番外篇 哲学とは何か?

      一つとて確かなことは知らざれど知に焦がれたる吾は愛知者

 

時をファンタジーが始まる以前に戻そう。冬休みに入った頃という設定だ。社会科準備室に上村 陽一と三輪智子が訪れて、榊周次と談話をしている。

上村陽一:榊先生、倫理を学んでいるわけですが、哲学の話が多いですね。哲学は倫理の中の一分野なのですか?それとも哲学の中に倫理も包含されるのですか。

三輪智子:もともと哲学は知ることについての学ですから、数学や自然学も含まれていたのでしょう。だから当然倫理学も哲学に含まれていたと言えます。倫理はethicsで哲学はphilosophyですね。

: ethicsは習俗や習慣という言葉に由来し、社会や集団のルールという意味を持ちます。フィロソフィアはフィロが「愛する」でソフィアが「知」ですから「知を愛する」「愛知」という意味ですね。

陽一:じゃあ愛知県は哲学の本場ですか?

榊:じゃあ愛媛県は何の本場ですか?「倫」という字は「人の輪」つまり仲間や社会という意味ですね。その「理」はことわりということですので、社会の中での従うべき道理や規範という意味になり、そこから人間としての生きるべき道や人間としての生き方をあらわします。

智子:では倫理と道徳(英語でmoral)はどう違うのですか?

榊:同じ意味でつかわれているのですが、倫理が人間として歩むべき道であり、社会の規範ですが、道徳は人格としての個人がそれを徳として身につけることを意味します。

陽一:ところでphilosophyをどうして「愛知」と訳さなかったのですか。

先生:「哲学」という訳語を考案したのは日本近代哲学の父と呼ばれる西周(にしあまね)です。彼はフィロソフィーには謙遜の意味が含まれていると考えました。ソクラテスは自分は「ソフィスト」つまり知者ではないと言いました。ソフィストたちの知は、実は独断論にすぎず、真理でない。しかし自分真なる知を求めている愛知者ではあるとしたのです。

智子:ソフィストたちはそれまでの哲学者たちの独断論を批判したのじゃなかったのですか?プロタゴラスは、「万物の尺度は人間である」と言いましたが、それは「真理はひとそれぞれの相対的なものであるという意味だったと先生から教わりましたよ。

:しかし、プロタゴラスは自分の感じた感覚の真理に固執して、それぞれが感じたままに行動すればよいということになってしまった。これも一種の独断論だ。自分だけが暑いと感じたらそれは自分の体調のせいだと、自分を疑うことも必要で、暑いと感じているから、この部屋は自分にとって暑いのは真理だということに固執していたら、その知は役に立たない知になってしまう。

陽一:それはそうですね。この部屋は暑いか寒いかということで議論するのなら、それぞれが暑いとか寒いとか感じるのは何故かを話し合うことが大切です。そうしてはじめて暑いとか寒いとか感じるのは何故かということが分かってきます。

智子:それぞれが知ったかぶりするのじゃなくて、それぞれのもっている情報を出し合って、みんなが納得できる知識を対話を通して形成するということが哲学だということですか。

:その場合、自分の知っていること、感じていることを真理として押し付けるのではなくて、吟味の対象として提供する態度が大切です。まだしっかりみんなで吟味できていないものは確実な知ではないということを自覚していなければならないのです。

陽一:なるほどそれが「無知の知」ですね。

智子:それでは西はどうしてフィロソフィーを「愛知や愛知学」と訳さなかったのですか?

:それでは、物知りや雑学愛好家を思い浮かべられてしまうので、まずいと思いました。そこで「哲」という「賢明な」とか「さとる」という意味の言葉を前につけまして「哲学」とし、物事の根本の原理を究める学問という意味にしたのです。

陽一:それではソクラテスの「無知の知」が活かされていませんね。

榊:そこが問題点ですが、西が求めていたのは学の原理としての哲学でしたので、西としては別によかったということです。

智子:それではソクラテスの独断論批判が活かされていませんね。西は謙遜の意味に注目していたのに。

;西が評価していたのは功利主義や実証主義です。それはつまり近代哲学の独断論批判だったのです。

      
独断を退けて立つ哲学も己過信し、独断に堕す

陽一:近代哲学というのはベーコンの「四つのイドラ」も独断論批判だし、デカルトの方法的懐疑も独断論批判でしょう。それをどうして独断論だというのですか。独断論と批判するものが独断論なら、ソクラテスも功利主義や実証主義も西も独断論になってしまいます。

