この論稿は『立命館文学』第373374(197678月号)に掲載されたものである。

das individuelle Eigentum”の翻訳問題
―再建論争への新視角―

                   保井 温(やすいゆたか)

目次
序章 “das individuelle Eigentum の再建をめぐる論争の意義
第一章 “das Eigentum”の二つの意味
第二章 “das individuelle Eigentum”の多義的用法
第三章 原始共同体の“das individuelle Eigentum
第四章 小経営と“das individuelle Eigentum
第五章 資本制社会と“das individuelle Eigentum
第六章 社会主義と“das individuelle Eigentum
まとめ

序章 “das individuelle Eigentum の再建をめぐる論争の意義

  社会主義によって再建される“das individuelle Eigentum@の意味についてエンゲルス、レーニンの説では生産手段の社会的所有に対する生活手段の「個人的所有」を指すとされる。Aこの説の弱点は資本主義における労働者の「個人的所有」の存在を否定しなければならないが、その点説得力を持てないことである。そこで“das individuelle Eigentum”が生産手段の所有を指すという見解が出された。しかし生産手段を個人が所有するというのは社会主義では考えられないので“Indiviuum”を「類」を分有する「個体」としてとらえ「個体的所有」と表現したり、B「個人」の意味を一個の人間ではなく「集団」と解することによって「個人的所有=協同組合的所有」とみなしたり、Cさらには以前の自営業の個人的所有が生産主体と生産手段の「本源的統一」を意味していたので「個人的所有=生産主体と生産手段の本源的統一」と解したりする見解が出されている。Dこれらの各説に対する評価、批判は後に詳述するとして、社会主義における所有をいかにとらえるかという問題として極めて重大な問題を孕んでいるといえる。

 社会主義では生産手段が社会的所有のもとに置れること、集団的所有にしろ、全人民的所有にしろ私的個人の所有を排して、社会的に所有され、管理されることに異論はない筈である。そのさい個人と社会との間に存在する矛盾をいかに解決して、各生産主体が所有主体になりえるかが最も重大な問題になる。これは社会的所有の組織論ともいうべきものの媒介が必要である。ともかく個人がそのまま所有主体として自己を主張することはできない。これに対して生活手段に関しては家族という形で個人的生活が営まれ、衣食住などの生活が家計単位でなされる限り、個人的所有が成立していなければならない。その意味ではエンゲルス・レーニンの生産手段は社会的所有、生活手段は個人的所有というとらえ方は「再建」云々を除外すれば社会主義における所有の自然な把握である。

 ただ社会主義における生活手段の「個人的所有」も生活手段を商品という形態で購入する限り、「私的所有」に属するものとみなされざるを得ない。そこで生活手段の「個人的所有」と「個人的私有」の関連が当然問題視されなければならない。この問題は私的所有の廃絶を歴史的任務とする社会主義の基本的間題であり、唯物史観からは、私有発生前→私有発生後→私有根絶という大きな視座でとらえられる。いわゆる無階級社会→階級社会→無階級社会という視座よりもっと基礎に属する問題である。これまでこの二つの視座が混同されるきらいがあったようにも観ぜられる。社会主義の任務はこのより基礎的な視座に基づいてはじめて達成されるのである。だとすれば現在、社会主義経済学が苦闘している商品生産論、価値法則論はこのより基礎的な視座を浮上させる絶好の材料たり得るし、またそうしなければならない。というのは商品交換の発生こそが私的所有の発生の契機であり、それゆえ商品経済の止揚こそが私的所有廃絶の前提であるからである。

私的所有の発生が商品の発生を契機としたものであるとする見解は一見常識的なように思われるが、その実、未だ確立された見解になっていない。その理由はマルクス自身が一方で共同体間交換を契機に商品の発生、私的所有の発生を説いているのに、他方で分業の発生から直接私的所有の発生を展開したりしてるところからもきている。Eしたがって私的所有の抽象的な範疇そのものが明確にされておらず、分業の論理や、生産手段をめぐる階級支配論が混入されている。その点へーゲルの「法の哲学」における「所有」の概念把握は私的所有の論理を明確に示しえていると思われる。

また私的所有の概念把握は「本源的な所有」との対極的な対比においてなされなければならない。この作業は『所有の二つの意味―へーゲルとマルクスの比較研究』(『哲学』25号所収)を参照していただくことにして、次章で簡単に紹介するにとどめたい。ただ「本源的な所有」と「私的所有」を「所有」の異なる形態としてとらえるのは誤りであること、「本源的な所有」は主・客未分化なものであり、人間が自然を自己の定在としてとらえることであるのに対して、「私的所有」は主・客分裂を前提にし、所有主体が所有対象を他者としてとらえ、この他者性を揚棄するところに成立すること、そのため「私的所有」は他者たる他の所有主体の存在を前提し、媒介とすることなどを確認して欲しい。

 極論のそしりをあえて受けるとすれば「本源的な所有」の段階は人間は未だ自然的段階、即ち人間の動物的段階であり、私的所有の段階になってはじめて人間は主・客分化を遂げ、人間の人間的段階に達しえたと考えられる。したがって明確な主・述構造を持つ言語の完成も商品交換の発生後と考えられる。F

「本源的な所有」と[私的所有」を同じ「所有」という概念の異った形態としてとらえることを克服し、それぞれの「所有」という語を全く異なる意味内容としてとらえること、同一性を否定することによってはじめて「私的所有」の明確な把握が期待できる。G人間は「私的所有」の発生、商品交換の発生によってはじめて人間になったのであるから、「私的所有」の廃止、商品の廃止は人間の既成の人間性の止揚という問題性を孕まざるを得ない。人間の動物的段階→人間の商品的(人間的)段階→人間の新段階という歴史的視座が要請される由縁である。その意味でこれまでの歴史は前史であり、共産主義は真の意味で人間革命である。

das Eigentum”が「本源的な所有」と「私的所有」の双方を意味するとすれば、“das individuelle Eigentum”の“das Eigentum”も二つの意味に解することが可能となる。同様にこの“indlviduell”も多義的に解することができる。語源的に“indlviduell”を解すれば「不可分離なものの」となり“das Eigentum”の原義が人間と自然との未分化、「固有」を意味しているところから、“das Eigentum”の原義としての“das individuelle Eigentum”を「不可分離な所有」とも解しうる。“das Eigentum”の二義性をふまえて、“das individuelle Eigentum”の多義的用法を看取することができれば再建される“das individuelle Eigentum”の意味もアポリアにぶつかることなく明らかになるだろう。

das individuelle Eigentum”の再建をめぐる論争の意義は社会主義における所有論に再検討を施し、社会主義の本来の任務としての生活手段の私有の止揚の課題を再確認すること、“das individuelle Eigentum”の検討をさらに深めて、“das Eigentum”の正しい把握をめざすことにある。この作業はまた人間存在の構造を乗り超えるべきものとして解き明かし、提示するための前提となる。本稿は“das individuelle Eigentum”の多義的用法をとらえることによって、各時代にどの意味でこの語が適用できるかを明らかにし、いわゆる再建論争に私なりの結着を示したいと考える。

