海老澤照明さんによる拙論批評

 

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保井温氏の「所有論」1

 

  次に、保井温氏の「所有論」について検討することにします。

 

 保井氏は、「所有」には「本源的な所有」と「私的所有」という「何ら共通の意味内容をもって」いない意味が含まれており、「所有の一般的規定」をしても「『所有』は『人間の対自然関係』に還元され、『所有』という語そのものが成立しない」と述べ、「所有の一般的規定」を否定されます。(「”das individuelle Eigentum”の翻訳問題―再建論争への新視角―」『立命館文学』3733741976、以下、保井Ap122

 

 保井氏は、”das Eigentum”の「本源的(原義的)な意味」を「『固有』、『一体化』、『我が身とすること』」としています。それは、ヘーゲルの「所有」(私的所有)とは「何ら共通性はない」ものとして把握しています。(注、「翻訳」p124の「本源的所有」と「本源的な所有」との区別)

 

 氏のいう「固有」とは、「対象を自己と一体なものとして取り扱うこと」であり、「所有主体と対象は『分けられないもの』ということです。

 

 そのうえで氏は、マルクスの所有規定@のなかの、「『自分に属するもの』とは人間と自然との不可分離性を示し、『自分のものとしての』は、『身体の延長をなすにすぎない』と全く同じ意味である」としたうえで、「つまりこの本源的な所有とは『固有』であり『我が身とすること』である」と解釈します。「『所有』の二つの意味―ヘーゲルとマルクスの比較研究―」(『哲学』25.日本哲学会、1975、以下、保井Bp165

 

「本源的な所有」は、未だ人間が「主・客未分化」で、「自然的段階、即ち人間の動物的段階」における「所有」であって、人間が「主・客分化を遂げ、人間の人間的段階」における「私的所有」とは、「全く異なる意味内容」であるともいっています。

 

 さらに氏は、「本源的な所有があてはまるのは完全には交換発生以前の原始共同体だけである」(保井Bp167)としています。それは、『諸形態』におけるマルクスの本源的所有概念が、原始共同体における所有の本源的形態を表わしている以上、その限りで当然のことです。

 

 それはともかく、”das Eigentum”が「『本源的な所有』と『私的所有』の双方を意味する」以上、「『私有』『固有』と訳し分けることが必要である」という視点から、氏は「個人的所有」[das individuelle Eigentum]の”individuell”についても、”das Eigentum”と同様に「語源的に”individuell”を解すれば『不可分離なものの』」という意味であり、したがって、「”das individuelle Eigentum”を『不可分離な所有』とも解しうる」としています。(保井A p121

 

 要するに、「”das Eigentum”の本源的な意味が”das individuelle Eigentum”」(同上p126)だということです。

 

 マルクスが”das Eigentum”を「固有」としての意味で使用していることを明示するために、「不可分離なものの」という形容詞”individuell”を入れて”das individuelle Eigentum”にしたと解釈されるのです。

 

 氏によれば、”das Eigentum”の、人間と対象との関係性を示す「固有」、「一体化」「身体の延長をなす」といった規定性は、「完全には」「原始共同体だけ」であったとしても、他の社会的諸関係の場合にも基本的に妥当することになります。

 

 そのことを氏は、「ローマ的共同体における成員の土地私有、ゲルマン共同体における成員の個別的土地所有、封建制での農奴土地占有、金納貢租の段階での自由な独立自営農、資本制社会での自作農などにおいて、土地に対する私有権の有無、強弱にかかわらず自営農民は耕作している土地を自己に固有なものとして、自己の非有機的身体として意識しており、まさしく彼らは『不可分離な所有das individuelle Eigentum』の主体なのである」(保井Ap131-2)と表現しています。

 

 また手工業者に関しても、「生産用具(=生産手段)に関しては自己の熟練に伴ない自己に不可分離な(自己に固有な)手の延長としても意識している。このような手工業者と生産用具との関係は『不可分離な所有das individuelle Eigentum』である」(保井Ap131)としています。

