コーヒーブレイク2
 

     第一話から第五話までの復習篇
 

榊周次:『ファンタジー・人間論の大冒険』はまだまだ続きそうですが、ファンタジー全体としてのつながりに欠けているので、残念ながらこのままでは本にできません。

上村陽一:一つ一つのお話は面白いのもあったと思いますが、そのうちいいアイデアができて、まとまりのあるものに書き直せるのではないでしょうか?


三輪智子:主役が陽一君ばかりで、やっと主役だと思ったら、痴愚女神モリアだなんてほんとに馬鹿にしているわ。(笑い)もっと女性が主役の作品を増やさないと駄目ですねきっと。


陽一:それに『人間論の大冒険』というから、パスカルやフロイトやシェーラーや三木清なども出てくるのかと思ったら、でてきませんね。やはり学者を主役にしてドラマ化するのは難しいのですか。


榊:そうですね。ツァラトストラは主役にできてもニーチェは主役にしにくいですね。思想家や哲学者を主人公にしようとすると、かなり丹念に史料を集めて、その人の生涯と人間観との関連がはっきり見えてこないと無理があります。


智子:素材の選びかたがまったく一貫性がないでしょう。行き当たりばったりという感じですね。だから一つ一つは一応お話になっていてもつながらなかったのではないですか。


榊:一年目だから仕方ない面もあります。いろいろ書けるものから書いて、後からどうしたらつなげられるか考えようとしたのです。


陽一:でもこのまま統一的なものが見つからないまま書き続けると、やたら膨大なものになってしまって、ますますまとまりがつけられなくなってしまいますね。


榊:ええ、それでコーヒー・ブレイクを入れているのです。ほんとは精神科医の小此木啓吾の「現代人の諸類型」にしようかなとも思ったのですが、精神科医を主人公にするのか、それとも一九八〇年頃のモラトリアム人間の典型とか、最近のニート青年を主人公にするのか迷ってしまってなかなか作れない。やはりファンタジー全体の流れがあれば、どういう物語作りをすればいいのか、方法論が見つかっていたと思うのですが。


智子:それじゃあ、少し方法論を反省して、物語作りが固まってから続きを書くことにして、私たちはお家に帰してもらいましょうか。


榊:もちろんだよ。帰る家があればいつでも帰ってくれればいい。

陽一:それにしてもこの一年近くバーチャル・リアリティのドラマに関わってきて、十人分ほどの人生を生きてきた感じがする、随分歳取って見えるでしょうね。

智子:ちっともよ。あなたは陽一君のまま、すこしも歳とってないわ。

陽一:そういえば、智子もいろんな女の人生を生きたはずなのに、元の高校生のピチピチ感は変わってないよ。

榊:そりゃあ身体的には全く影響はない筈だ。特に君たちは大丈夫なんだ。バーチャル・リアルティだから、激しい苦痛や不幸を体験して精神異常を起こしたり、心因性のヒステリー症状を引き起こす場合も考えられるから、人選にはかなり気を遣っている。浦島太郎みたいになられたら困るからね。


陽一:それでコーヒーブレイクBでは、今までの反省とか、総括とかするのですか。

智子:一応、打ち上げですね。

榊:打ち上げといえばもうお終いみたいじゃないか、完成まで付き合って欲しいね。

智子:それならもっといい役頂戴。なんなら私のアイデアを持ち込んでもいい。

榊:人間論として展開できる内容になっていれば大歓迎だよ。

陽一:ジャンヌ・ダルクはどう。一人の少女に祖国を救うという歴史的自覚が起こり、それが歴史を塗り替えるわけでしょう。人間の歴史的実存を考えるいい素材だね。

榊:陽一君、一度原案を書いてみるかい。アンネ・フランクなんかもいいかもしれないね。それなら智子さん、自分で書けるだろう。やはり先生は自分が男だから女性が主人公のものはすらすらとは筆が運ばないようなんだ。

