偶像崇拝とヒューマニズム

                                   エーリッヒ・フ口ムの宗教心理学の問題点


 

一.偶像破壊
やすい ゆたか
 御仏に舎利がなければただの薪、焼べて暖とるそは如かざるや

「ある時、唐代の丹霞禅師が京洛の恵林寺を訪れた。それは大変寒い日だったので丹雷は本尊の仏像を取り降ろして来て焚火をし、暖をとった。院主はこれを見て大いに怒って叫んだ。

 『なんだっておまえは大事な木仏を焼いちまうのだ。』 丹雷は何かを探すようなふりをして灰の中をかきまわし始めた。そしていった。

  おれは舎利を取りたいと思っているんだ。

木仏に舎利などあるもんか。 と院主はいった。丹霞はいい返した。

  舎利もないような仏ならば残った二つの脇侍も焼いちまおうよ。

 院主は丹霞のこの外見上の不信心を詰ったというかどであとで両眉がすっかり落ちてしまったが、丹霞にはちっとも仏罰があたらなかった。」( 『精神分析と宗教』 5253頁)

偶像崇拝を幼稚な迷信と考える人の目には、丹霞の行動は乱暴だが痛快と映るかもしれない。フロムは禅の立場を「いかなる知識でもわれわれ自身から生まれたのでない限り価値を持たないと主張する」立場と理解している。つまり、反権威主義的な態度として丹霞に強い共感を寄せているのである。

しかし、ひとたび、仏像に熱い信仰を抱く人の立場に立ってみると、丹霞の行動は強権的であり、反権威的どころではない。単に乱暴では済まされない。まさしく宣戦布告であり、法難である。自分の肉体に対する暴力以上に、精神に深い疵を与える行為である。

仏教徒ではないが私も仏像は好きである。美しいからだけではなく、その前に立つと、慈悲の世界に抱擁され、心が洗われる。我を忘れ、時を忘れるような恍惚に襲われることがある。この体験を持つ者にとっては、事もなげに丸太のごとくこれを焼くことができる神経は戦慄に値する。

実際に丹霞のようなことをすれば恐らく生きて寺は出れないだろう、何しろ本尊を焼却したのだから。だからこの話は、寺の改宗にまつわる丹霞の功績を讃えた手柄話で、創作と推測される。それにしても宗派の独善性を示す話ではある。丹霞は、仏像には舎利がないということを偶像崇拝批判の原理にしている。生きていないただの木の塊りではないかというのである。

木の塊りだということは崇拝者も先刻承知である。しかしそれは仏の像であることで尊いのである。両者は完全にすれ違う。啓蒙に手を焼いた批判者は、偶像の無力を実証して崇拝者に愚を覚そうとして遂には偶像破壊に及ぶ。単なる物塊の破壊と心得ているから良心の阿責はない。むしろ身の危険を覚悟の英雄気取りなのだ。

超越神論にとっては、偶像破壊はむしろ神聖な行為である。神を物塊に貶める偶像崇拝は最大の涜神である。だから偶像を造り、崇拝する民族や部族を征伐し、滅亡させることは神の意に適うことであり、神の名誉回復なのである。そこでこれは最大の侵略の口実になる。

ヤハウェ一神教は偶像崇拝の排斥を口実にイスラエルの無制約の土地侵略を聖化した。

「ヨシアの踏む土は、ヨシアの領土となる。」

「神はダビデに地の果てまでも所領として与えると言った。」

神は人間の全能意識の対象化であり、ヤハウェはイスラエル共同体の白己意識の外化である。彼らはまさしく神を侵略と虐殺の精神的な盾とすることで、半遊牧の流浪から定着への民族的課題を遂行したのである。「神は我がやぐら、我が強き盾」なのだ。
 定着後、農耕祭儀に関連してカナン地方のバウル信仰がイスラエル共同体の精神的解体の危機をもたらし、偶像破壊が必要となった。このように偶像破壊は、表面的な大義名分の裏に権益をめぐる欲望に衝き動かされているのである。フロムこそは、〈表と裏〉、 建前と本音 を見抜く一流の心理学者なのだから、偶像破壊の隠された動機を見抜くべきである。