 

 以上のように保井氏は、”das Eigentum”や”individuell”をその語源という側面から検討しており、マルクスについては、『諸形態』の諸々の「所有」に関する規定の中で、特に、規定@〜規定Bに依拠しながら、「固有」、「一体化」、「我が身とすること」、「不可分離性」といった表現で、私的所有とは区別される”das Eigentum”や”das individuelle Eigentum”を規定されようとしています。

 

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保井温氏の「所有論」2

 

 続き

 

 ここから、いわゆる「個人的所有」に関しても、「否定の否定」における「第一の否定」で否定されるのは”das individuelle Privateigentum”であり、それは「『個人的私有』と『不可分離なものの私有』の複合であり、そのなかに『不可分離な固有』を保存している」。小経営における「不可分離な固有」は、生産手段に対する手工業者や自営農民個人の「個人的所有」という形をとっていると理解されます。(保井Ap132-3

 

 そして結論として、「否定の否定」によって再建される”das individuelle Eigentum”は「労働者は生産手段を私有することは社会主義ではできない」のであり「協業や生産手段の共同占有もとづくのであるから」、「個人的所有」ではなく、「労働者総体の生産手段に対する不可分離な所有(固有)」を意味する。「『社会的所有』はやはり労働者諸個人が自己の総体性において所有主体であるのであり、単なる個人としては所有主体にはなりえない」(保井Ap136)と述べられています。

 

 すなわち、「第二の否定」によって再建される”das individuelle Eigentum”を「個人的所有」と訳すのは間違いで、「不可分離な所有(固有)」とすべきであると主張されるのです。ここでは、「個人的所有」は、個人が、自分の個人的な生産用具を、自らに「不可分離」で「固有」であるものとして直接的に使う場合にのみ成立する用語として把握されているのです。

 

 しかし、”das individuelle Eigentum”を、保井氏のように、主体の客体にたいする「固有」、「一体化」、「自分の身体の延長」という意味で理解したとしても、個々人に固有な生産手段総体に対する関わり、はあり得ないのか、個人と生産手段との直接的で、文字通り個人的な関わりの中でしか「個人」は生産手段にたいして所有主体になれないのか、個人が自分の目的と意志を社会的に共有し、そして共有された目的と意志を実現するという形態で、自分の目的と意志を貫くとするならば、個人は社会的生産手段にたいして「固有」、「一体化」、「自分の身体の延長」として関わることになるのではないのか、といった疑問が生じます。

 

 実は、こうした保井氏の「所有論」の問題点は、氏が、私的所有とは区別される「本源的な所有」を、「不可分離性」、「固有」、「一体化」、「我が身とすること」、「自分の身体の延長」として捉えたところに基本的な問題があるのです。

 

 林氏のように、「物」にたいする主体の「権利関係」として、「所有」を事実上の私的所有関係として捉え、その主体を問題とする見解に比べれば、保井氏の「所有論」は主体と客体との「関係性」に焦点をあてているという点で評価できます。

 

 特に、「本源的な所有でのこの個人の獲得は本来他者との対抗関係はなく、単に自己の身体的延長として対象を扱うことによって成立している」(保井Bp166)と述べている点は、「他者との対抗関係」を前提とした「権利」観念を、「所有」の不可分の契機とする従来の「所有論」を批判するうえで貴重な視点だと思います。

 

 しかし、保井氏の「所有」理解が、「マルクス自身が『所有』の二つの意味について私同様の見解を持っていたなどと主張するつもりは毛頭ない」(保井B,p169)と述べられているように、マルクス自身の「所有」概念の解明を意図したものではありませんでした。

 

 「不可分離性」、「固有」、「一体化」、「我が身とすること」、「自分の身体の延長」といった、保井氏の「所有論」にとって基軸となる関係が、さらに一歩進めて、主体と客体とのあいだの、どのような「関係性」によって生み出されるのかということに関する言及がありませんでした。この点にこそ、「所有」概念を理解する根幹があるのです。