 

      第一話 鉄腕アトムは人間か

 

            ロボットと共に語らむ生きること在ることの意味そして不思議を

 

榊:それでは第一話からどんな人間観が展開され、それがどういう意義があるかを中心に論じていこう。作品に対する批評もありがたいのだが、話が人間論ではなくて、作品論というか出来栄え論ばかりになっては困るんだ。なぜなら、一応一年の講義のまとめをするというのが大学の教材としての役目だからね。

智子:第一話は楽しかったですね。学生の反応もコメントを読ませてもらったら良かったじゃないですか。「ロボットが人間か」という問いかけが、よかったですね、ロボットが人権を求めたり、反乱を起こすような映画なんかが作られていて、それほどトンデモナイ話題ではなくなっているので、それを原理的に考えておこうというので興味をもったようですね。

陽一:ただ作者が意図していたようなレベルにはなかなか反応してくれませんね。作者としては、ロボットをはじめとする機械や道具、社会的諸事物や人間環境全体を人間の定在として捉え返す「人間観の転換」を求めていたのでしょう。しかし大多数の学生のコメントは、人間とロボットが共存できるかどうかという問題として捉えています。

榊:「人間観の転換」もいろんな水準があります。とりあえず第一話では人間を生物学的な猿の一種として捉える人間観を脱却して、自己意識を持つなら、自動機械であるロボットも人間に含めるべきではないかという問題提起なのです。それ以上のことに触れていても、主要にはそこまでが狙いなのです。その水準までなら学生のコメントは、大方は理解されていたと思います。ただ批判としてロボットが自己意識を持ち得ることに懐疑的な意見もでましたが、それはそれでこちらの問題提起を理解した上での批判ですから、いいと思います。


智子:人間とロボットの共存という課題が、ロボットが自己意識を持つことによって深刻な問題として出てくるというは、ロボットに自己意識を持たせることが可能だとしたらという前提を認めればその通りです。しかしそれは人間の自己意識がどうして発生したのかが分かっていない以上不可能ではないでしょうか。

 

陽一:どうして自己意識が発生したかはきちんとは説明できなくても、猿の一種から人類が発生し、そこから言語や自己意識が発生したのは事実ですから、同じような環境を与えれば、ロボットも自己意識を持ち得る筈です。

 

榊:言語や自己意識の発生を論じるのも人間論では大きな課題ですね。ロボットに自己意識を与えるにはどうしたらよいかを解明するためにも、クリアしておかなければなりません。ロボットに自己意識を与えると、ロボットの進化は急速なので、人間が支配されることになる。だから自己意識あるロボットはつくるべきじゃないとか、作る筈がないとかという意見が多かったです。しかし自己意識を持つロボットを作ろうというのは人間にとって最大の夢ですから、実際に可能になれば必ず作られると思いますね。

 

智子:でも人間がロボットに頭脳面でも運動面でも体力面でも技術面でも要するにすべての面で負けてしまうので、ロボットがロボットを作るようになると、人間は用無しになってしまうでしょう。

 

陽一:ロボットが人間の能力を持っていれば、それは立派に人間だし、既成の人間を凌駕するぐらいすばらしい存在になるのなら、それは生身の身体的人間が楽しくのびのびと暮らせるように力を発揮してくれるはずです。だって数億年の生命進化の到達点が人間の身体ですから、身体的個人はロボットにとっても究極の目標なのです。ですからロボットに権利を認めても、ロボットが人間をないがしろにするわけがないのです。


智子:それから人間とロボットの関係を神と人間との関係に置き換えて、神のための人間か人間のための神かという問題に立ち戻って考えましたね。ここからロボットが人間から自立し、人間を支配するようになる可能性が問題になりました。

 