フロムは偶像崇拝を権威主義的で反ヒューマニズムだと批判する。フロムは超越的な神観念を批判し、神を人間自身の生きる意味を見出す「 x 」体験に還元する。神は人間の外にあって人間を支配する権威ではないとするのだ。権威主義的に外的客観的実在として神を捉えるから、神を外的事物として見出そうとするのであり、神を偶像化することになるのだというわけである。

神はその権威によって自分を価値づけられるものであれば何でもよいことになり、国家、地位、名声、金銭、指導者、政党、教会等が偶像化されることになるとフロムは説く。

フロムが自己のヒューマニズム的宗教観を権威主義的宗教観に対置し、ユダヤ教、キリスト教の中にその両傾向の対立を見出そうとした。また偶像崇拝の否定をヒューマニズム的傾向の中核に据えている。従って超越神論からの偶像崇拝否定と大きくずれている。本稿ではフロムの宗教論の特色を論じながら偶像崇拝の意義の見直しを行ないたい。
 

二 ユダヤ教のヒューマニズム的傾向

『ヒューマニズムの再発見 (原題 You shall  be as God.河出書房)でフロムはユダヤ教のヒューマニズム的性格を強調している。彼はユダヤ教における神観念の発展を、アダムにおける嫉みの神、モーセの名のない神、マイモニデスの属性のない神の三段階とし、遂には神学の否定、神観念の解体に至り、フロム自身の 体験論に止揚している。

 神はアダムを塵から造った。塵から生まれた人は塵に帰る、はかない、悲惨な存在でしかない。しかし、神は自分に似せて人を造ったのであり、そこに人は神にあこがれ、神になろうとする高貴さを持つ理由がある。

智恵の木の実を食べた人を見で、神は、人が生命の木まで食べ神の領域を犯されることを危倶し、嫉んだ。神は実は人間の自己愛幻想の権化だから、自己の特権にプライドと執着心を持っている。そこでアダムとエヴァはエデンの園を追放されたのである。だから嫉みの神といわれる。

神と人はノア洪水以前は近い存在であり、神の子たちは人の娘にネピリムという合いの子を産ませていた程である(創世記第六章1〜4)。ユダヤ教も起源においては複数神論であり、神と人の断絶は絶対的ではなかったのだ。

モーセの名の無い神のいわれはこうである。モーセは神の山ホレブで、エジプトからへブル人たちを連れ出すよう命令された時、神の名を尋ねる。神は「わたしは有って有る者、イスラエルの人々にこう言いなさい。『 「わたしは有る」という方が、わたしをあなた方のところへ遣わされました。』と」(出エジプト記三章14節)と答えでいる。

フロムは「わたしは有る」の原語「エへイへー」は「ある」という動詞の半過去形だから、それは「物の存在のように完結したものでなく、生きた過程、生成」4041頁)が神だという意味に解釈する。

「物、つまり最後的な形に到達したもののみが名前をもちうる。モーセに対する神の解答を意訳すれば次のようになる。『わたしの名は 〈名無し〉 である。 〈名無し〉があなたを遣わしたと彼らに告げなさい。』偶像だけが物であるから名前を持っている。〈生ける〉神は名をもちえない。」(41頁)

バイブルの文脈からみてこの解釈は疑問だ。エジプトからの解放はへブル人の先祖アブラハム、イサク、ヤコブとの契約にもとづく。先祖と神の契約が存在し、その義務を果そうとする神が本当に存在することを、モーセを介してへブル人たちに告知する場面である。だから、「わたしは有る」と名乗るのはこの契約と神の実在を強調する行為と解するのが妥当である。おそらく長いエジプトの寄留生活の間でこれらの伝承が薄れ、疑われていただろうし、エジプト人たちの偶像崇拝にも慣れ親んでいただろう。モーセの出現は先祖と神との契約を思い出させる事件なのである。

神は「私は有る」と名乗って、すぐ正式の名を告げる。

「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」(三章15節)