 

:ソクラテスは「無知の知」に立って、ゼロから対話によって普遍妥当的真理を積み上げていけるという立場にたっていました。でも本当にゼロから出発できるのかということを考えますと、予めイデア(真実在としての観念)があるから物事を認識できるのじゃないかということになります。だからプラトンのイデア論もソクラテス批判になっているわけです。

      
実験と観察をもて確かめし事実の他に何が真理か

智子:そういえばベーコンは、プラトンやアリストテレスなどのギリシアの学問を実験観察に基づいていないとして退けますね。

:プラトンのイデアは、あらかじめイデアがあるから物事が認識できるのだとして、イデアなるものが現象とは別に存在するかにいいますが、それは確かめられないわけですね。実験観察によって確かめられないものを真理として仮定しますと、観念からだけ物事を捉えることになり、大きな思い違いに陥りやすいのです。

陽一:薔薇のイデアがなければ、花を見ても薔薇とは分からないというのはもっともでしょう。

智子:でも薔薇の観念と薔薇という事物を、イデア界などを作り上げて切り離すというのは、独断的ですね。

:そこで物事の観念がどのように生じたのかという問題が生じます。それで同様な事象を集めて名前をつけその現れ方を整理して法則を導き出すという帰納法が近代になって、発達します。その際予め作り上げた法則に合う現象を単純枚挙するのでは駄目です。

陽一:ほうなかなか科学的ですね。ベーコンも結局独断論だというのは何故ですか。

:人間が実験観察して、確かめうる範囲の法則は導けても、人間の有限な認識能力では感知できない変化が生じていて、それが思わぬ副作用や人間環境破壊という形で撥ね返ってくることがあるでしょう。ベーコンはそういうことはあまり考慮しないで、自分の方法で無限の進歩がもたらされ、人類の進歩は薔薇色のように楽観的に捉えていた、そういうところがやはり独断的でしょう。

    
疑いの果てに行き着くその先の疑いし吾、疑い得ざるや
    疑いしそのことだけは疑えぬ、そこから吾は導き得るかは

智子:デカルトは真理の体系としての学問を築くには、絶対に疑えない真理から出発しなければならないと考え、少しでも疑わしいものは間違いとして捨てるという「方法的懐疑」を行ったわけでしょう。その意味では独断論批判ですね。どういうところが独断論なのですか。

陽一:彼は先ず、感覚的現実を疑います。現に見たということは目撃証言だけれど、見間違えということもままあることですね。だから捨てた。つぎに数学的論証です。難しい論証は間違っているかもしれない。でも対頂角が等しいなんて、間違えることはまずありえません。でも難しいものが間違っているということは、それよりやさしいのも間違え得るということなので、数学的論証はすべて間違いということにしておくのです。そして心に浮かぶすべての思想は、眠っているときにいろいろ間違った想念が浮かびますね。目覚めていると思っていても実は眠っていたこともありうるので、すべての思想は間違いだとするわけです。こうしてすべての観念や思想は疑いうるとしておいたうえで、疑っているという事実だけは疑えないだろうというわけですね。そこまでは納得いくのですが、疑っているという事実から疑っている我の存在が出てきて、「疑っている我」は疑えないとなってしまう。そこに飛躍があるような気がしてならないのですが。

:それは同感ですね。「疑う」というのは事実としても、だから「我」が疑っているとまで言えるかどうかですね。これはラテン語やフランス語では動詞が人称変化を起こしますから、「疑う」とか「考える」と言えば、すでに「私が」ということが動詞に含まれているわけです。「コギト・エルゴ・スム(我思う・故に・我あり)」ではコギトもスムも一人称単数現在の動詞なのです。「考えている、だから存在する」ということなのに、「私が考えているから、考えている私が存在している」ところまでいってしまって、「コギト」が「考える我」という意味の名詞になり、主語として実体化することになってしまったのです。

   
疑ひの闇路さすろふ吾ゆえに神の光の照らさで生くるや
     お互いに欠けたる同士支え合い命の環結び生くるにあらずや

智子:そういえば、コギトから神の存在を証明するのも随分強引だと感じましたね。コギトは疑っているから不完全な存在である。しかるに不完全な存在者が、それ自体で存在できる筈がない。必ず完全者によって支えられている筈である。ところでコギトの存在は疑えないのだから、それを支える完全者である神の存在も疑えないという論証です。不完全者の存在は不完全者同士が互いに支えあって存在するという、完全者抜きのバージョンもありうる筈なのに、そこは独断的に不完全者から完全者を演繹してしまっています。