榊:結局、人間対ロボットという対置にこだわるからロボットに支配され、不幸にされるかに考えるのです。もちろんそういう対置が成り立つので、ロボットが人間を不当に支配するようになる可能性もあるのですが、他方で、人間の本質的能力を対象的な事物として作り出したのがロボットですから、ロボットは人間なのです。逆に言えば、人間も欲望を充足することによって動く自動機械なのです。人間も機会であるという面を持っています。人間身体とロボットを含めた社会的システムを人間総体として捉え返す必要があるということです。

 

           第二話 ギルガメシュの人間論
 

                  フンババを殺して文明築きたるギルガメシュは吾が身ならずや

 

智子:第二話は「ギルガメシュの人間論」でしたね。なんと今から四千年前には『ギルガメシュ叙事詩』が粘土板や壁に書かれていたのですね。『バイブル』の「出エジプト記」が三千三百年前にモーセによって書かれたといわれていますが、それよりまだ千年程昔です。しかもそれがとても深い文学的内容を持っています。そして森の神を殺して文明を築いたことや、地の果ての向こうの死霊の国にまで、愛する友を取り戻しに行く話しなどが書かれているわけですね。

 

陽一:学生のコメントを見ると、ギルガメシュとエンキドゥはホモセクシュアルの関係だったことまであるので、ビックリしていましたね。人間論として注目したいのは、森の神フンババを殺して文明を築いたということと、永遠の命を求めて地の果てまで旅をするというところですね。

 

榊:梅原猛の戯曲の『ギルガメシュ』では神々が人間論を戦わしています。太陽の神ウトゥは人間に好意的です。なぜなら太陽は勤勉で毎日欠かさずに働きます。その太陽からみても人間は大変勤勉で、自然を支配して文明を築き上げているからです。それに対して、空気の神エンリルは人間に大変厳しいのです。森を破壊し、互いに殺しあっています。放置しておくと、恐竜のように自然を破壊し、神々すら殺して、しまいに自滅してしまうのです。今のうちに審判して滅ぼしておいたほうがいいというのです。主神のアンの大神の娘イナンナは、人間はアンの大神の気まぐれで二本足で歩かせてみることからできてしまった。そして今や神々すら人間によって滅ぼされるかもしれないようになったので、アンの大神はやがて人間を滅ぼされることになるだろうといいます。

 

智子:しかしアンの大神は、森の守り神フンババ殺害に関して、ギルガメシュを罰せずに、エンキドゥを死刑にしてしまいます。ということは神は人間をまだ滅ぼしたくはないわけですね。森の神を壊し、文明を作り出したけれど、そして神々をも全部殺してしまいそうな存在だけれど、いったい人間はどんな世界を作り出そうとしているのか、観てみたいのではないでしょうか。そして罰としてギルガメシュが最も愛しているエンキドゥを殺した。

 

陽一:ギルガメシュはウルクの人々の為、人間の為に森の木を伐採した。私利私欲のためではありません。でもその人間を自然と切り離し、切り離された人間だけを目的にし、他を手段にして、人間の為なら他のものは殺してもよいという立場に立ってしまった。そこが間違っているわけですが、そのことに気づかせるためにエンキドゥを殺したということですね。

 

智子:そこが難しいところなんですが、エンキドゥとの同性愛という問題に目を取られて、テーマが見えてこない学生も多かったのではないですか。エンキドゥは野生児というか、自然をそのまま身に残していたわけで、だからこそギルガメシュは強い愛着を感じていた。でも森の神フンババを殺して森を破壊するというのは、とりもなおさず人間の中の自然を殺してしまうことに他ならなかったわけです。

 

榊:なかなか鋭いですね。神の審判という外見だけれど、実は森を破壊することは人間自身の自然であるエンキドゥを殺すことに他ならない、となるとこれも文明の自己疎外ということですね。

 