契約神だから契約当事者の名をとって「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現するのが最もふさわしいのである。ところがこの契約を知らなかったモーセは最初、神がこう名乗った時、神が歴史上存在したことを意味するだけで名前とはいえないと思い神の名をたずねたのである。

フロムのように神を生成、過程に還元し、物に到達しえないと規定するのは超越神論と相容れないのだ。超越神論では、神は生成、過程、完成、消滅等を超越したいわばそれらの主体自体である。それ故、創造主であり全知全能と讃えられる。

フロムのようにいつまでも未完成な質料(マテリー)にとどめでおくのは、神を無能化する質料主義に他ならない。被造物に神の力は実証されているのだ。ただし被造物は所詮相対者、有限者だから真の主体である神それ自身と混同してはならないというのが超越神論からの偶像否定である。

フロムのように物を生成、過程から抽象的に切り離し、完成状態に固定するのは、かえっで物の観念化であり、形而上学的な「物」把握である。物は常に運動、変化し、生成、過程、完成、没落である。あらゆる物の規定は、相関的であり、相互の働きかけに他ならない。

だから物に名があるのは、物が生成、過程ではなくて完成だからとは言えない。モーセの神を〈 名の無い神)と捉えるのは、マイモニデスの〈属性のない神〉からの影響である。

マイモニデスは「神はいかなる形や意味においても本質的属性を有しない。物質性の否定は、本質的属性の否定でもあるということを理解すべきであろう。神は唯一者であり、多くの属性を持つと信じる人々はその口で統一を唱えながら、内心では雑多を仮定している。」(44頁)とのべた。

神は何物でもないのであり、否定性においてのみ、沈黙においてのみ語りうるとするのである。

〈属性のない神〉観念は、神の統一性の強調のために物質的、精神的諸属性からの神の超越性を説くものと解釈されるが、フロムは、逆に、過程としての、生成としての生きた人間の体験と受けとめる。属性がないということを限定されない、規定されない、制約されないという意味に解し、対象として物に固定されない自由な人間の宗教的体験に神を見出すのである。

現実を構成するあらゆる客観的実在は、物在にしても、制度にしても、権威や有用性も相互に限定し合い、規定し合って成立している。フロムは、そのどれかに自己との同一化を求め、生きる意義をそれで根拠づけてしまうと、自己を限定し、成長を止め、対象へと退落してしまう。自己の生命が偶像化された対象によって吸い取られひからびてしまうと懸念するのだ。

フロムはヒューマニズム的に偶像崇拝によって貶められるのは人間性であるとしている。超越神論では神が限定され、物に貶められるのが問題であった。フロムにあっては神と人の抽象的区別は止揚されている。人と区別された神を礼拝の対象にし、神に救いを求めるのは権威主義的宗教であり、それは神の対象化であり偶像化に他ならないとされる。カルビン神学はその極端な典型で、神にすべて吸い取られ人間がひからびてしまう反ヒューマニズムだとして排斥している。(『精神分析と宗教』 東京創元社)

偶像崇拝の否定はヒューマニズム的傾向も権威主義的傾向も一見共通する。ヒューマニズム的な神と人の区別の止揚は、権威主義的には神の人間化として偶像崇拝になる。だが、ヒューマニズムからは権威主義は人間を対象化し、物化しているからそう考えるのだということになる。

権威主義的態度では超越神論と偶像崇拝は共通するとフロムは考える。外的権威としての神及びその偶像に拝跪するからだ。しかし、超越神論からは偶像崇拝はかえって神の権威の否定、超越性の否定である。ヒューマニズム的傾向では、人と神の抽象的区別は止揚されているのだから、神を自己の外にある対象として礼拝する必要はなくなり、偶像を礼拝して〈神=人間〉を貶めることだけが禁止される。

だからユダヤ教はあえて異民族にヤハウェ信仰を広布しようとせず、ただ偶像崇拝の中止だけを求めたとするのである。フロムはユダヤ教では「神を(けが)すなかれ、偶像を拝むなかれ」という否定的命令が戒律の中心であると解釈し、ヤハウェを知らない異民族もこれを守っている限り、「来世にその所」をえると考えていると説明する。

