10変容する身体観

やすい 身体という場合に、個々人の身体と、初期マルクスでいうと非有機的身体とか人間的自然というようなものがあって、人間自身が人間と言うとつい身体的存在だと思ってしまいますが、身体だけでは存在できないわけで、そしたら自分を拡大して捉えなければなりません。組織体と同一視したりすることも入るし、服を着たり、道具や機械を使ったりすることも入ってきます。そういう意味で変容する身体観と捉えますと、石塚さんの場合は、生身の身体を身体として捉える場合以外は、倒錯として捉えて、生身の身体を自分の身体と捉えるのは倒錯じゃないと言われるのですか? 

石塚 指を切断して、脚を切断して、切断しきれないところが自分の身体の中心だとしますと、そんな中心はいくら探したってないですよ。けれども、精神だとか思考する部分だとかが、身体の中心であると言われます。それによって動かされる部分は棄てられるとしますと、ブレーン(脳)によって全てが決定されるというところに落ち着きます。だから脳が身体の中心だという議論がノーマルには出てきます。そう考えるなら、義手や義足は身体ではなく、これを補助する機器です。

 ですが、ぼくはそうは考えません。たとえば免疫をつかさどるナチュラル・キラー(NK)細胞のようなものがあります。これはとりあえず脳に関係なく、身体と感性との関連で楽しければ増える、悲しければ減る。その結果免疫の強度が変わって、楽しければ免疫が増えるという仕組みです。阪神大震災で落ち込んでしまったお爺さんやお婆さんたち多くは、このナチュラル・キラー細胞が減少してしまいました。それはよくない。何かしら生き甲斐になるようなものを見いだして、身体が活気に溢れてくると、それまで何となく死んでいったような老人たちが死なないですむと言われています。それは生き甲斐というよりもNK細胞という身体(の一部)が生命を救ったのです。脳というよりも明らかに体全体が生命維持に関連しているということです。あるいは、交差点で信号を見つめている歩行者にとって身につけている眼鏡は身体の一部であり、ときに生命を救うこともある。いわんや義手や義足は、それを身につける人の身体そのものです。パソコンで仕事している人たちには、それだって身体の一部です。

 こうして拡張された身体は皮膚かの内から外へと無限に広がっていきます。ただし、先ほどのストーブの例と同様、どんな関係にも置かれていない身体なんてありません。その時代、その場、価値観の中で身体観念が決まってくるんです。今はハイテクが手に取るように操作できるようになってきて、自分の身体感覚で何でもできたような気分になりますね。そういう意味ではハイテク機器もみな身体の一部ということです。 

やすい 変容する身体と意識の関係ですが、そういう変容する身体が思考するわけです。その場合、思考する主体は脳だと言っても、思考内容は脳で決まっているわけではありません。そうすると逆に拡大していくと思考内容は、社会関係や自然環境で決まってくるわけです。そうしますとだれが思考しているか、その思考主体の身体というのも、社会関係だとか、事物関係だとかも含めたものによって考えているのじゃないかと思われます。今までの認識主体は生身の身体とか、自我が思考していると考えてきましたが、必ずしもそれだけとは言えなくて、やはり人間の考えを生み出しているものが思考しているとも捉えるべきです。 

石塚 そうです。これは小学校五年生で覚えたことだとか、そういった事柄を抜いていくと結局は自分の知識なんてないんです。脳に浮かんでいるようなものは自己自身とはおよそ決定づけられないのだけれど、まずはそう思っておきたいという自己同一で自我を措定するのがフェティシズムなんです。これはポジでしょう。だからハイテク機器も含めていろんな物在を身体と考えて、拡張したいと思っているやすいさんは、そういうところに今立っておられるわけです、思考方法で。反対の事例等を見て反発したり、似たような見解に接して共感されて出来上がったのが、拡張された身体観としてのやすいさんの議論なんです。その議論もやすいさんのオリジナルなものではなくて、そういう中で出てきたんだけれど、今はオリジナルと思っておくのが、一番動きやすいですよ。そう思っておられるのもフェティシズムなんです。