                                               註

@Das Kapital, Diety-Ausgab,1.Bd.S.803S.84
Aエンゲルス『反デューリング論』(マル・エン全集第20p.135p.140大月書店刊)レーニン『人民の友とは何か』(レーニン全集第1p.165p.172 大月書店刊)参照。
B平田清明著『市民社会と社会主義』(岩波書店刊)同著『経済学と歴史認識』参照。
C福富正実著『共同体論争と所有の原理』(未来社刊)第6章、第四節「ゲルマン共同体論争と個人的所有」参照。
D長砂実『社会主義にかんする古典的諸命題の現代的意義』(汐文社『唯物論』創刊号所収)p.27p.28
Eマルクス・エンゲルス共著『ドイツ・イデオロギー』(マル・エン全集版)p.18,p.28参照。
F言語の起源を探究する言語学者は未開言語に主・述構造が少ないところから、主・述構造を持たない言語を考えがちてあるが、それは言語の定義を満たすものとは言えず、動物信号の音声信号が最高度に発達した形態てある。私の修士論文『労働概念の考察』 第三章、「第二節 自己意識の成立ー人間と自然との分離」〈その二、言語による分離〉参照。
G林直道著『史的唯物論と所有理論』(大月書店刊)第二篇、第一章「所有とは何か」では「所有とは、だれかが〔主体〕なにかにたいして〔客体〕自分のものとして関係行為することである。あるいはだれかが〔主体〕なにかを〔客体〕自分のものとすることである。」と規定している。しかし、主・客未分化でわがものとすることと、主・客分裂のうえでわがものとするのとでは「わがものにする」に共通の意味が見出せない。詳しくは拙稿『所有の二つの意味』参照。

 

第一章 “das Eigentum”の二つの意味

はじめに

・“das individuelle Eigentum”の解釈以前に我われは何よりもまず、“das Eigentum”の正確な把握を試みなければならない。私は拙稿「所有の二つの意味―へーゲルとマルクスの比較研究」(日本哲学会機関誌『哲学No25』)で“das Eigentum”に対するへーゲルの『法の哲学』でのとらえ方と、マルクスの『先行する諸形態』での「本源的な所有“das ursprüngliche Eigentum”」に対するとらえ方を比較した。そこでへーゲルの把握した「所有」は「私的所有」でしかなく、これに対してマルクスは「所有」の原義的な意味を持ち出し、「私的所有」でない「所有」こそが「本源的な所有」であることを明らかにしていることを解明した。

このマルクスの「本源的な所有」の意味と「私的所有」の音一味を比較してみると何ら共通の意味内容を持っておらず、無理に両者に「所有の一般的規定」という橋を渡すと、「所有]は「人間の対自然関係」に還元され、「所有」という語そのものが成立しない。だから拙稿において私は「所有」は「私的所有」と「本源的な所有」という二通りの意味で使われる語であり、この語の使用においては常にこの二義性の明確な自覚が前提されなければならないことを結論しておいた。以下拙稿の論点を要約的に示し、“das Eigentum”の二義性にもとづく“das individuelle Eigentum”の多義的把握のための土台を示しておきたい。

その1  へーゲルの所有論

『法の哲学』で所有は人格(意志)による物件の排他的支配として把握されている。そこでの人格(意志)と物件の関係は、明確に主体・客体の両極に立ったものである。この主・客関係はたんに存在論的に即自的にあるに止まらず、認識論的にも、対自的にも主・客の両極を構成する。所有主体は意志として主体的、実体的なものであり、所有対象は物件として非主体的な、非実体的なものである。Hこの主・客図式においては対他関係として所有主体と所有対象が把握される。またそれは所有主体である人格が他の所有主体と他者として対峙する関係、人格相互間の分裂が前提である。

生産関係においても所有主体に対して、身体―道具―生産物―自然諸条件がそれぞれ有機的な連関を断たれ、物体として個物化され、それぞれが他者関係において把握されている。このように自然の有機的全体的把握は分解し、人間的な悟性的、物体的な世界存在の了解がなされる。このように主・客図式、対他関係のもとに、へーゲルは所有を「私的所有」として把握するのである。

 へーゲルは所有を占有取得―使用―譲渡の三つの契機からとらえる。所有は先ずもって私が他者の意志を排して物件をひとりじめする占有取得であり、それはその対象の使用をとおして実証される。しかも使用が所有対象の使用であるためには、使用対象は占有取得するに価いするものとして価値物でなければならず、そのことは対象の譲渡を通して実証される。これがヘーゲルの所有の概念把握である。

 この譲渡は所有物の譲渡である限り、価値を持つものとして交換されるものでなければならないから、交換をとおして、所有は実現される。この意味からも、へーゲルは所有を私的所有者間の交通関係としての商品関係(市民社会)の中で了解していたものと推察される。

                                        

Hへーゲル『精神現象学』序論では主観こそが実体的なものであり、客観は主観の自己疎外態にすきず、止揚される非実体的なものにすさない。これが『法の哲学』では意志と物件の関係において表現される、意志が物件を自己の現存在の圏としてとらえることによって、その他者性、自立性を止揚し、自己の支配に置くこと、そのことによって意志の実体性を確証することが所有である。
 

その2 マルクスの「本源的な所有」論

マルクスは『先行する諸形態』で所有の本源的な意味を明らかにしているが、そこでは所有は本源的(原義的)には主・客未分化な存在構造の中でとらえられている。所有主体は所有対象をわが身として即ち、自己の身体の延長をなすにすぎないものとしてとらえる。言いかえれば、人間は自然を人間固有の定在としてとらえるのである。そのことはまた、人間が自分自身を自然の一部をなすにすぎないものとしてとらえることも意味する。このような人間と自然の一体性に基づく、自然への関係行為を所有としてとらえるのである。

この主・客未分化の図式のもとでの人間の自然に対する関係行為はまた生産と同一である。つまり、所有は本源的には生産(労働)である。また個人として非力な人間は共同団体に属することによって自然との関係行為をなしうるから、所有は共同団体への帰属をとおして成立する。だから本源的な所有は共同団体による自然との関係行為であったわけである。

このような本源的な所有は、へーゲルの「所有」概念とは何ら共通性を持たない。しかしマルクスは“das Eigentum”の原義が自然を自己と一体化すること、即ち「固有」「わが身とすること」を意味していたと考え、主・客未分化にもとづく人間の自然との関係行為を本源的な意味での“das Eigentum”としたわけである。これを私的所有以前の原始社会の論理として採用したのである。

ただし、マルクスは所有の本源的な意味とともに、「本源的所有」の諸形態を展開するが、この「本源的所有」と「本源的な所有」は区別しておくべきである。というのは所有の本源的な意味は、「本源的所有」のアジア的・ローマ的・ゲルマン的形態では完全な意味では適用できない。「本源的所有」とは共同団体の所有を意味しており、本源的な所有が私的所有の発生によって弱められてゆくなかで共同団体の規制として残存したものである。