陽一:ギルガメシュはエンキドゥを取り戻すだけでなく、ウトナピュシュティムから不老不死の薬を手に入れようとまでします。しかし生きることは死ぬことと表裏一体です。それに個体がいつまでも生きていては類が生きられなくなってしまいます。そして生命は食べるだけでなく食べられることによって大いなる生命の輪が形成されるのです。つまり永遠の生命というのは個体の死と不可分なのですね。そのことを悟るためには、地の果ての向こうまで旅をする必要があった。それほど人間の煩悩は激しいということですかね。

 

智子:それは裏腹なんですね。人間は自らの有限性という本質を見据え、受け入れなければならないということと、同時に、人間は有限性という自らの本質を超えようとする存在だということです。

 

榊:たしかに、それだからこそギルガメシュは三分の二は神だといわれた英雄なんでしょうね。それは一人の英雄に現れるだけだとしても、人間がギルガメシュにおいて、自己の限界に挑戦しているわけです。そこに人間の偉大さがあると同時に、それは不可能なので必ず悲劇に終わらざるを得ないわけです。ですからそれは人間の愚かさでもあるわけです。

 

陽一:後でツァラトストラを演じて、超人というテーマはギルガメシュから来ていると実感しましたね。ということは最も古いものが最も新しいということでしょう。すくなくともニーチェの時代には。

 

智子:地球環境問題という二十一世紀的問題はそのままギルガメシュの問題ですものね。大いなる生命という立場に立って循環と共生をどう生きるかを考える時に、ギルガメシュを語らないわけにはいきません。

 

榊:文明の端緒に帰って考える必要があるということです。それはとりもなおさず人間とは何か、そもそも何であったか、端緒から考え直さなければならない。人類史の総括が必要なんです。ところが人間の起源そのものが未だに謎なのですね。ヤスパースは決して解明できない謎だとしています。

 

陽一:ということは言語や自己意識の起源が解明できないということですか。

 

智子:それじゃあ自己意識を持つロボット、鉄腕アトムは永久に生まれないということですね。

 

陽一:違うよ、人間はその謎を解くことなく人間になったのだから、ロボットだって、人間の能力を事物に対象化し、人間と同じように生活する環境を整えればロボットも自己意識を持つんだ。

 

             第三話 エデンの園の人間観
 

                            罪に堕ち楽園追われ勤労の汗の中にぞ命に還れり

 

榊:次に『バイブル』「創世記」の「エデンの園の人間観」だったですね。これほど有名な話でも実際に『バイブル』の最初の五ページを読んでいる学生はほとんどいなかったということです。私は、大学生になるまで読んだこともないというのが、不思議ですね。というかそれで平気にしてきた教育が歪んでいると思います。

 

智子:それを言われると頭が痛くなりますが、『バイブル』の重要な部分は知っておかないといけないとは思いますね。同じようなことは、『古事記』にも言えます。日本人なのに日本神話や国の始まりについての説話を知らないというのは大問題でしょうね。何も神話を教え込んで、信仰させようというのではなくて、どのように語られ説明されてきたかは、知っておかないといけません。

 

陽一:微積分の難問が解けてもアダムとエバの話は知らないというのはたしかにいびつです。

神話教育や宗教教育は慎重にしないと近代国家の政教分離原則に抵触するということもあったのですが、基礎知識はきちんと教えておかないと、逆に狂信的な人々を生み出すことにもなりかねませんからね。

 

榊:「土から」という意味の「アダム」が作られます。この発想は、アルケーは「土」ということかもしれません。といいますのは、「天地創造」の部分は紀元前四世紀ぐらいにできたということなので、古代ギリシア思想の影響も考えられるからです。

智子:「土から生まれて土に返る」という発想は天国とか来世の否定とも受け取れますね。

 

陽一:天国というのは、超越神信仰からきたのでしょう。神はこのコスモス(世界・宇宙)から超越していて、コスモスを創造されたわけです。それじゃあ、その神はどこにいるのということで、コスモスから超越した天国にいるわけです。生物も人間も被造物だから天国には住めないわけで、死んだら天国に行くなんて信仰は元々なかったのでしょう。