やすい いちばんね、近代的な主観主義的認識論に対する批判として、ぼくがもってるのは、何か考えているときに、認識主体と認識対象を置いた場合に、必ず考えているのは認識主体であって、認識対象じゃないというけれども、現実に認識対象が認識主観に入ってきて、作用しているから認識が成立しているわけです。コップが見えるのはコップが目の中に入って像を結ぶからです。コップの働きは全然考えないで、自分が見ていることばかり言ってるわけです。認識主体の働きが認識だとだけ言ってると、恣意的なものになりかねないんです。現実に人間は見えてくるものしか見えないし、考える材料が与えられたものしか考えられないわけです。そうすると認識主体というのも、主観やエゴだけではなくて、もっと事物の働きも思惟を生み出しているというような捉え方をしないといけないじゃないかな、それが欠けてたんじゃないかという気がするんです。 

石塚 そういう意味で、先ほどのぼくの話は一致しますよね。ただそういうことをフェティシズムというか言わないかは別問題です。アフォーダンスと言ってもいい。そのへんは、言葉がすべてを決するとは思わないほうがいいですね。内容は似たようなことを言ってるんです。ちなみに、アフォーダンス理論からしますと、諸個人が物事を脳で判断するのは環境に備わる情報を利用しているからで、認知の軸は脳と環境の二極にあります。だから、行動していく過程で環境からの情報入力は絶えず変化し、諸個人の認知は環境に大きく影響されるのです。従来の発想でいくと、これは倒錯そのものですが。 

やすい 結局倒錯という言葉をどう捉えるかという、言葉の定義の問題みたいな。ぼくの場合は認識論的な視角のアプローチが強いから、倒錯ならば間違いというようになるんですね。 

石塚 ぼくは「倒錯イコール間違い」という考えには反対なんです。フェティシズムにおいては倒立ないし転倒と正立の交互性が軸になりますから、倒立がなければ何も始まらない。そこは、ぼくの廣松さんへの批判の要でもあるんです。つまりマルクスに即して言うと、商品のフェティシュ的性格なりフェティシュとしての商品は廃棄されねばならない。ところで、この廃棄すべき性格なり商品なりは物象化によって成立したものである。よって、物象化現象は廃絶の対象である。これがマルクスの読みです。ところが廣松さんは、物象化を認識論のレヴェルに拡張する。この世界はすべからく物象化された世界なんだ、世界はすべて関係としてあり、人はそれを物として認知するんだ、と。

 しかし物象化というのは、マルクスにおいては認識一般の問題じゃないですよ。人と人との関係がたんに物と物の関係として成立するだけでなく、認識主体間で廃絶すべき対抗的な物的対象として立ち現れてきたときに、物象化というものが議論されるんです。これは廃絶すべきものなんですよ。マルクスが使うそうした意味での物象化という言葉を廣松さんが使った瞬間に、もともとマルクスにおいてマイナスのイメージのある言葉だったものが、プラスでもマイナスでもないところへ拡張された。そこが、ぼくには納得できないのです。むしろド・ブロス的なフェティシズムこそ、廣松さんの言う物象化と一致しますね。物でもないものをまず物として見るという現象、これはフェティシズムではごく自然な成り行きですから。それは、先ほど例に出しました、ぼくは日本人です、と言うのと同じで、何かの実体的な表現をしなければいけないので言っているのです。その部分は、プラスでもマイナスでもないんですよ。 

やすい ぼくも同じなんだけど、ちょっと違うのは、物でもないものを物という場合の「物」の概念が、廣松さんの場合、デカルト、スピノザのような形而上学的な実体概念で捉えているように聞こえるから、事物・物に対しては弁証法的に捉えるべきだと思うのです。と言いますのは、現代ヒューマニズムには「物への怖れ」があって、物化とか商品化とか否定イメージで捉えます。非人間的なことと思っているわけです。物との対置で人間性を擁護しようとしています。現実にはわれわれは商品世界の中に住んでいますし、いろいろ物を生み出したり、物として関係したりしなければいけない生活をしています。そういう中では物に助けられているし、物のはたらきを積極的に捉えるべきです。そういう意味でぼくは物を活きたものとして、弁証法的に捉えるべきだというのです。 

石塚 ぼくは「弁証法的」とは言わずに、「交互的」と言っているのです。螺旋的に向上するという進歩史観を考慮すると「弁証法的」となるけれど、ポジからネガへ、ネガからポジへと行きつ戻りつする運動過程でネガの部分を見てるという意味で転倒とか言っております。そういう運動中にあって固定していないネガのことを、ぼくはポジティヴ・フェティシズムに含めているんです。 