まとめ

ヘーゲルの「所有」(私的所有)とマルクスの「本源的な所有」を比較して、これらを所有の全く異なる二つの意味としてとらえることができた。そこで「所有」と一口に言ってもそれが「私有」を表わすのか、本源的な意味での「固有」を表わすのかが問題となる。“das Eigentum を「所有」と訳すと「所有」という語の原義も結局「我が手にあること」であり、「我が身とすること」になるから、「私有」と「固有」を区別することはできない。“das Eigentum”が「私有」か「固有」かが文脈から自明でないかぎり、「私有」・「固有」と訳し分けることが必要である。だから“das Privateigentum”も“das Eigentum”が「私有」であることを明確にするために“privat”を付加したと考えるべきである。

第二章           das individuelle Eigentum”の多義的用法

・“das individuelle Eigentum”は辞書によれば「個人的所有」「個体的所有」と訳す以外に方法がないと思われる。ところがこれらは後に詳述するが、社会主義社会において社会的所有にもとづいて再建されるものとはどうしても考えられない。これらの訳の枠での論の展開はどれも納得しかねるものである。そこで“das Eigentum”の二義的解釈で用いた方法、つまり原義的解釈法を用いてみることにする。

 “individuell”というドイツ語は語尾からみてフランス語からの外来語である。フランス語の“individuel”は名詞“individu”が語形変化したものである。“individu”は「個人」「個体」を意味するが、動詞“diviser”(分ける)に不可能を示す、“in”が付加されて名詞化したものであって、原義的には「分けられないもの」を意味する。そこで“individu”の形容詞化としての“individuel”は原義的には「分けられないものの」とか「分けられないものに関わる」という意味になる。Iだから“propriété individuelle”は「分けられないものの所有」とか「分けられないものに関わる所有」と訳することもできる。ところで、“propriét锓Eigentum”の原義は「固有」であり、対象を自己と一体なものとして取扱うことである。つまり所有主体と対象とは「分けられないもの」なのである。本源的な所有において人間は自己を自然から、道具から、用在一般から、共同体から分離することができない。このようなものとしての主体が対象を自己の定在として取扱うこと、これが“das individuelle Eigentum”なのである。つまり“das Eigentum”の本源的な意味が“das individuelle Eigentum”なのである。

そこで“das individuelle Eigentum”が“das Eigentum”の原義ならば所有主体と対象の「本源的統一」「不可分離性」を“individuell”が指示していることになり、これは「不可分離的な所有」と解釈することができる。つまり“individuell”は「不可分離なものの」であり「不可分離な」ではないが、ここでは同じ意味だということである。だとすれば、「個人的所有」との混同を避けるために“das unteilbare Eigentum”・と表記すペきではなかったかと思われる。この疑問は至極当然で、なにしろ親友のエンゲルスでさえこれを誤解し、しかもマルクスはこの誤解を正さなかったのである。そこでマルクスもエンゲルス同様に使っていたとする通説が説得力を持つ。私はこれを詮索する力はないし、マルクスもまたエンゲルス同様の誤りに陥っていた可能性を否定するつもりはない。ただ私はマルクスが“das individuelle Eigentum”を「不可分離な所有」という意味にも使ったとすればアボリアは解消されることを主張するだけてある。

私はわざわざマルクスが「不可分離な所有」を示すために“das individuelle Eigentum”を使用した理由を次のように考える。一つは原義的把握に強い関心があったことである。これは、“das Eigentum”の原義的解釈により「本源的な所有」の論理を解明したこと、“das Individuum”をフォイエルバッハ批判をとおして、共同体分解から生じたこれ以上「分けられない」主体として把握したこと。つまり「分けられないもの」を“das Individuum”の語によって主に表象していたことなどからそれはうかがえる。無理な憶測をすれば、“unteilbare”よりも“individuell”という造語を選好したのである。しかしこれはもう一つの理由がなければなされる筈はなかった。もう一つの理由とは“das individuelle Eigentum”の多義的用法である。J

ゲルマン共同体での“das individuelle Eigentum”は「個人的所有」であるが、一方、土地と切り離せない「不可分離な所有」であった。マルクスは「個人的所有」を表わすために“das individuelle Eigentum”を用いたとき、この語が「不可分離な所有」をも意味しえることに気づいたのである。第一の否定の対象である小商品生産における“das individuelle Eigentum”も同様である。「個人的私有」であるとともに生産者(=所有者)と生産手段の「本源的統一」「一体性」「不可分離な所有」もそこに表現されている。後に再建されるものはもちろん後者「不可分離所有」の面てある。内的不分割を示す「個人」と外的不分割を示す「不可分離性」がうまくかけ言葉になっている。実に便利な多義性である。

マルクスはdas individuelle Eigentumを多義的に使っていることを解り易く説明すべきだった。しかしそうしていないから多義的用法を用いていないとは断言できない。私としてはただ多義的用法を用いたと仮定してそれを私なりに歴史に順を追って適用してみることにする。それがもし、アポリアを解消するならばマルクスもそう考えたことにすればよいのである。マルクスがどう考えていたかは事実問題として重要なのではない。マルクスの理論は我われの理論構築の手がかりとして有効なものであればよいのである。かといって勝手な解釈を下し、マルクスを歪曲して、偽マルクス理論を振り回わすことは許されない。マルクスもこう考えたのではないか、もしそうだとすればマルクスも私とともに正しいと主張すればよいのである。

                                             

Iラテン語では“individuum”は「原子」を意味する。これの形容詞は“individuus”であり、“in”は否定“dividuus”は「分けうる」「分けられた」「分離された」を意味するので、この意味は「分けられない」「不可分離な」となる。なお「分つ」「離す」「区別する」などを意味する動詞“divido”は“dis”と“vid”からなり、“dis”は「分離」を示す接頭辞で、“vid”も「分割すること」を意味している。“vid”は“vidua”と関連していると考えられる。ちなみに“vidua”とは「寡婦」「未亡人」であり、つまり分れた片方を意味している。
 このようにラテン語においては“individuus”は「個人の」という意味ではかえって常用されておらず、「不可分離な」というのが日常語になっていた。“individuum”も「個人」より「原子」であり、これ以上分ちがたいものである。

J林直道著『史的唯物論と経済学下』(大月書店刊)第三章193頁「人間の持っている語彙は案外少いものだから、異なった内容がたまたま同じ言葉で表現されることがある。たとえば「個人的所有に条件づけられた個人経営(エンゲルス『フランスとドイツの農民問題』)、「個人的所有を維持しながら設立されるプルードンの株式会社」(『共産主義通信委員会』)等々。これらは同じく、「個人的所有」だが中身は全然別のことである。言葉は同じでも、直ちに同じ概念とすることなく、その内容から判断しなければならないのである。」この見解からさらに進んで“das individuelle Eigentum”の訳語も「個人的所有」に限定しない態度をとるべきである。