 

智子:来世というのも明確じゃあないですね。

 

榊:『バイブル』は聖典だからそういう宗教的な教義が書いてあると思っている人が多いのですが、実はヘブライあるいはユダヤ民族の記録や伝承そして預言者の活躍などを記した書物を集めたものでして、一貫した教義が明確に読み取れるかどうか難しい面もあるわけです。

例えば、『旧約聖書』で昇天の例はエリヤしかないのです。『新約聖書』ではイエスだけです。『クルアーン』のムハンマドとあわせても三人しかいないということですね。ですから死んだら天国なんてことではないわけです。

 

陽一:じゃあ来世はどういう意味なのですか。

 

榊:死んで次の世に天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄のいずれかの境涯になって生まれるという発想はサンサーラ(輪廻転生)の考え方です。これはヘブライの来世とは違います。ヘブライの来世は審判思想と結びついています。それが明確に書かれてあるわけでなく、預言者の夢想みたいなもので語られるのです。ですからユダヤ教の教義として確立しているとは言えませんね。

 

智子:それが最もはっきりしているのが『クルアーン』ですね。天使のラッパと共に終末の日がくれば、すべての死者は蘇らされるのでしょう。そして生前に律法を守っていれば、パラダイスそうでなければゲヘナ(地獄谷)の二つに一つというわけですね。それが未来永劫に続くわけです。つまり来世というのは、パラダイスかゲヘナしかないということですね。

 

陽一:そこがイスラムの優れたところで、教義が明確なので信仰しやすく、狂信化して来世のパラダイスが保障されているということでジハド(聖戦)で死のうとするのですね。

 

榊:アダムは神の似姿ということです。つまり人間は神のそっくりさんなのです。だから神はアダムに言語能力や理性を与えたのでしょう。そして地上支配権を与えたということです。

 

智子:言語神授説というのは王権神授説とまぎらわしいですが、言語を神に教えてもらったのではなくて、名づけの能力をアダムは授けられていて、獣たちに名づけをしたということですね。このことは人間の本質として言語能力を捉えているということですね。

 

陽一:「創世記」で神が人間に自然支配権を与えたということが、人間が自然を破壊する原因になっているという批判があります。でも決して人間が自然を破壊してもよいと言ってるわけではなくて、人間が理性をもっているのだから、しっかり理性でもって自然を管理しなさいということでしょう。それを私利私欲のために自然を破壊すれば、自然は人間環境なのだから人間自身の首を絞めることになるわけです。

 

榊:神はアダムが一人でいるのが淋しいからと獣を作って相棒にしようとしますが、気に入らないので、あばら骨を一つとってエバを作ります。男と女は元は一つの体だったから互いに求め合うのだという説明です。

 

智子:男の体の一部から女ができるということは、父と娘という関係でもあるということで、アダムとエバの関係から父と娘の潜在的な性的衝動をアダム・エバコンプレックスとして先生は説明されていましたね。

 

榊:フロイトが唱えていれば、広がったと思いますね。だって息子の母親に対する潜在的な性的衝動より、父親の娘に対する方が強いでしょうからね。アメリカなどではよく問題になっているようですよ。

 

智子:次に禁断の木の実についての堕罪の話で、いわゆる失楽園ですね。これが最も宗教的にはメインテーマですね。蛇が仕掛け人というかトリックスターとして活躍します。蛇はサタンだというのは間違いなんですか?