もちろんバイブルには権威主義的傾向もあることはフロムも認めている。フロムはヒューマニズム的傾向を再評価し、それを徹底すれば否定の神学となり、神学の終焉、即ち x 体験論に行き着くと主張する。そうなれば、神は人間自身の体験であり、開悟であるから神観念、神礼拝自体が不要である。

 

三.原始キリスト教のヒューマニズム的傾向

キリスト教の生成期にはヒューマニズム的傾向が支配的であったと、フロムは「キリスト論教義の変遷」(『革命的人間』 所収、東京創元社)で分析している。イエス・キリストは十字架以前には純然たる人の子であったが死後復活して神の子になったというキリスト養子説にヒューマニズム的傾向を見い出すのだ。

この論拠にユダヤ人の王になることは神の養子になることを意味していたことがあげられる。

「『わたしはわが王(ダビデ王)を聖なる山シオンに立てた』と。わたしは主(ヤハウェ)の詔をのべよう。主はわたし(ダビデ)に言われた。『おまえはわたしの子だ。きょうわたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ。わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地の果までもおまえの所有として与える。……」(詩篇第二篇)

神はダビデに「わたしはあなたの身から出た子のひとりをあなたの位につかせる。もしあなたの子らがわたしの教える契約と、あかしとを守るならば、その子らもまたとこしえにあなたの位に座するであろう。(詩篇一三二篇)と約束し、ダビデは「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないだろう。」と語っている。これを根拠にイエス・キリストの甦りと、神の養子化を予言の実現だと生成期のキリスト教徒は信じたとする。

「このイエス(約束されたグビデの子孫、あなたの聖者)を神は甦らせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それでイエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。 中略 あなた方が十字架につけたイエスを神は、主またはキリストとしてお立てになったのである。」(使徒行伝第二章)「神はイエスを甦らせて、わたしたち子孫にこの約束をお果しになった。それは詩篇の第二篇にも『あなたこそはわたしの子。きょうわたしはあなたを生んだ。』と書いてあるとおりである。」(使徒行伝第十三章、33節)

たしかにダビデ王と同様ならば人の子が神の子となったことになる。「ローマ人への手紙」にも「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。」(第一章)とある。神・キリスト同質論、即ち実子論からは、甦りはイエスがキリストであり神の実子であったことの実証である。甦りを再誕生とすれば、「あなたこそはわたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ。」も不自然な表現ではない。

ただし、「肉によればダビデの子孫」という表現は、マリアではなくヨセフがダビデの家系に当るそうだから、イエスはヨセフの実子となり、聖霊が処女マリアに降ったという説話と矛盾する。「聖なる霊によれば死人からの復活により」とあるのも復活後聖霊を受けて神の子と定められたと養子説で解釈するしかない。少なくとも「ローマ人への手紙」の書き手パウロは養子説をとっていたことになるだろう。

バイブルも完全ではない。辻棲が合わないところがあっても当然であろう。とはいえ、こうした不協和音から、ヒューマニズム的傾向と権威主義的傾向をかぎ分けるフロムの臭覚には感心させられる。フロムによると養子説は人が神になるという意味でヒューマニズム的であるだけでなく、極めて革命的な発想なのである。

当時、パレスチナには富裕階級にあたるサドカイ人、中産階級のパリサイ人、それに最下層のアム・ハーレツ(地の群れ)がいた。ローマ支配に最後まで非妥協的に抵抗したのはアム・ハーレツたちであった。イエスはその代表者であった、イエスは死後復活して、神の養子に上げられ、やがて裁きと救いのために地上に再臨し、人間界の支配者、ユダヤの王になる。これが原始キリスト教の中心教説であったとフロムは主張している。

神が人間を支配したり、救ったりするならなにもメシア(キリスト)など要らない。神は実在する筈なのに、地上の不幸、圧政、不正に対して供手傍観するのみである。イスラエルの神ヤハウェは、事実上ローマの支配、カエサルの支配を容認しているのだ。