          第三章 原始共同体の“das individuelle Eigentum

その1 原始共同体における個人的所有

「急がばまわれ」ということわざがある。das individuelle Eigentumが社会的所有において再建されるとはいかなる意味かという問題は一たん置いて、das individuelle Eigentumという語の広い使用怯を確認するために原始共同体に戻ってみよう。

「本源的な所有」という語の本来の意味が完全に適用されうるのは私有発生以前の原始共同体においてのみである。主・客未分化な共同団体の自然への関係行為として本源的な所有は定義される。ここで自然は共同団体の身体であり、共同団体はまた自然そのものであって、ここではその構成員にとって共同団体への帰属が自然との関係行為なのである。主・客未分化とはそういう状態をさしている。したがって共同団体の所有を離れて個人の所有は成立せず、その意味では個人的所有は確立されないように思われる。しかしこの本源的な所有を私有のごとく「物件の排他的支配」と考えてはならないのであって、本源的には所有は専ら、人間と自然との不可分離な関係を示していたのである。また同様に共同団体と構成員との不可分離な関係、共同体における規制をも意味していたのである。K

構成員が共同体と不可分離であるように個々の構成員も常携する労働用具や、生活用具との関係もやはり不可分離な関係である。これは共同団体の生産力の発達に伴う分業の発達、世代婚からプナルア婚への発達にみられる母系制家族の発生によって重要になってくる。分業の発達によって母系制家族単位に労働用具や生活用具が使用され、共同体のそれぞれの構成員は労働用具や生活用具に対して、個別的、個人的な不可分離性を強めることになる。かくして「個別的(個人的)な不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」が顕著になる。これを人類学者は原始共同体からすでに私有財産は確固たるものであったと解釈するのである。Lしかし、この個別的(個人的)所有は本源的な所有におけるものであり、私有とは全く異なっている。


                          

KKarl Marx, Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, Europäische Verlagsanstalt Frankfurt Europa Verlag Wien-Ausgab. S.393 カール・マルクス『 資本主義に先行する諸形態』 (手島正毅訳、国民文庫版p.40p.41

L安田徳太郎著『人間の歴史
5p.85p.92

その2 私有の発生と共同体分離

私有の発生の契機は交換である。交換の発生は本源的な所有の段階では共同体内に発生することはない。本源的な所有では共同団体の協同労働と分配が原理であり、他者間の交通である交換は生じえない。また親縁の共同体間の交通も本質的には分業と分配の原理であるから、そこで現われる送り合いや、大盤振舞いも交換ではない。Mしかし、プナルア家族間、親縁共同体間でのこのような送り合いが基礎になって無縁な共同体間での交換が生じることになる。

交換の主体は人格として他の人格と対峙することにおいて一つの意志とならなければならないから、共同体全体が一個の人格、一つの意志によって統御される。そこでは共同体は私的所有の主体であり、だから私的所有は先ず共同体的所有(共同体的私的所有)として始まる。Nだから共同体的所有も私有発生前の本源的な所有と発生後の私的所有の両方が考えられる。そのうえ、私有発生後の共同体的所有は対外的には私的所有であるがゆえに対内的にはこの主体が一たらざるを得ない以上、共同体の成員をこの一に帰属させる規制として機能することになり、そのため本源的な所有の面が対内的には残存することになる。これが「本源的所有」である。O

私有発生による共同体全体の人格化はその一つの意志を共同体首長に体現することによって、つまり共同意志の首長への受肉をとおして実現する。だが首長の恣意に共同意志を信託することはできないから、首長は自己の人格性の否定をとおして、つまり祭祀をとおして神たる共同意志の受託者になる。

ところで共同体間交換は親縁的な共同体間交通やプナルア婚による家族間交通にも反映し、やがて私的所有の主体が共同体全体から家族へと分解する。かくして家族単位の「個別的私有“das individuelle Eigentum”」が成立する。この家族単位の私有の対象は生産物から道具、家屋へとひろがる。必然的に家族間の貧富の差、利害の対立が生じ、首長層による成員の特権的支配が展開する。この問題は「本源的所有」に関する『先行する諸形態』での叙述の再検討として別稿で詳しく論じる予定である。
 

                          
 

M安田徳太郎前掲書p.61p.85 マルセル・モース『 贈与論』(有地享訳 勁草書房刊)ははっきり交換としているが、現代社会の交換とは区別している。

N私的所有と個人的所有の区別が明確でないと「共同体的私的所有」という表現は理解できない。


O本稿 第一章 その
2
 福富正実氏は前掲書第4章、第二節で「本源的所有」の「本源的形態」としての「直接的な共同占有」とこれが《土地所有の独占》として歴史的に発展したものとしての「本源的所有」を区別している。しかしマルクス自身はアジア的・ゲルマン的・古典古代的所有を「所有」の「本源的な形態」として分類しており、この区別は『諸形態』段階での原始共同体認識の不充分さを反映して明確ではない。
「本源的な所有」と「本源的所有」を区別するといっても「な」が入るだけで異なる意味を表現しえるわけではない。だから「本源的な所有」を「本源の所有」として、「本源的所有」と区別した方がより正確とも思われる。しかし私有発生後においての生産主体と生産手段の不可分離な関係も含めて考える場合「本源の所有」よりも「本源的な所有」とする方が解りよいかとも思われるので「本源的な所有」と暫定的に表記しておいた。いちおうここでは「な」が入るだけで意味が変わるのだと約束事として了解しておいていただくことにする。
 

第四章 小経営と“das individuelle Eigentum

その1 ゲルマン共同体での家族的所有

das individuelle Eigentum”という語をマルクスは『先行する諸形態』ではゲルマン共同体の説明で使っている。この場合は「個別的な不可分離な所有」という訳が最も適切であると思われる。原始共同体が農耕を主とするようになると、協同労働はやがて灌漑工事その他特に多人数を要する仕事に限定されるようになる。そして世帯共同体(家父長家族、戸)に土地が分配され、定期的に割替えられるようになる。これがゲルマン共同体では森林での散居制となるところから、不能率な土地割替えの習慣はやがてすたれて自由な土地所有となり、世帯共同体=家父長家族は土地を自己に固有な「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」とする。

共同体からみればこれは成員へ共同体の土地を個別的に所有させることである。だからこの、“das individuelle Eigentum”は「不可分離な所有」という意味と「個別的所有」という意味の双方がこめられていると解すべきである。

 マルクスはローマ共同体においては成員の土地私有と表現しているPので、このゲルマン共同体の「個別的所有」が私有の段階にないものと考えられていたと思われる。ゲルマン共同体はローマと境を接し、ヨーロッパの広範な地域をおおっていたから、地域によっては「私有」意識に強弱は当然考えられるが、「私有」以前の本源的な所有が優勢であったと考えるべきである。Q

 また、この値別的所有の主体は、ゲルマン共同体成員でなければならないという意味では共同体の所有としての「本源的所有」を構成するが、個別的所有の内部では家父長家族の規模での「本源的な所有」つまり私有以前の集団的な所有が支配的である。

