公式見解であるが、とすれば未だに再臨していないのは、理屈に合わない。神の意図ははかり難いとすればそれまでだが、納得できない不信心者も多い。あるいは復活はなくてもイエスの偉大さには変わりがないという考えもある。
 そこで十字架で死んだというのは、薬で仮死状態にされていたからで、その結果墓の中で意識を回復したというのである。ラザロの復活がその前にあったので、同じトリックが使われていたと考えられるから、薬での仮死状態が一番考えられるわけである。
 最も最新のトリックでは、イエスが二十代にインドでヨガの修行していて、自ら仮死状態になって十字架につけられたり、槍で刺されても死ななかったという解釈もある。もちろん三日目の墓が暴かれ、死体が消失していたということが事実であるとすれば、何らかの説明が必要であり、そういう説明も確かに一理ある。ところがこういう説明だと、イエスが復活しても、その後ほとんど表面的には活躍できなくなってしまっているところが、不自然である。しかもそういう説は単なる推理に過ぎず、後のキリスト教の教義の核心に結びついていないから説得力に欠ける。

イエスの復活は弟子の心の中に生き続けることか?
 遠藤周作は、奇跡なくても愛の同伴者としてのイエスの思い出が、イエスに出会った人々に決して消すことのできない痕跡を心に残したということを、「復活」として意義づけている。こういう精神的な意味で「復活」を説明したのが、初期キリスト教徒の中のグノーシス派である。彼らは肉体的な復活を迷信的だと考えたので、実際にイエスの肉体的復活を体験したと言っていた使徒たちの怒りをかって、教団から追放された。

イエスの死体が聖餐されたのは過越祭?
 もしイエスの死体が聖餐されたとしたら、それは何時か?マルコ・ルカ・マタイの福音書では、最後の晩餐は過越祭に入っていた。「ヨハネによる福音書」では、処刑された日が過越祭に出す犠牲の仔羊をほふる日にあたる。当時のユダヤの暦では、その日の夕方から日付が変わって、過越祭に入り、その晩に犠牲の仔羊を食べるのである。「ヨハネの黙示録」ではイエスは「ほふられた仔羊」と呼ばれているから、「ヨハネによる福音書」ではぴったりである。作者がその方がぴったりするから、日付を変えたかもしれない。しかし過越祭と安息日が重なることになる「ヨハネによる福音書」では、紀元後30年に当たるから、他の記事との整合性から考えて、その方が可能性が強いとされている。( J.プリンツラー著『イエスの裁判』新教出版社、参照)

イエスの死体が聖餐された場所は?
 最後の晩餐は、神殿の近くの大邸宅で行われたが、その同じ場所では聖餐は無理である。イエスは犯罪者とされてしまったので、弟子たちも安全ではないから、大邸宅ではその主人に迷惑がかかりすぎる。おそらく神殿から離れた下町にもアジトがあったのだろう。
 イエス教団は、既にガリラヤでは衰退していたとしても、悪霊芝居を行い、奇跡的なパフォーマンスができるタレントの集まりなので、資金作りにもかなり長けていたかもしれない。エルサレムに何箇所か秘密のアジトを作るぐらいの工作はしていたと考えられる。またそこに秘密裏に運ぶぐらいはできた筈である。

イエスの遺体は墓に埋葬されなかったのか
 イエスの非公然の信徒だったと思われる議員ヨセフが、イエスの遺体を引き取り、自分の墓に埋葬したとされているが、その際、白い布で巻いたので、遺体は人形か替え玉とすり替えられたと考えるのが自然である。埋葬にあたっては兵士の監視はなかったようなので、このすり替えはイエス教団なら朝飯前だっただろう。翌日、兵士がつくが、大きな石で蓋をしていたので、わざわざその石を除けてまで遺体の検査はしなかったらしい。していれば福音書に記述がある筈だ。

遺体は死後硬直していて食べられなかったのではないか?三日目に遺体が消失してから食べたのではないか?
 「ほふられた仔羊」も同じ時刻にほふられ、晩餐に出されるのだから、そこは調理の工夫次第である。三日目に復活が予告されていたので、三日目に食べると同時に復活では、余りにせっかちである。やはりほふられた仔羊として過越祭に食べられ、それが体内で十分に消化され、気分的にも心の準備ができたところで、復活体験が起きると考えられる。特にマグダラのマリアは三日目(日曜日)の朝に墓場を訪れた際に復活のイエスに出会っており、時間的に無理がある。