:西欧には、唯一絶対の超越神への信仰が、空気のようにあるのです。だから自然に完全な神あっての不完全な人間や動植物その他の自然物という発想が自明のように出てきてしまうのでしょう。もう一つの神の存在証明もおかしかったでしょう。

陽一:神の観念は先天的だという議論ですね。不完全者である人間は、完全者である神の観念を自分で作ることができないので、神の観念は完全者である神自身が作って、先天的に人間の魂の中に置き入れたに違いにないという理屈です。観念を完全な形で思い描くのは有限者、不完全者には難しいというのは納得できますが、完全者の観念を作るのは不完全者には不可能だというのはどうしてそういえるのか良く分かりません。

 
   踏みつけし石の中すら神を見る、神観念を持たざる証しか

智子:それでイギリス経験論のロックが、デカルトを批判していますね。イギリス経験論者は、実験と観察の結果しか信じませんから、本当に神の観念が先天的かどうか調べたわけです。デカルトの議論では神の観念が先天的だということなので、人間ならばだれでも神の観念を持っている筈だと考えて、神の観念を持っていない人がいれば、デカルトは間違っていたことになります。するとアフリカ人や東洋人の多くが、完全者としての神の観念を持っていないことが分かったわけです。それにイギリス人でもキリスト教徒の子供たちが完全者としての神の観念を持っていないことが分かったのです。そこでロックは「あらゆる観念は経験から、生まれつきはホワイト・ペーパー」と述べました。この言葉でイギリス経験論が確立したと言われています。

:デカルトの立場で言えば、神は東洋人やアフリカ人にまで神の観念を与える必要はないわけです。なぜならキリスト者以外は聖霊を宿していないことになっていますから。キリスト者の子供は聖霊を宿しても、精神が未発達なので思い出せないだけと考えられます。

陽一:日本人なんかはすべてのものに神を見出すので、神の観念は豊富なのではないのですか。

:だから神の定義の問題があるのです。一神教の神観念というのは、唯一絶対の超越神ですから、草や木、石ころやイワシの頭、竈や便所にまで神を見出すのは、神でないものを神ということであり、つまり完全者としての神の観念を持っていないということなのです。

 
   経験を取りまとめてぞ生まれけむ物てふ観念、物も意識か

智子:経験論は経験の解釈から事物の観念が生まれたという議論なので、バークリーのような「存在することは知覚されてあること」だという発想になってしまいますね。そうしますと現象だけしか認識できないので、デカルトのような主観・客観認識図式による客観的実在の認識ができないことになり、ヒュームの懐疑論に行き着いてしまいます。あらためて存在とは何か、認識とは何かが問い直されることになるわけですね。

陽一:それを受けて登場したのがカントの批判哲学だということですね。

:さすがに倫理の得意なお二人の整理はお見事ですね。デカルトだと認識される対象は客観的な事物であり、世界は事物によって構成されていると捉えられていました。これに対して経験論は、あくまでそれは経験の総括であり、人間の五感を離れてはありえないということを言い出したわけです。つまり認識される事物と認識する意識は切り離せないということですね。

     感覚をカテゴリーにて整理して対象(もの)構えたりこれぞ認識

陽一:カントは『純粋理性批判』で物自体は認識できない。認識できるのは現象だけだとしましたが、その意味するところは、存在それ自体は認識できないけれど存在の現われとして意識の姿で現象してくる事物は認識できるという意味ですか。

:カントが認識論における「コペルニクス的転換」をやったと自負していることと関連しますね。今まで天が地球の回りを回っていたと考えられていたのを、太陽の周りを地球が回っていると考えるような一八〇度の認識論の革命です。つまり今までは客観的事物が主観に写し取られるという反映論でした。ところがカントは感覚を素材にして生まれつきもっている時間・空間・質量などの形式をつかって対象を構成しているのだとしたわけです。

  
感覚でつくりし花も太陽も意識としては己が姿や

智子:そのあたりがとても難解で、陽一君とよく議論しているのですけれど、構成説という言葉を使われると結局、人間は自分の感覚を材料にして世界の事物を作っていることになり、この現象する世界は人間の意識であり、世界それ自体が人間なんだと言っているのじゃないかという気がするのですが。

:それは大変深い認識だと思いますね。というのはカントは哲学全体を広い意味での人間学だと捉えているのです。

陽一:カントは人間理性を批判しているのでしょう。批判とはカントの場合、限界付けという意味でしたね。現象界をすべて人間理性で構成してしまったら、限界づけにならないのじゃないですか?