 後にゲルマン共同体の所有はこの本源的な所有に属する「個別的所有」の段階から完全な土地譲渡権を持った土地私有に発達する。Rしかし、その段階でも家父長家族による独立自営の小経営生産様式(この小経営は相対的な表現で共同体全体による経営に対しては小経営だが後の単婚小家族による経営と比べれば大経営である。)という点では変らない。その意味では「個人的所有“das individuelle Eigentum”」に含まれる「個人的私有“das individuelle Eigentum”」である。ゲルマン共同体における「個別的所有」が「個別的」であるのは共同体全体の「共有地」に対する共有に対してであると同時に、共同体成員が世帯共同体ごとに「個別化」していることに起因している。


                          

P
Karl Marx, Grundrisse der Kritik der Politischen Ökonomie S.378S.380『資本主義に先行する諸形態』 (国民文庫版p.12p.16

Qエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』(国民文庫版)
p.186p.l87

R福富正実著、前掲書、第
3章、第三節、参照。

              その2 自営業者における個人的所有

商業が古代から都市を中心に発達し、現代に至るまで重要な役割を担っているのは周知のことだが、商人たちが金銭や商品に対して私有者であり、通俗的な意味で彼らが個人的所有の主体であることは自明である。また都市における手工業も古代から独立自営業として営まれてきた。しかも商品生産として営まれてきた以上、手工業者も同様に私有者であり「個人的所有(個人的私有“das individuelle Eigentum)」の主体であることは自明である。

 ただ注意を要するのは手工業者の「個人的所有」である。手工業者は自己の生産物を商品として私有し、それ故、自由に販売するが、生産用具(=生産手段)に関しては自己の熟練に伴ない自己に不可分離な(自己に固有な)手の延長としても意識している。このような手工業者と生産用具との関係は「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」である。だから手工業者は生産用具に対して「個人的私有」の主体であるとともに「不可分離な所有」の主体でもあるといいうる。“das individuelle Eigentum”はこの場合も二重の意味がこめられていると解すべきである。個人的私有の側面は、たとえ不可分離な生産用具と言えども所有主体の自由な意志で譲渡、売買が可能であるし、実際行なわれてきたことによって保持されている。

 農業もかなり長期に亘って独立自営が有力である。農耕共同体(アジア的共同体)における協同労働、定期割替えの時期がすぎ、家父長家族による個別的な土地所有が確立された段階から、独立自営農による耕作が広範に行われる。ローマ的共同体における成員の土地私有、ゲルマン共同体における成員の個別的土地所有、封建制での農奴の土地占有、金納貢租の段階での自由な独立自営農、資本制社会での自作農等において、土地に対する私有権の有無、強弱にかかわらず自営農民は耕作している土地を自己に固有なものとして、自己の非有機的身体として意識しており、まさしく彼らは「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」の主体なのである。

第五章 資本制社会と“das individuelle Eigentum

その1 第一の否定の対象である“das individuelle Eigentum

資本制社会では生産手段は資本家階級に専有(ひとりじめ)されており、労働者階級にとって生産手段は外的なものである。労働者は自営の手工業者や自営の農民のような生産手段と不可分離な(unteilbar)関係にはないのであって、“das individuelle Eigentum”は否定されている。これが第一の否定である。マルクスのいう問題の第一の否定とは本源的蓄積による生産者と生産手段の分離、すなわち、生産者が生産手段に対する「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」から解放されて、自由な裸一貫の労働力になることを指している。もちろん、この「不可分離な所有」の否定は、「不可分離な所有」が「個人的所有」の形をとっていたため、「個人的所有」の否定を伴なうが、後の否定の否定に対する第一の否定としては、否定されるのは「不可分離な所有」の面である。マルクスは「資本主義的私有も自分の労働にもとづく“das individuelle Eigentum”の第一の否定である。」Sと表現している。ここでの“das individuelle Privateigentum”は「個人的な私有」であるとともに、自分の労働にもとづいているところの生産者の生産手段に対する「不可分離なものの私有」である。“das Eigentum”、
は「私有」と「本源的な所有=固有」の両義があるから“das individuelle Privateigentum”は“das individuelle Eigentum”と表記しても意味は変らない。

 ここで問題点としては第一の否定で否定されるのが“das individuelle Privateigentum”なのに否定の否定で再建されるのが“das individuelle Eigentum”であるということがあげられる。再建される“das Eigentum”が私有ではないのに、第一の否定で否定されるのも私有であってはならない筈である。だから“das individuelle Eigentum”という類概念でもって“das individuelle Privateigentum”と“das individuelle Eigentum”を包摂し、この類概念の面が再建されると説明したくなるが、それは“das Eigentum”の二義性を無視した説明である。「私有」と「固有」は全く異なる意味を持つから「私有」の再建が「固有」てあることはできない。先述したように“das individuelle Privateigentum”は「個人的私有」と「不可分離なものの私有」の複合したものである。後者の面が再建されると考えられる。しかし、これも「私有」には違いないので「固有」として再建されることはない。この不可分離な面だけが再建されるわけである。

 ここで「不可分離なものの私有」について検討してみる必要がある。「私有」は譲渡、売買しうることが前提であり、所有主体と所有対象の他者性が保存されている。だから「不可分離なものの私有」はそもそも成立しないかに思われる。ところが手工業者や自作農の生産手段に対する所有は、商品世界にあっては明らかに私有であり、譲渡、売買されうるし、実際されるが、日々の労働においては生産手段は生産者の不可分離な非有機的身体であり、この意味では「不可分離な固有」である。だから「不可分離なものの私有」は「私有」でありながら「不可分離な固有」をその中に保存しているものと解すべきである。また第一の否定の対象である“das individuelle Privateigentum”は、それ故、「個人的私有」と「不可分離なものの私有」の複合であり、その中に「不可分離な固有」を保存していると解すべきである。

 たとえ「不可分離な固有」の面を保存しているとしても第一の否定の対象を“das Privateigentum”と表記するのは誤りである。
 私は第一の否定の対象はやはり“das individuelle Eigentum”と表記されるべきであると考える。この語は「個人的私有」の意味と「不可分離な固有」の意味を複合することができるからである。「個人的私有」に含まれていた「不可分離な固有」の面が再建されるという論旨が明らかになるとまではいかなくとも矛盾しないとは言える。もちろんマルクスが全く別の意味で使っていたら話しは別だが、それならそれでまた別の論理的な矛盾に逢着する。21

                         註

SKarl Marx, Das Kapital, Diez-Ausgab, 1.Bd. S.803S.804

(21)
別の意味とは第一の否定の対象が生活手段の個人的所有であるという立場である。これはエンゲルスが主張し、レーニンが支持し、現在林直道氏が『史的唯物論と経済学下』『史的唯物論と所有理論』で強調されている。
 