たとえ神が人類史の展開を通じて、進歩と解放をもたらす理性であったとしても、貧しい、抑圧された人々は短かい人生を苦しみ抜いておえなければならない。ローマの力が強大で自分達には歯が立たないとすれば、人々は神を頼りにする他ない。自分達を見殺しにする神に対して恨みがましくなる。それが昂じると敵意になり、ついには無意識下で神を取り換えたい気持、神の死を望む気持が生じる。

メシアは義を貫ぬくためには一度は死ななければならぬ。メシアは死を乗り越え再生しで雲に乗って再臨するのだという信仰があったという。イエスの刑死はその信仰と結びつきキリスト信仰に結晶する。イエスは死によって神に義を訴え、義とされて再生する。イエスの再生は、神の死と等価である。ヤハウェは退きイエスが支配するのだから。キリスト再臨信仰には無意識のうちにある神の死への願望が秘められているとフロムは分析する。

 元々 、神は人間の全能願望の疎外態だから、神による救いも幻想でしかない。そこで自力でとなるがこれが無カだから、自分達の代表者、勇敢にも義によって死んだイエスなら神になれたと信じたくなる。人々はイエスに自分達の自己愛幻想を託し、イエスによって救われようとしキリスト教が成立したとするのだ。

イエスはアム・ハーレツの立場で地上を支配するから、その裁きと救いは極めて革命的になるだろう。こんな発想を最後の依り処として原始キリスト教団が、抑圧された民衆のエネルギーを吸収して情熱的に活動したであろうことは容易に推測できる。

フロムはキリスト養子説から、元々神の子として降誕したという同質説への変化を、キリスト教のローマ帝国全体への普及とその国教化によって説明している。キリスト再臨への期待は一向に叶えられなかった。次第に再臨による御国の到来、最下層階級の解放を教義の中心からはずさざるを得なくなった。他方で教徒の拡大は、教徒中に占める、中産階級の割合の増加と、ユダヤ人の割合の減少をもたらした。

そこで教義は、ユダヤ民族主義から脱皮し、信仰によってのみ義とされ、その報いとしての救いは専ら精神的なものとされるようになる。キリスト教の隣人愛、普遍性がローマ帝国の世界支配と合致する。皇帝が自分を神としで崇拝するように強制しても、恣意的なものとして反撥を招いたが、キリスト教を支配宗教にして、その権威で合理化すれば皇帝支配が安定する。それはまたキリスト教会による精神的な地上支配であり、キリストの再臨地上支配を代理することになる。 

そこで人が神になるというヒューマニズム的モチーフの養子説は捨てられ、やはり救いは天から地への一方通行となる。キリストの甦りはかえってイエスが神の子であったことの証明となり、救いは再臨によってではなく、神が人となったキリスト降誕によって既にもたらされでいることになる。

だからフロムによればキリスト降誕説話はキリスト教の拡大に伴なう支配宗教への変質と共に形成されたのである。キリストへの帰依とは、同質説では、キリストの降誕、或いは山上の垂訓が地上における御国の到来の始まりであることを信じることである。

キリストの福音と行ないがキリスト者に永遠の生命に生きる道を示している。それは肉と霊の二元論であり、霊によって生きることである。信仰ー霊の世界こそ神の御国であり、ひたすら信仰に生きれば救われるという。

地上の肉の欲望、権力、財産等に執着すれば、神は見えなくなり、御国から遠のくことになる。だから「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」(マタイ伝第十九章)とイエスは語った。「カエサルのものはカエサルに返」してこそ絶対的な世界、御国で永遠の生命を得ることができるのである。

永遠の生命とは長時間生きることではなく、時、間を超越した永遠の今の恍惚を得ることに他ならない。このように現世における裁きと救いを求める奴隷解放的宗教から、信仰による精神的解放を求める奴隷的宗教への変節が、キリスト教のヒューマニズム的傾向から権威主義的傾向への変化としてフロムに解釈されている。

 