食べられたイエスがどうして復活出来るのか?
 食べられることで、イエスの肉の中にあった聖霊が食べた弟子たちの体内に入る。肉は消化され、排泄される。血は命であると言われているので、イエスの血は聖なる血で永遠の命である。他人の血を飲むと、血が混じって、終末の時に復活できなくなるが、イエスの血はかえって、その人の命を守ると考えられる。
 イエスを食べた弟子にとって、イエスの聖霊が入ると、イエスが食べた人の中に生きている思いに駆られた筈である。その場合、イエスの人格が弟子の人格を圧倒するので、弟子の中からイエスが語り出す。それは内語の形を取ったり、弟子の口をついて語りだすこともある。つまりイエスにとりつかれた憑依状態になっている。そうするとそれを見ていた人々はイエスの物真似に見える筈である。
 ところでそれを見ている弟子たちもイエスに対する聖餐をしていれば、自分は神の子を食べて、神の子と合一していると思い込んでいるから、全能感が異常に高まっている。そこでイエスの復活を渇望しているので、イエスに似た素振りや言動をする人を見れば、イエスの復活と思い込み易い状態にあったのである。

どの弟子も復活のイエスと思い込まれるとすれば、多くのイエスが見えることになるので、その錯覚にすぐに気づく筈ではないのか?
 実際には、同時に何人もが憑依状態になるわけではないから、だれかが憑依状態になったら、他の人はそれがイエスの復活に見えるということである。特にイエスの弟ヤコブにイエスが憑依したら、ほとんど区別がつかなかったと考えられる。ただ弟ヤコブに限定すれば、マグダラのマリアが墓で園丁がイエスに見えたり、エマオでイエスの親戚のクレオパが旅人を復活のイエスと見たことは説明がつかない。

マリアやクレオパの場合は、イエスに見られる人は聖餐をしていないから、復活のイエスにはならないのではないか?
 もちろん本人は自分にイエスがとりついていないわけだから、見る側が勝手にそうみているだけである。いったんそういう状態になれば、イエスに見られる側の言動はすべてイエスの言動に見えたり聞こえたりするのである。

イエスに憑依された弟子は、後から反省して、自分が復活のイエスを演じていたことに気づくのではないか?
 憑依状態の自分を後から思い出すのは不可能である。いわゆる二重人格症状であるから、イエスの人格が圧倒している時の自分は、我に帰った時の自分の意識からは、催眠状態にしなければ蘇らせることはできないのである。

どんなきっかけでイエスの復活体験が生じたのか?
 イエスに対する聖餐を最も思い起こされるのは、最後の晩餐に関連してパンを食べたり、ワインを飲む時である。日曜日の昼食時が予告された三日目にもあたるので、最も復活体験が生じやすい。

パウロは、キリスト教を弾圧していたファリサイ派だったが、イエスの復活体験により、改心してキリスト教徒になっている。どうして復活体験ができたのか?
 彼はキリスト教徒を弾圧したが、キリスト教徒たちは、厳しい拷問を加えるパウロに対してさえ、決して憎しみの心を抱かないで、むしろ「汝の敵を愛し、汝を虐げる者のために祈れ」という言葉通りに、愛を向けてきたのである。だからパウロはキリスト教徒を憎むことができなくなり、そこまでキリスト教徒を導いたイエスを愛さざるを得なくなったのである。
 そういう精神状態にあると、彼は捕らえたキリスト教徒にイエスが乗り移って、彼に抗議するように見えたのである。あるいはイエスを聖餐した弟子を捕まえた際に、乗り移ったイエスが現れたとも想定可能である。

追加(1999年10月3日)

パンとワインによる聖餐は、神と人の合一を神への人の生贄や、神となった生贄へのカニバリズム(人肉嗜食)という形で行われるのを避けるために考え出された、象徴的カニバリズムである。だからそれを考え出したイエスの肉と血への聖餐があったと考えるのは不合理ではないか?
 
確かにパンとワインを食べるだけでイエスの肉と血に与り、永遠の命を保証されるエウカリスティア(聖餐)は、神との合一の仕方としては大変啓蒙的なものである。同じカナン地方の信仰であったモレク神信仰では、自分たちの子を神への生贄にささげていたといわれている。『旧約聖書』からもヤハウェ神信仰でも始源においては、長子を神への生贄にささげる慣習があったことが窺える。また太平洋諸島や中南米では、選ばれた人が儀式を通して神化され、その肉体を共食することで神との合一を図ってきた。
 神を「大いなる命」として捉え、どの生命体も「大いなる命」の現れと考えるならば、毎日食べているパンやワインが神の肉であり、血であることになり、パンやワインの飲食が神との合一になる。このパンやワインの聖餐では、カニバリズムも必要なければ、聖獣の聖餐も必要がなくなり、大変安上がりで合理的になる。ここにキリスト教が広範に広がった有力な原因の一つが見出される。しかしこのパンとワインもイエスの肉と血であるとされる以上、イエスの身体が食べられないから行われる代理的な行為である。
 イエスは歴史的に過去の身体であるのだから、現在ではパンとワインをイエスに見たてて聖餐が行われるのが合理的である。とはいえキリスト教は超越神論であり、自然物を神にできない限界がある。だからパンとワインの聖餐はフェティシズムであり、やはり根本的な教義と矛盾せざるをえない。それにイエスは聖霊を憑き物として信仰していたのだから、イエスに宿っていた聖霊を受け継ぐには、パンとワインに迂回するよりは、直接イエスの肉と血を食べ方が良いに決まっている。

戻る

ホームへ戻る