                               その2  労働者の生活手段の私有

資本家と労働者の関係は形式的には対等な契約関係である。資本家は労賃を、労働者は労働力を出し合って交換する。労働者は自己の能力としての労働力だけは所有しているわけであり、これも「個人的所有“das individuelle Eigentum”」と言える。この労働力は自己の身体に「固有」のものであるから「不可分離な所有」であると身体に即しては定義されるが、私有の主体である人格(意志)は自己の労働力を他者と見倣して譲渡、売り渡しが可能であり、その意味では「個人的私有」の対象である。では何故に労働者は自己の労働力を売るのか、それは労賃を得ることによって生活手段を購入するためである。なぜなら労働者は生活手段を私有しなければ生きてゆけないのであるから。だから、この生活手段の私有は労働者の根本的な存在のあり方である。労働者は家庭において生の再生産と種族の再生産を営むわけだから、これに必要な生活手段(生活資料)を入手するため、自己の能力を労働力として売るわけである。この生活のためという労働者側の目的と、資本家側の最大限利潤の追求とが妥協するところが最低限度の生活費としての労賃である。このように労働者は「家族形成者=生活手段の私有者=賃労働者」という三位一体の存在構造を持っており、このどの面も軽視されてはならない。

 よく労働者は無所有だといわれるが、たしかに生産手段に関しては無所有であるが、生活手段に関しては無所有な労働者など存在しない。なぜなら生活手段を所有しなければ奴隷でない限り、生存できないからである。生活手段に関しても無所有だというために、最低限の生活手段しか持たないため、日々これを消耗してしまうので無所有なのだのと主張する人がいる。22しかし労働者は生存している限り、生活手段の所有を更新しつづけるのであって、無所有が数日も続けば飢死か行き倒れである。生活手段の無所有は労働者にとって常に陥いりやすい危険としてあり、資本家と比べれば比喩的には言えることではあるが、労働者が生活手段の立派な所有者であるということは、血と汗で生活手段の所行を維持している労働者の名誉にかけて確認しておかなければならない。

この労働者の生活手段に対する所有は「個人的私有“das individuelle Eigentum”」であり、土地・家屋、耐久消費相などは私有の対象であるとともに自己に固有のものであるという意味で「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」でもある。

                      

(22)
林直道著『史的唯物論と所有理論』 p.264p.266参照。この問題についての田口富久治氏と林直道氏の論争は興味深い。


            第六章 社会主義と“das individuelle Eigentum

              その1 否定の否定によって再建される“das individuelle Eigentum

ではいよいよ否定の否定によって再建される“das individuelle Eigentum”とは何かを検討しよう。問題の個処のフランス語版の林直道訳を引用してみよう。「資本主義的生産様式に照応する資本主義的取得は、独立した個人的(et individuel)労働の必然的結果にほかならぬ私的所有の、第一の否定をなす。だが資本主義的生産はみずから、自然の転態を支配する不可避性をもって、自分自身の否定をうみだす。それは否定の否定である。これは労働者の私的所有を再建しはしないが、資本主義時代の後得財産にもとづいて、すなわち、協業や土地を含むすべての生産手段の共同占有にもとづいて、かれの“propriété individuelle”を再建するのである。」(23)横線部がフランス語版でつけ加えられた個所である。この個処の「私的所有」は労働者の私的所有が資本主義でも社会主義でも生活手段に関しては存在していることから考え合わせると、生活手段に関してではなく、生産手段に関して述べられていると解すべきである。

つまり当然のことながら、労働者は生産手段を私有することは社会主義ではできないのである。協業や生産手段の共協業や共同占有にもとづいて“propriété individuelle(das individuelle Eigentum)”を再建するのである。協業や共同占有にもとづくのであるから“propriété individuelle”は「個人的所有」ではない。生産者が生産手段を自己と不可分離なもの、固有なものとする「不可分離な所有“das individuelle Eigentum”」である。(24)

この場合「不可分離な所有」は「社会的所有」の一面を表わしている。「社会的所有」には二つの面があるのであって、一つは協業を伴う「労働者総体の生産手段に対する共同占有」であり、もう一つは「労働者総体の生産手段に対する不可分離な所有(固有)」である。

 異説として「自己労働にもとづく所有」の再建という面を強調して“das individuelle Eigentum”を「個体的所有」と解すべきだという見解がある。(25)「社会的所有」を「個体的所有」だとする場合、所有主体としての個体は即類体であり、そこには所有主体としての労働者階級の総体性と個人性の矛盾が措定できない。

私は「社会的所有」はやはり労働者諸個人が自己の総体性において所有主体であるのであり、単なる個人としては所有主体にはなりえないと考える。たしかに、所有を主体化する個体において、所有主体としての諸権利が尊重され、その主体性が充分に発揮できるようにしなければならないが、生産手段に対する所有主体としての社会全体は個人をそこに取り込み統制する権力であることを忘れてはならない。直接、無媒介に諸個人がこの権力になることはできず、社会主義的法秩序、即ち民主集中制によって諸個人は自己の意志を権力に転化することができるのである。

このように社会と個人の矛盾、諸個人間の思想的、理論的、政治的闘争、自己の思想が総体のものになるための絶えざる闘争、批判と自己批判をとおして、社会的所有はその総体的な統一性を確保し、発展のエネルギーを与えられるのであるから、「社会的所有」を単純に自己労働にもとづく「個体的所有」だとして個体に固有な権利関係に解消することはできない。

ただ社会主義の官僚主義化が社会的所有の個体的担い手である諸個人の所有主体としての固有な市民的諸権利を侵害しているという社会主義の現状批判としては、「個体的所有論」の存在を無視することはできない。(26)

以上のごとく再建される“das individuelle Eigentum”は社会的所有の一面としての「不可分離な所有」であり、社会的所有の性格からみて「個人的所有」や「個体的所有」ではありえない。だからこの社会的所有が全人民的所有であるか集団的所有であるかに一応無関係に“das individuelle Eigentum”は「不可分離的所有」であるとすべきである。

ところでゲルマン共同体での“das individuelle Eigentum”が家父長家族による私有でない集団的所有を意味しているところから、再建される“das individuelle Eigentum”を社会的所有の一形態である「集団的所有」を指すものと解すべきだという見解がある。(27)これは“indlviduell”を「個人的」と訳すが、個人とは一個の身体を持つ人間一人のことではなく、この場合は一つの集団が人格を持っものとみなされている。家父長家族やコルホーズが個人なのである。

個人と集団は我われの常識の概念把握からは対極概念に思われるが、たしかにゲルマン共同体での家父長家族は世帯共同体として集団であり、これが共同体成員として個人と見做されている。協同組合も所有主体としては分割不能であるから個人(?)である。双方とも所有主体=生産主体としての最小単位であり、これ以上分割されない一としての集団である。だから“das individuelle Eigentum”は、「分割されない単位の所有」として「個人的所有」だとするわけである。

 しかし分割されない単位を個人と表現するとかえって分割されない単位という意味が通じなくなる。私は“individuelle”の原義は一分割不能なものの」という意味であるから“das individuelle Eigentum”を「分割されない単位の(最小単位の)所有」という訳も可能だと思う。たしかに“individuelle”の原義は「不可分離なものの」というより「分割不能なものの」により近いといえる。