智子:どうして?意識に現象している世界しか認識できないというのが理性の限界づけでしょう。

陽一:だって現実に現れている太陽や星や月や大地や動植物などのさまざまな環境的自然や、社会的諸事物なども現象に入るわけで、それらをすべて人間の意識によって構成されたものとして捉えるわけだから。物自体が認識できないといっても、物自体は原理的に意識できないものだから、気にしてもしかたがないわけでしょう。

  
意識には現れ得ざる物自体故になきとは言われぬものを
  感覚の束が事物と言ふものの、現れの元外にあらずや
  この吾とかこめる世界(コスモス)あるならば、作りし神のあらであるまじ
  物知りて何なすべしか決めし故、その主体たる魂(こころ)あらずや

:たしかに物自体は原理的に存在を実験観察で確かめられるようなものではありません。しかしカントは現象界と可想界の区別を立てています。可想界というのは物事を認識する理論理性では存在を確かめられないけれど、実在すると考えられるものが属する世界です。物自体の他に神や魂も現象界ではなく可想界に属しているというのです。

智子:つまり物自体は、理性では直接認識できないけれど、その現れである事物が存在している以上、それが可想界に存在することは否定できない。それと同じように、神や魂も理性が認識しようとすると二律背反(アンチノミー)に陥ってしまう。だけど世界がある以上世界を作った神が存在するのも確かだし、物事を認識し、価値判断を行っている以上、その主体である魂が存在するのも確かであるということです。

:そうですね。だからカントはイギリス経験論の存在と意識は分けられないという議論を採用しながらも、意識の主体を意識の内容から区別して、主観・客観の認識図式自体はデカルトを継承しているわけです。

陽一:だんだん意識と存在についてのスリリングな議論になってきて、頭の中が完全に真っ白という感じですが、要するに主体としての魂の実在をデカルトは説きました。つまり人間だけが自由に言語を操れるというのは、身体機械論からは説明できないから、神が生まれる前に魂を置き入れたのだろうと言ったのです。カントも理論理性や実践理性として主体としての魂の存在を、可想界を仮定して守ったわけですね。でもこれも独断論だということですか?

   
考える過程と別に吾ありて思惟を生むとは絵空事かは
   経験を重ねしうちに判断の基準が生まれ、吾ありとせり
  

:ええ、デカルトに対してホッブズは魂の置き入れという作り話に反対しました。ホッブズは意識の運動と離れて意識の主体が存在するとは考えません。意識をイマジネーションという「薄れゆくメモリィ」の微粒子が互いに引きあったり、反発しあったりして働きかけあう過程と見ています。その運動の仕方が経験によってパターン化してその人の個性が自覚されると自我として反省されるわけです。そうしますと、その仕方が基準になって物事を整理し、認識するようになりますので、自我が先にあって意識を統御しているように思われ、自我が誤って実体化されるということになります。

   
物事を客体として捉えるは、主体がありてその後のこと
  感覚に生理対応重ねつつ欲を満たせり本能のまま
  人のみは感じた中身を述語づけ己の外に物を見出す

智子:でも主体としての魂の存在は、確かに実体的に思考機械みたいに示すことはできなくても、主体が存在することで物事を客観的に捉える認識というものが成立するのですから、主体を立てるということは哲学の出発点じゃないのですか。

:全くその通りですね。意識と存在が切り離せないことは確かだとしても、それを客観的実在とみなして、事物と事物、事物と人の関係を捉えていくのが認識ということです。その際、認識する主体の構造が問われることになります。そして動物の場合は生理的な表象にたいして条件反射的に対応するだけですから、知覚段階にとどまり、対象は事物としてつまり自己にとっての他者として認識されていませんが、人間だけが、主体として対象に相対するので、事物や他者として物事を認識する段階に達しているわけです。だからこの問題は人間とは何ぞやという人間論の問題でもあるわけです。