やすい 弁証法だったら進歩史観になるというのに対して、交互的なフェティシズムだったら、フェティシズム史観になるというわけですね。フェティシズム的に歴史が展開してきたということを具体的な歴史の展開にあてはめて言ってくれれば助かるのですが。 

石塚 一九世紀に始まる今の歴史観は、人間社会やその精神に備わる交互的二項をむりやり引き離して対立させ、現代人によって否定的に解釈されたほうの項を悪として切り棄てました。そして、この行為とその成果を進歩とか善だとか称してきたのです。そのような歴史像をフェティシズム史観で見直すと、すっかり様変わりすると思います。たとえばヨーロッパ諸国の植民地政策は、進歩史観では、ヨーロッパ人=優、非ヨーロッパ人=劣の二項対立と前者による後者の淘汰というように説明されます。ヘーゲルの『歴史哲学講義』が好例です。けれどもフェティシズム史観では、ヨーロッパ人の歴史と精神の核心に非ヨーロッパ性を発見し、後者によって前者を根拠づけます。世界史上の大方の文明はこうして誕生したのです。また、カニバニズム(人肉食)のようなものを、無知蒙昧な人間やる蛮行として、これに無条件に悪の烙印を押すとき、その行為にはすでに進歩史観ないし進化主義の価値観が入っています。まずは、それを取っ払うことです。 

やすい フェティシズムは一つの世界観として弁証法に匹敵しうるということですか? 

石塚 いやね「弁証法」という言葉も、必ずしも進歩史観と結びついていませんでした。多分近世になってからですよ。弁証法そのものは〔(正→反)→合〕といっても「合」で高みに昇っているとはかぎりません。案外フェティシズムと関係あるかもしれません。 

やすい 石塚さんの原始的なポジティヴ・フェティシズムに好意的な態度からは、「進歩」というものに対して、否定的な感情が感じられます。でも「進歩」というのは、人間が抱えているいろんな問題を、解決していかないとカタストロフィー(大崩壊)になっていくという場合に、一所懸命取り組んで解決していく、そして問題が解決されて危機が克服されたと思ったら、次の問題が出てきて、またそれと取り組んで解決しなければならないというような、人間の歴史にはそういう面があります。だからいろんな課題を解決しているうちに社会が変わっていった、それを発展とか進歩として見てるわけです。そのように捉えないとするとどのように捉えるわけですか? 

石塚 《昔ほど劣っていて、今ほど優れている》と捉えなきゃいいわけです。だから、かつて行なわれていたことに範をとって同じことをするというのは、ちっとも退歩ではないんです。日進月歩でハイテク機器が進歩していくので、老人は五年もすれば使いものにならなくなるというイノベーションの時代でしょう。そういう意味で老人を要らないと言ってますよね。しかしそのハイテクと別個のところでは、老人の智恵つまりローテクというのがあるわけで、それなりに居場所がありますよね。それがハイテクによってローテクの部分を排除することが、今まで進歩だと思われていたんだけれど、それは進歩じゃないんです。反対にローテク部分を残すことも、進歩と言ってもいけない。価値観によって快楽や幸福度が違うにしても、進歩とか退歩じゃなくて、われわれの生活の局面でそれを追求できる手段と見なされたならば、それを追求していくというか、まあそういうくらいです。進歩じゃなく退歩がいいとか、反文明史観だとか、原初のアルドラドだとかいう意味じゃないですよ。だから今のハイテク技術も必要だと認めます。 

やすい 一面的に技術革新されてどんどん進歩していく延長線上に未来を描くだけじゃなくて、もっと素朴な人間関係や愛情関係を大切にしていくとか、自然を大切にしていくということも大事なんだということですよね。 

石塚 それを言うと、今までの科学技術の発達をマイナス・イメージで言ってるように感じられる。けれど、科学技術の発達によって得られるわれわれの恩恵はもちろんプラスの評価をしてもいいわけです。ただ、それによってもたらされるマイナスの部分を解消するってことが大事なんですよ。マイナスの部分はだれかがどこかで背負うことになりますから。突出した進歩だけ見ていても、総体として進歩しているかどうかわかりません。そういう意味で進歩史観はこのままでは認められません。 

やすい 進歩史観に反対でも、反進歩でもなんでもないということですね。 

石塚 そうそう、今の多くの人はみんなそういう発想ですよね。もう楽観視している人はほとんどいないでしょう。快適な生活は必要だけれども、マイナスの部分が肥大化していくままでの快適は、やばいなと思っていますよ。

 

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