四、超越神論の矛盾と偶像崇拝の論理

ヤハウェがイスラエル共同体の民族的自己愛幻想の産物であり、イエス・キリストがアム・ハーレツ(地の群れ)の自我の投影であったという意味では、ユダヤ教やキリスト教にヒューマニズム的傾向が宿ることは肯ずける。フロムはその面を再評価しようというわけだ。

しかし幻想の産物である以上それは疎外された権威として人間を超越するのであり、ユダヤ教、キリスト教が根本的に権威主義的宗教であることは否定できない。偶像崇拝排斥の理由は、神の絶対性、超越性への固執によって、神を相対者、有限者たる物塊に表現することをこの上ない冒瀆と感じるからである。

実はここにこそ超越神論の根本的欠陥があるのだ。絶対者を相対者、有限者と絶対的に区別したままだと、絶対者はいかなる意味でも、相対者、有限者として現われ出ることができないからだ。絶対者たる神から相対者、有限者たる人間への回路は存在しなくなる。神は人間にとってかえって無になるのだ。

マイモニデスの属性のない神は神学の終焉に帰結する。そこで神は預言者に意志を伝え、奇跡を行って自己の実在を証明する。だが、御言葉も奇跡も所詮は神の有限化、相対化、物象化に他ならない。虚言か、偶然か、サタンの仕業かの疑いは拭えない。

とうとう神は賤女の胎をかりて人間の姿で現われ、人々に福音を説く。ところが人間という有限者の姿をしていては人々 は神とは信じ難い。人間を神として崇拝するのもやはり偶像崇拝だから、イエスを神として認めないユダヤ人達はむしろ正統な信者なのである。
 そこでイエスは神を騙る者、魔術で人心を惑す悪霊にとりつかれた者とされ、十字架にかけられた。肉として滅んで始めて、人々はイエスの言行を再評価し、その精神的気高さに感銘することができる。やはり彼は本物の神の子であったかもしれぬと。肉は滅んでもその精神は思想内容としでは不滅だからだ。神は自ら肉としで現われ、霊に還ることで自らを超越的な霊として示し得たのだ。

しかし、このキリスト悲劇を通して神を知ることができるということは、キリスト及びキリストの十字架は神の偶像に他ならないことを意味しているのだ。だからキリスト劇は、超越神論の破綻を示すと共に、絶対者は自己を相対者、有限者に表現しなければならないという偶像崇拝の根本的意義を逆説的に明らかにしている。

偶像を回路にして、人々の目に触れ、心を揺り動かしてこそ、絶対者は自己の絶対性を証しできるのである。偶像崇拝は、神を偶像化し、偶像を神として崇拝していると批判される。偶像それ自身を神と考えて偶像崇拝をしているかどうかは信仰の種類によって異なるのだ。

太古では自然物や道具類は人間と不可分離的であり、人間の意識は身体に限定できない。むしろ自然対象との交流に他ならなかったから、物自体が語り合う対象として人格的であり、従ってカミ(超越的な神でなく)であった。

私有観念の発達により、意識は身体内のコギトに固有とされ、これがアニミズム的に類推されて、自然現象とそれを司る霊が分離され始める。そしてその霊が人格的主体とされると人に似せた神像が造られる。

自然現象と人格神と神像は互いに転化し合い、表現し合う。三者は一体であると同時に区別されている。だから神像がそれ自体だけで神であるわけではないが、自然現象や人格神がそこに現前しているという意味では神である。

物心二元論が確立し、霊と物の区別が絶対化されると、物を神霊として崇拝するのは幼稚な物神崇拝的倒錯とされる。霊現や祟りを生じる物があると、その物や身体は、霊現や祟りについて全くの無実とされる。あくまでその依代にとりついた憑き物=霊の仕業だとされるのである。

このように物神崇拝批判は物心二元論からの啓蒙的な議論なのだ。この批判はしかし正真正銘の憑き物信仰に陥っている。超越神論は、物神崇拝と憑き物信仰を混同して批判するが、物心二元論を前提している以上、憑き物信仰に陥らざるを得ない。