結局は第一の否定によって否定されるものが何であり、否定の否定によって再建されるものが何であるかによってこの訳語は決定されるべきである。資本主義的私有が否足するのは自己労働にもとづく“das individuelle Eigentum”であり、この中にゲルマン共同体の世帯共同体の集団所有が含まれるとしても、小経営の手工業や、自営農も含まれるわけであるから、再建されるのが「集団的所有」のみであるというのは説得力に欠ける論理である。また再建される所有が社会的所有の一般的叙述の中で位置づけられている以上、わざわざ「全人民的所有」に対置する「集団的所有」に限定するのは不自然だと思われる。

社会的所有が最初から全人民的所有の形をとるか、はじめは集団的所有を主要な形とするかはその時点での資本の集中がどの程度進んでいるか、資本主義的生産様式がどの程度普遍化しているかによって決定されることが多い。だからマルクスの生きた時代においての革命による社会的所有は協同組合的所有の連合体となるだろうと予測するのは当然だったかもしれない。(28)現代日本の社会主義革命を想定する場合は独占企業の国有化、中小企業の漸進的な協同組合化がさしあたり構想されうる。


                         

(24)
長砂実氏は『社会主義にかんする古典的諸命題の現代的意義』(汐文社『唯物論』創刊号所収)でp.27p.28で「ここで最初に定立されているのは、私有という性格をもった個人的・家族的規模での「労働者と労働条件との本源的統一」であり、「否定の否定」によって「再建」される「個人的所有」とは、「社会的所有」という性格をもった社会全体の規模での……「本源的統一」である。ここでマルクスが「否定の否定」の結果として「個人的所有」が「再建」されると述べたのは、最初の定立における「個人的所有」とそれとの共通的特徴を強調しようとしたものと考えることができる。」と述べておられる。「労働者と労働条件の本源的統一」が「再建」されるという見解は正しい。しかし「個人的所有」は再建されるわけではないから社会的所有における「本源的統一」をも「個人的所有」と表記することはできない。

(25)
平田清明氏の前掲二書参照。

(26)
討論、平田清明、左藤経明、正村公宏「社会主義における経済と人間」(『世界』19704月号所収)では平田清明氏の「個体的所有論」が社会主義における市場メカニズムの重視と結びついているのがわかる。これに対する批判としては河口圭二の『プ口メテワス](立命大哲学自主ゼミ機関誌)No.7の書評がある。
 社会主義における自由の問題は『科学と思想』No.15『総特集 マルクス主義と自由』(新日本出版)の諸論文の提起した問題点を検討すべきである。

(27)
福富正実氏の前掲書、第1章、第二節参照。

(28)
マルクス『フランスの内乱』(全集第17巻 大月書店刊p.319p.320)


                             
その2 社会主義での生活手段の私有

社会主義は生産手段に関しては社会的所有の形態をとっており、この基本的形態としては全人民的所有と集団的所有とがある。いずれにしても労働者はその個人性において所有主体であることはできず、自己の総体性をとおして所有主体たらざるを得ない。総体性の自覚は個人にとっては媒介的たらざるを得ないから、これが深まるのは容易でない。しかも全人民的所有=国有ともなるとかなり高度な政治的、理論的、思想的訓練が必要である。どうしても労働者は個人的な動機から労働を引き受けがちである。これが生活者としての自覚である。

社会主義においても労働者は先ずもって家族形成者であり、家族の生活手段を得るために労働力を社会に提供する。たしかに社会総体からみれば労働者は総体性においては所有主体であるから労働力の売買は行われていないと見なしうるが、個々の労働昔にとっては社会のために働くのは労賃を得て生活手段を得るためである。だから、これは労働力と労賃の父換関係である。したがって労働力はやはり商品としての性格を強く持っている。これが社会主義における商品流通、市場経済の基礎である。スターリンは社会主義社会における商品生産を全人民的所有と協同組合的所有という二つの所有形態の存在、全人民的所有の不徹底に原因を求めたが、より根本的には労働力売買が原因である。(29)これを完全に廃棄しないかぎり私的所有は根絶されず、市場経済が持続し、共産主義社会には到達しえない。

 労働力が商品として売買され、労賃をとおして生活手段を手に入れる限り、労働力とともに生活手段も私有である。また消費生活が家族単位で営まれる以上、彼の生活手段は「個人的所有」の対象である。この生活手段の所有がたとえ労働力の再生産、生の再生産の最低限であっても、やはりこの「個人的所有」は「私的所有」の一種である。それは資本主義社会における労働者が最低限の生活手段しかえられないにもかかわらず自己の労働力を商品として私有している以上、生活手段もそれによって買い集められたものなので、生活手段を私有の対象としてみなければならないのと同様である。

 だから生活手段の私有を示す“das individuelle Eigentum”は「個人的私有」と訳す方が適切である。この場合の“das Eigentum”はへーゲル的な「所有」つまり「私的所有」を意味している。

社会主義社会の基本的矛盾は生産手段の総体的所有と生活手段の個人的私有にある。(30)この矛盾の止揚、つまり生活手段の個人的私有の根絶こそが共産主義であることは先述した。社会主義での「個人的所有」を生活手段に関するものだとし、この「個人的所有」を「私的所有」でないと見なす見解(31)は社会主義の基本的矛盾を見誤まり、たんに生産力の発展によって共産主義に自動的に発達するかに考える誤まりを含んでいる。この誤まりは所有の問題を生産手段に関する問題のみに焦点を合わせ、生活手段に関する所有の問題を私的所有ではないからという誤った判断によって軽視することに起因する。

この見解は、社会主義がたんに生産手段に対する私的所有の廃絶を契機に成立したものにすぎず、生活手段に関する私的所有を残存させることを正しく認識していないか、軽視している。またこの見解は、資本主義において労働者が生活手段の私有者としての立場から、資本家の生産手段の専有を廃することで生活手段の安定したのであり、私有者となるために革命を起こしたのだという労働者大衆の論理に対する無理解の上に立っている。労働者にとって目的は先ず生活手段の私有であり、生産主体となることは先ずその手段にすぎない。この構造が私人性(個人性)と総体性の人格的矛盾、相克になる。総体的所有の実現の面からのみ社会主義を一面的に理解しようとするのは生産手段の支配・管理だけに関心を示す、官僚主義的な、単なる前衛的な発想である。(32)これに対して生活手段の私有を止揚する方向で社会主義の発展を目的意識的に企てるのが科学的社会主義の立場である。つまり社会主義は私的所有一般の止揚を目指す過程である。

 翻って原始共同体の私的所有の対象も最初は食物、装飾品、土器などの生活手段であったのであり、私的所有の止揚も最後は生活手段の私有が対象である。生活手段の私有が基礎になり生産手段の私有が発生し、生産手段の私有の揚棄によって生活手段の私有の揚棄が可能な前提がつくられる。生産手段の私有の揚棄が同時に生活手段の私有の揚棄のを意味するものでないことは生活手段の私有の発生が即生産手段の私有の発生を意味しないのと同じである。(33)