 

榊:一つの解釈ですね。「創世記」にそう書かれてあるわけではありません。蛇はアダムやエバの欲望が、全く変化のないエデンの園の倦怠感の中で、対象化され自立して生き物の姿になったものだと解釈できるかもしれません。

 

陽一:蛇の方が先に善悪を知る禁断の木の実を食べていたと解釈されていましたね。蛇は食べても死なないという事実を言ったまでで決して騙したり、誘惑したりしていないということで、蛇無実説を先生は称えられていますが、としたら蛇は大変とばっちりを受けたことになります。

 

榊:やはり背景には、蛇が石とならんでフェティシズムの対象だったことから、元々が石信仰だったヤハウェには蛇へのライバル意識があって、悪者扱いしていたといえるかもしれません。

 

智子:ともかく蛇の誘惑というのは、蛇のせいにはできないので、蛇のせいにするのはまったくの責任転嫁ですよね。ただ人間には言語能力があって、そこからイマジネーションが膨らんで欲望がどうしても肥大化してしまうところがありますから、どうしても禁断の木の実を食べないとおれなくなったというのはよく分かります。罪に堕ちて、エデンの園から追放されるというのは、子宮の中で保護されていた胎児が誕生するようなもので、イニシエーション(通過儀礼)とも受け取れますね。つまり本当の意味での人間の誕生は、失楽園から始まるわけです。

 

陽一:その意味で楽園では気候や環境がよくて何も働かなくても食べていけたけれど、「エデンの東」では働きづめに働かないと生きていけない、働くことは神に背いた罰だということになります。働かないと生きていけないということで、労働が人間の本質に据えられるということですね。

 

榊:しかもその労働によって、人間は自己のわがままかってに生きるのではなく、エゴを殺して、自然と一体になって生きることを学びます。これが勤行としての労働ですね。そのことによって自然の主体としての真実の自己に目覚めるということです。

 

         第四話 オイディプスの闇
   

               真実を見えぬ眼を抉り出し見据えし闇は神も侵せじ

智子:「オイディプスの闇」はきつかったですね。バーチャル劇だから本気で運命と向き合わなくちゃならないでしょう。息子を捨てて、その息子に夫を殺されたとも知らずに、その息子と結婚し、不義の子を作ってしまったことが分かって、パニックになって首をくくるって役でしょう。普通の神経の子だったら発狂してましたね、きっと。私は神経が図太いのかしら。陽一:きっとバーチャル劇では、そういう精神的な衝撃に耐えられるような工夫があるのでしょうね。ぼくなんかオイディプス王ですから、目玉をくり抜くわけですよ。上村 陽一がそんなことできるわけがありません。でも本気でオイディプスの気持ちになっているから、できたわけですね。ライオス王の一行を殺すことだってできた。

 

榊:虫けらだって殺せない人がいざ戦争になれば平気で人を何百、何千、何万人と殺すことができるのです。アウシュビッツの収容所ではユダヤ人をきわめて事務的に仕事として殺し、事務的に処理して石鹸を作ったりできたわけです。状況や自分の立場を呑み込んじゃうと、それに適応した神経になってしまうのです。

 

陽一:はじめに三叉路に突然いるのですね。それが自分が誰とも分からない、どの道を選べばいいのか全く分からない、まさしく実存が本質に先立つという実存主義的な人間観です。

一体自分は誰なのか、自分探しというのが、生きるということなんですね。実際、今、バーチャル劇を離れて上村 陽一は実存しているけれど、名前が分かっても、所属が分かっても、身分や地位や職業が分かっても、でも自分が誰かはやっぱり分からないというようなことはあると思うのです。やっぱり自分探しをしなくっちゃあということです。だからやはり突然、三叉路にいるということです。でもそれはとても危険なことだし、他人にも邪魔で迷惑なことなんですね。それで突然鞭が飛んでくる、こちらは頭に血が昇って前後の見境がなくなった。気がついたら四人も殺してしまっていた。


智子:陽一君、大丈夫?フラッシュ・バックしてるんじゃない?生身の人間にバーチャル劇はきつすぎるかもね。だって本気で殺してしまっているのでしょう。

陽一:それが不思議に大丈夫なんだ。そこがちょっと嘘くさいけどね。

榊:オイディプスはスフィンクスという怪物に声をかけられる。そして謎々を解けなきゃ人身御供といわれて、こりゃ退治しなきゃということで、「二本足にして四本足にして三本足はなあに?」というのに「人間」と答えたら、スフィンクスは崖から飛び降りて死んでしまう。それでテーバイに英雄として迎えられ、王が亡くなったので、お妃と結婚して王に納まり、善政を施して、人民に慕われ幸福な十五年を送るんだ。