預言、奇跡、キリストとその十字架のごとく。仏像の入魂式なども憑き物信仰に基づく偶像崇拝の典型である。物と霊の抽象的、絶対的区別に固執すると、物は対象的に働きかけ合う活きた物ではなく、単なる素材、質料とされる。仏像は木片とみなされて暖をとるために焼かれてしまう。トーテム像を造ると神を金属塊にした漬神として戦争を仕掛られる。全くその謂や込められた心情は無視される。偶像破壊者は、絶対者と相対者の絶対的区別に立ち停って、その区別の止揚にこそ真の宗教の本質があることを忘れているのだ。

 物(ディング)は質料(マテリー)でしかないのではない。他の物や人に働きかける主体なのである。偶像もそのマテリーで尊さや美しさが決まるのではない。絶対者の絶対性を造形しえていることによって決まるのである。

木、土、金属などのマテリーは、偶像に半永久性を保証することで、絶対者の永遠性を象徴しているのである。偶像崇拝の立場では、偶像の創作主体はあくまで絶対者であり、彫刻師は冥想のうちに絶対者と融合しているのである。

人がつくったイミテーションという議論は、絶対者が相対者に自己を表現する意義を解せないから生じるのである。絶対者ならその必要も能力もある筈である。

五、フ口ムのヒューマニズムの限界と偶像崇拝の意義

フロムは、人と神の抽象的区別にとどまる傾向を権威主義として批判し、神を人間が求めるべき状態、 x 体験とし、人と神の抽象的区別の止揚をヒューマニズムから追求した。

 絶対者と相対者の抽象的区別の止揚に宗教の核心を見出したフロムの見識は高く評価されるべきである。ところがこの人が神になるというテーマを、神は生成、過程でしかなく、人間の実存的体験だとして、物にならないこと、偶像をつくらないことにずらしたのである。

物とその生成、過程を抽象的に切り離すことはできない。むしろ物こそが生成、過程である。だから、神や人は物でないことに固執すれば、無内容な生成、過程となり、物から疎外された、抽象的な活動に堕してしまう。

神を求めるのなら、人や神は豊かな諸物としての具体性を包摂したものであるべきだ。絶対者と相対者の抽象的区別の止揚は、相対者として諸物として顕現している絶対者と融合することである筈である。人間が自己の生命諸力の発現の中に、普遍的な自然のカの発現を感得し、享受できるのは、諸物の創造、使用、享受、破壊等を通じて、諸物の中の普遍的な力と合一することによってである。

宗教的体験とは、この生活過程それ自体が、諸物を相対者のままで絶対者として感得することであるといえないだろうか。偶像崇拝は、そのような生活体験に根差して、普遍的な存在を具体的な事物に造形することである。

その表現している対象は個別的具体的なものを素材にし、題材にしながら、一つの永遠なるものである。阿弥陀仏の微笑は阿修羅の怒りと対極的でありながら実は一つなのである。

諸物は、身体的なエゴに固執する限り、あくまでも他者であり、自己から超越的であり、自己に対して権威的である。諸物に自己の本質を疎外し、譲渡することは、自らを空しくし、権威に屈服することになると一見思われるかもしれない。しかし、それは相対者、個別者としての自己への固執の結果である。

我々は身体の中に真の自己を見出すことなどできない。諸物との交わり、人々との交わりを通して、より大なる自己を形成し、それを諸物の中に、諸物自身として顕現させ、享受しなければならないのである。

フロムのいうx 体験とは、相対者たる人が自らの生活体験の中で、自己の相対的な役割の絶対的意義を自覚することで、自己の存在を納得する体験に近いだろう。この体験により、自己から超越的な観念としての神は不要になり止揚される。

だから相対者に対して絶対者が二元的に対立してはいない。その意味では絶対者という観念すら誤まりである。だからその体験をことさら宗教的と名付ける必要もない。しかし、フロム自身はこうした議論により宗教をヒューマニズムに止揚しようとしているのである。そのために使用した宗教的用語法を尊重することは、唯物論と宗教の関係を見直す際、有意義かもしれない。