 しかし実際に社会主義における生活手段の所有が私有の形をとらないようにすることが可能だろうか。人間である以上、労働力と生の再生産のためには家族による消費はなくならないかに思われる。そこから家族が目的、労働が手段となり、生産に対する主体性は媒介されたものとなってしまう。だとすれば、どうしても賃労働者としての存在構造を持たざるをえず、労働力と賃金の交換はなくならない。

しかし家族形成者=生活手段の私有者=賃労働という存在構造も社会主義の発展によって変化を蒙る。子供の養育についても社会の責任による集団的な養育の度合が大きくなり、男女平等の労働、家事労働の社会への移譲の拡大等が進み、社会的活動としての労働と私的生活がともに自由な個性の開花であるように変化するにつれて、しだいに労働は私的生活のための単なる手段から、自己能力の開花として自己目的的なものになる。こうして現在の賃労働者の立場からは到底理解しがたいような、新しい人間が形成される。このようにマルクスは考えたのではなかろうか。

 自由な愛情による両性の結合とその結果としての子供の養育は現在の家族生活とはかなり異った様相を示す筈である。生活手段の私有がしだいに止揚され、個人の生活が充分にその主体性を開花させながら、家族という人格の避難地を媒介にすることなしに、人格の自由なつながりが発展してくるのである。資本主義に生きる我われは生活手段の私有者=家族形成者としての価値観、幸福観を持っているので、これを未来社会まで適用しがちであるが、それはできない相談なのではなかろうか。(34)

                         註

(29)スターリン『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』「一九五一年の十一月討論に関連した経済的諸問題にかんする意見」「ニ、社会主義のもとでの商品生産の問題」(国民文庫刊p.16p.26

(30)
社会主義の基本的矛盾をプロレタリアートと(存在しない)ブルジョワジーの闘争に求めたり、生産力の発展によって「能カに応じて」から「必要に応じて」分配されるようになるとしたりする見解は社会主義から共産主義への発展を保障いない。

(31)
林直道氏の所説においては生活手段の「個人的私有」と「個人的所有」の区別はみられない。だから社会主義での生活手段の「個人的私有」を止揚するという課題は当然存在しないわけである。このような見解は社会主義が未だ実現せず、したがってその矛盾も現実のものでない段階では通用しても、現代では時代遅れの感は免れない。

(32)
西村可明氏の「社会主義のもとでの商品生産」(『思想』197310月号所収)によると、ソ連の学者の中に社会主義における商品経済の原因を生産者が個人の生活手段を手に入れるために生産を行うことからくる個人的利害の存在に求める見解が存在する。このことは注目に値いする。思い切りよく、社会主義の労働者にも賃労働者としての規定、労働力商品としての側面が残存していることを認めることから出発し、これの止揚をめざす政治経済学を樹立すべきである。

(33)
歴史の大区分を《原始共同体―階級社会―社会主義・共産主義》の三段階に求めることは史的唯物論の常識であるが、この基礎に所有論の視点からは《本源的な所有―私的所有―新しい共同体的所有》という大区分が存在することを忘れてはならない。原始共同体は本源的な所有の時代であるが、その時期に私的所有が発生し、共同体が解体していく。社会主義は生産手段の私的所有は止揚できるが、生活手段の私的所有は残存し、これを克服していく過程である。

(34)
封建社会における家父長的統制、村落的規制はその時代に生きる人たちにとっては人間的なつながりとして道徳的基盤であり、この崩壊は人倫の否定として現われるが、同様に現代の家族中心的価値観からみれば社会主義的な人間解放は人間性の否定として感じられる。しかし高度に発達した管理社会では個々人を直接的に管理の対象とするため、資本主義においても家族の解体は進行しており、そこに。ペシミズムの社会情況が招来しつつある。これを克服するのは既存の家族中心的価値観を脱却し、個々人が社会的所有をわがものとすることを通してしかありえない。


 

                             まとめ

 私は“das Eigentum”が全く異なる二つの意味を持つことを先ず明らかにした。一つは「私的所有」であり、もう一つは「本源的な所有=固有」である。「私有」は人格による排他的物件支配であり、主・客分裂の存在構造に媒介されている。「本源的な所有」は自己の定在としての自然対象を我が身とする代謝活動であり、主・客・未分化な存在構造に媒介されている。このような“das Eigentum”の二義性は“das individuelle Eigentum”に対する多義的解釈の根拠となる。

 “individuel”は「個人的」「個体的」「個別的」の他に原義的には「分割不能なものの」「不可分離なものの」という意味でも使用されうるのであるから“das Eigentum”の二義性との組合わせによって実に多義的に解釈されうる。したがって“das individuelle Eigentum”の翻訳にあたっては文脈から適切な訳語を選ばなければならない。問題の“das individuelle Eigentum”の再建に関する論争もその視点から見直してみるべきである。

第一点として第一の否定の対象である「自己労働に基づくindividuellな私有」とは何か?資本主義的私有によって否定される以上、まず個人的な小経営としての自己労働にもとづく「個人的な私有」であり、そして生産者の生産手段に対する「不可分離なものの私有」である。「不可分離なものの私有」の中に「不可分離な固有」が保存されている。社会主義で再建されるのは「不可分離な固有」である。つまり、生産者と生産手段の不可分離な結合関係が再建される。

資本主義的私有によっては生活手段に対する「個人的私有“das individuelle Eigentum”とも“das individuelle Privateigentum”とも表記されうる。)」は否定されない。何故なら資本主義的私有がうみだす労働者階級は生活手段の私有者であることを根本的な存在構造としているからである。したがって否定の否定である社会的所有が生活手段の「個人的私有」を安定させることはあっても、再建させるわけではない。社会的所有の再建によって再建されるのは労働者階級総体による生産手段の共同占有にもとづく生産者の生産手段に対する「不可分離な固有」であり、不可分離な結合関係なのである。これは社会的所有が二つの面、すなわち労働者総体による生産手段に対する共同占有と、労働者総体の生産手段に対する「不可分離な固有」という両面を持っているということを表現している。社会主義社会はこの社会的所有によって生活手段に対する「個人的私有」を安定させるが、そのことによって生産手段に対する労働者総体の所有と生活手段に対する労働者各個人の「個人的私有」の基本的矛盾を持つことになる。

 社会主義社会が共産主義へ発展するのは(原理的な理念としては)生活手段の「個人的私有」を止揚していくことによってである。

                                                                                                             
                                (完)

                                                

追記、“das individuelle Eigentum”を「不可分離な所有」と訳すことに関して栗田賢三氏から鋭い批判をいただいた。氏の批判の主旨を汲んだ形で第二章の全面的な書き直しを行い、「不可分離な所有」と解釈しえる理由を氏の批判と矛盾しない形で明らかにしえたと思う。氏の再批判を願う次第である。

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