 

智子:その幸せな十五年が飛んでるわけでしょう。それで不幸な部分だけ演じさせられるって残酷よね、陽一君。

 

陽一:智子さんにそう言ってもらえるだけで十分幸せですよ。婚礼のめくるめく一夜が醒めたと思ったら、十五年が過ぎて、疫病がはやり、テーバイは滅亡の危地にあるわけでしょう。その原因が先王を殺した犯人がこの町にいるからだというわけです。その犯人を殺すか追放するかしなければならないというので、犯人探しをするのです。その結果自分が犯人だったと分かるのですが。

 

榊:オイディプスはコリントスでポリュボス王の実子として育てられたのですが、実は実子ではないという噂があって、それで気になってアポロン神殿に伺いを立てると、それには答えず、父殺し、母子相姦の予言をされます。それでコリントスを逃れるのですが、その結果、運命の三叉路に立ってしまっていたわけです。つまり運命を避けようとする行動を利用して運命は自己を貫徹するということですね。

 

智子:それはオイディプスの父ライオス王も同じです。息子に殺されて、妻と相姦するという予言が当たらないようにするために、息子を家来に殺させようとしますが、家来は殺さずに留金で足を刺し貫いてキタイロンの山に捨てたところ牧場番拾われて、結局コリントスのポリュボス王に育てられることになるわけですから。

 

陽一:バーチャル劇で納得できないことなのですが、あまりにも筋書き通り演じてしまいすぎてませんか。イオカステが自殺するのだって、オイディプスが両目をつぶすのだって、同じ状況になっても、演じている人によって反応が違って当然なのに原作通りというのは変ですね。不自然ですよ。何か嘘くさいんだな、バーチャル劇ということが、有り得ないというか。

 

榊:それは予め原作をインプットしてあるんだ。それは普段は忘れているのだけれど、その状況になると繰り返さざるを得ないようなマインドコントロールの役目を果たすわけです。

もちろん一字一句同じ台詞をしゃべるわけじゃないし、演じ手によってはマインドコントロールが効かない場合もあり得るとは思うけれど、君たちの場合は筋書き通りだったのです。

 

智子:でも今は二十一世紀でしょう。それほどマインドコントロールできる技術があるとは信じがたいですね。

 

陽一:実は榊周次は魔法使いだったりして。魔法使いと考えれば辻褄は合うけど、それこそ有り得ないことですね。それはさておき、オイディプスは開いていても真実は何も見ることができなかった自分の両眼を抉り出し、闇を見据えて生きることになります。この闇こそ自我の自覚だというのですが、それは実感としてはひしひしと分かるのですが、言葉では説明できませんね。

 

智子:神々も侵すことができない聖なるもので、順逆の道を歩み、人の道を踏み外して初めて到達した闇でしょう。それは何者にも侵されない主体の確立だということですね。でもそれが闇でしかないとは、なんて悲惨なの。

 

陽一:それが「汝自身を知れ」というアポロン神殿の標語に対する応答なのですね。そして実はオイディプスという名前が「私は自分を知る」という意味だったというのはすごいですね。ちゃんと落ちになっている。

 

      第五話 プロタゴラスの人間論
 

            戒めの徳を蔑する無頼者刑するポリス含みてぞ人

 

智子:プロタゴラスの人間論は楽しかったですね。人間論としてはとてもよくできていて、感心しました。駄洒落も馬鹿馬鹿しくて、おもしろかったし。

 