我々は権威主義に反対してヒューマニズムを賞揚するフロムの志の高さを評価するが、偶像崇拝を権威主義と決めつけ、相対者と絶対者の絶対的区別の止揚の一表現である面を評価できない狭量を惜しむ。この問題こそ根本的な宗教的問題であったのだ。

フロムのヒューマニズムの欠陥は、ヒューマニズムそれ自体の抽象性に固執したため、相対者、有限者としての対象への自己表現の中で、豊かな具体性の獲得を通して真理を見出そうとできなかったことである。結局、自我の絶対性に固執して有限者としての事物と断絶しているのである。

だから彼もまた超越神論の権威主義の伝統を真に克服できてはいないのだ。

「人類は、偶像を拝まず、神を瀆さないかぎり、祝福の状態に入ることができるであろう。このようにしてわれわれは 否定的神学 を人類の一致と救済に〈 実践的に 〉適用することができる。人類が平和と連帯を達成するのにかぎれば、唯一の神をともに拝することすら必要ではない。」(六八頁)

フロムはこのユダヤ教の立場を寛容で独善性を排した立場と考えている。だがこれこそ西欧的理性の独善性の見本なのであり、侵略の論理と共通項をもっているのだ。

何らかの宗教的体験を造形し、それを回路として宗教的体験をすることの宗教的意義は否定できない以上、偶像否定の論理は決して人類の一致と救済に適用できないのだ。身近な道具から自然の草花に至るまで、我々は一つ 一つの物に心を動かされ、感謝を捧げる時、そこに相対者として自己の絶対性を見出しているのだ。こうした心性が、打算的な合理性にのみ執着しがちな日常にあっては喪失していることが多い。偶像崇拝の根底にある筈のこうした心性に対する再評価こそが、実は人類の一致と救済につながるかもしれない。

偶像崇拝が厳しく糾弾されるには、偶像崇拝者の側にも大いに責任がある。偶像の権威に頼ろうとして、やたらにその大を競ったり、自分の崇拝する偶像を尊ぶ余り、他人の偶像崇拝を攻撃する。また偶像崇拝として他宗を排斥しながら、教祖の書いた題目を物神崇拝し、しかもその真贋をめぐって正統を争う醜態を晒したりしている。

教団の権威を競って巨大な堂門を誇ったり、官僚的、封建的な組織で教団を統制したりしている。そして教団の権勢が大きいことが教義の真理性を実証するかに憶い込む。また巨大組織を造り上げ、巨大な権益を信仰者から吸い上げることを自己目的にするようになっている。

つまり教団自身が偶像化し、その象徴としての教祖や指導者の個人崇拝が極端化する。かくして自己の信念によらない、他者の権威、偶像の権威による信仰に堕落する傾向が強い。このような傾向を反省しない限り、偶像を造って人心を惑わし、権益をむさぼっているという批難は正当である。その上、偶像にオカルト(超常)的な力を幻想し、世俗的な利益を世俗的努力なしに得るための手段に貶めようとする。

その幻想性を承知の上で偶像のオカルト(超常)的力を宣伝し、効力を売りものにするのは一種の詐欺行為であり、偶像の持つ積極的意義を痛く庇つけている。心から偶像を絶対者への回路、相対者の真理が絶対性であることの象徴的表現と考え、その礼拝を通して絶対者との融合を計ろうとする良心的な宗教者は、偶像崇拝のこれらの否定的現象を克服するための真摯な努力を怠ってはならない。

偶像は絶対者の像であり、絶対者は幻想の産物である以上、偶像崇拝も倒錯であるという批判は正しい。しかし、だからといって単純に偶像崇拝を切り捨ててはならない。相対者の中に絶対者を求め、表現しようとする希求の中に、相対者としての自己の存在の意義をいかに把握し、納得するのかという根本問題を考える際に、学ぶべきものは大いにあるのだ。


季報唯物論研究合併2223 1986年9月25日 編集発行人 大阪唯物論研究会哲学部会所収

 




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