陽一:えらいややこしいことになってますね。対象は事物も含めて意識に現れた現象でしかない。でも対象はそれを己にとって他者とみなす主体の成立によって、意識ではあるけれど事物として捉えられる。それではじめて人間の認識だと言える。ということは人間の認識というのは、意識現象を事物だと錯覚することによって成立するということになりませんか?人間は「狂ったサル」だということになりますね。

   物立ててそを意識すとせしならば、意識以前に物ありきなり
物こそは意識の束とみなしなば、意識は物の営みともみゆ
認識を主観の行為と決め付けて、物の現れ気付かざりしか
人間の意識を生みて自己保つ事物の営み忘れざらまし
認識を物の側から捉えたる認識論の逆転発想
人間を身体のみにかぎるまじ、事物含めた人間観へ

:それは事物を意識と対極的に捉えることを前提にしています。カントによるまでもなく、事物は感覚を統合したものです。感覚なり意識なりを体内の生理作用とみなすので、感覚ん。ですからこれらの感覚は単に肉体だけの働きではなく、対象が肉体に対して行った印象の刻印でもあるわけですから、感覚は事物にも属していると言えるのです。

智子:ということは認識は主観の営みであるだけでなく、客体の営みでもあるということになりますね。客体が身体の感覚器官に働きかけて、自己の像を意識として形成しているとや意識が事物に属していないと思われるのですが、実際に感覚を抜きにした事物の属性はありません。空間感覚、軟硬感覚、色彩感覚、臭覚、形状感覚なしに事物は認識できませみなすわけですね。

:そう捉えてはじめて意識内容を形成している事物が、実在として捉えられることになります。

陽一:しかし客体は別に意識もなく、主体性ももっていないので、働きかけるということもないのではないですか?

:それは意識が身体だけの活動で形成されていると捉える近代主観主義の誤りです。人間の行動は、身体だけに限定して捉えることはできません。社会的諸事物や人間環境を形成する自然的諸事物を含む社会的な諸連関の働きの中に組み込まれてはじめて<、意識や行動が生じるわけです。

智子:それじゃあ、個人の人格的な主体性の成立の余地がなくなるのじゃないのですか?

:意識がさまざまな社会関係や事物の側からの働きかけで生じるとしても、それらを自己の置かれた状況として、主体的に捉え返し、それらに立ち向かう自己を確立する必要があるわけです。

陽一:その場合自己は何を己の立脚点とすればよいのですか?身体的な自己ですか、それとも家族ですか?あるいは組織や企業や団体を背負った人間ですか。地球環境などを考えると、地球全体の立場に自己を見出すということも大切ですね。

智子:それは当然、その人によってどれに重点を置くかで性格が決まってきますね。

:それを主体を抽象的に何者にも束縛されない自由な主体性に還元しますと、あれかこれかの決断を迫る実存主義的な人間観が生じます。もちろん人間は自由に考え決断するという性格がありますから、そう捉えることも大切ですが、現実の壁が強くて、がんじがらめに状況に絡めとられると、意識や行為を決定しているのは社会の構造だということで、主体としての人間は死んだと宣告して、構造認識さえすればいいというような構造主義に偏ることになりがちです。

陽一:それじゃあ、我々は人間をどう捉えればいいのですか?

:身体的個人や家族や社会人や企業や組織の構成員あるいは住民・国民や人類にいたるまでの人格的個人のあり方は様々ですね。人間の意識が自然環境や社会的諸事物から構成されていることも考えれば、それらを包括した人間概念も成り立つわけです。いろいろあるとこんがらがるでしょうが、それらは連関しあって我々の意識を形成しています。その中で様々に模索して色々なレベルの人間性を調整しながら生きているわけです。

智子:なんだか要領を得ませんね、はがゆくなっちゃう。そう色々言われても結局、複雑な世の中だから一つの立場に凝り固まらないで要領よく生きなさいといわれているみたいです。

:主体を身体的個人や個人的エゴだけでなく、集団的な主体というのもあるし、事物として働く主体もあるし、組織や事物に身体が包摂されて生じる主体もあるわけで、それらが互いに他者として向き合う場面もあり、厳しい対立や緊張が生まれたり、連合が組まれたりもするわけです。そういったダイナミックな関係を認識した上で、どうすれば自己の可能性が開花し、充実して生きれるかをいろんなレベルで実践的に生き抜くことが大切なのです。

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