陽一:悲劇の後は喜劇で助かりましたよ。プロタゴラスは「徳は教えられるか」というソクラテスの質問に対して、それには人間とは何かが分からなくてはならないからと、人間とは何ぞやを展開したのです。それも見事に神話の形で。神話というものが、物事の説明にうまく使われていますね。本人はオリュンポスの山に神々が住んでいるなんて信じていなかったのに。本当に即興的に作ったのでしょうかね。

 

榊:そりゃあ分かりません。プラトンの対話はあくまで哲学の展開のためですから、どこまで実際にあった饗宴を反映しているかは分かりません。ただこのプロタゴラスの神話は実に見事で印象的ですから、その場にいた人は全部覚えている筈です。ですからプラトンがこれを悪く改作したら、プラトンの信用がなくなりますし、よく作り変えすぎますと、ソクラテスに不利になりますから、おそらく主旨は正確に伝承しているのではないでしょうか。人間論自体が即興かどうかも分かりません。別の問いに対する応答でも使えないことはないでしょうから。

智子:神話はプロメテウス神話を創作していますね。「先立つ思考」という意味のプロメテウスは人間の想像力や構想力の神です。弟の「後立つ思考」という意味のエピメテウスは反省や後悔の神です。神々が獣たちを土と水をこねて作ったときに、仕上げとしてそれぞれにサバイバルできるような特色を与える仕事を、この兄弟の神は命じられます。その仕事を弟エピメテウスは一人でやらしてほしいと頼んだので、プロメテウスは任せたわけです。それでエピメテウスは猛獣には爪や牙、鳥には翼などを与えて、弱い動物には繁殖力を与えるなどしたわけです。でも人に与える前に品切れになってしまったのです。プロメテウスは点検にきてびっくりします。これでは人の種族は滅んでしまうということで、火の神ヘファイストスからは火を、智恵の女神アテネからは智恵を盗んで人に与えなんとか生き延びられるようにしたということです。

 

陽一:この兄弟神はあくまで人間の思考の神ですから、人間自身の想像力や構想力があって、自然の火の使用方法を自然から学び、自然の法則性を見つけ出して利用したということです。プロメテウスの神というのを人間以外の存在と考えてはならないわけですね。そこが果たして理解できたかどうかですね。人間の本質としてのプロメテウス、エピメテウスがあり、火の使用や智恵つまり法則性の認識などがあるということです。

 

榊:しっかり授業を聴いてないと分からなかったでしょうね。そしてプロメテウスつまり人間自身の想像力や構想力のおかげで、神を祭ったり、言語を作ったり、創意工夫でいろんな便利なものを作ったりしたわけです。だから宗教・言語・道具使用などという人間本質も捉えているわけです。人間の本質は何かを択一論として論じるのではなく、総合的に人間を把握使用としていてスケールが大きい議論ですね。

 

智子:しかもそこまでは前置きで、本論はここからですね。人間はばらばらでは獣たちにかなわないし、侵略者や略奪者から身を守れません、そこで集住してポリスをつくって集団で身を守ったのです。でもわがままだったので、すぐ互いに争ってばらばらになり、また滅亡の危機に陥ります。そこでゼウスの神がヘルメス(使者)の神を人間に遣わし、戒めと慎みという徳を全員に授けるように命じたのです。みんながポリスの団結を第一に考え、互いのわがままを抑えないと、ポリスはつぶれてしまいます。だから戒めと慎みの徳をどうしても身につけられない人はゼウスの名によって死刑にすると宣言したのです。

 

陽一:つまり社会性の徳を身につけられないということは、社会人として生きていけないということで、そういう人は人間失格だということですね。「人間はポリス的動物である」というアリストテレスの人間論をプロタゴラスはとっくに主張していたわけです。しかもそのポリスは社会性の徳を全員に身につけさせなければならないし、身につけられない者を死刑にできるだけの権力装置を持たなければならないということですね。そういうポリスも含めて、人間というものを包括的に捉えているわけですから、現代の人間論の水準を超えているといえるかもしれませんね。

 

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